思い違いをして御国を相続できないクリスチャン

礼拝メッセージ
コリントの町の中央に立つアポロン神殿の遺跡
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クリスチャンは、イエス様を信じたので誰でも罪赦されて天の御国に入れる、または、神の国、御国を相続できる、という話をよく聞きます。相続ですから、神の国で様々な祝福(永遠の安息・いのち)を自分のものとして受け取るということですが、クリスチャンは皆、どんな人でも御国を相続できるのでしょうか。今日の聖書箇所を見ると、コリントの教会には、淫らな者、奪い取る者、からだを汚す者など、正しくない人がいて、彼らはクリスチャンと言われている人でした。しかし、このような人たちは、大変な思い違いをしていて、御国を相続できない(Ⅰコリント6:10)とはっきり書かれています。

聖書箇所 コリント人への手紙第一6:9-11

6:9 あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
6:10 盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。
6:11 あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

1.御国に入れる人と入れない人

イエス様は言われました。

ヨハネの福音書 3:3,5
3:3「人は、新しく生まれなければ、神の国をみることはできません。」
3:5「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」

これはイエス様がイスラエルの教師ニコデモとの対話で語られたことばです。ユダヤ人は、選民だから生まれながら(水によって生まれる)、神の国に入れると思っていたようですが、新しく生まれなければ、御霊によって生まれなければ神の国には入れないというのです。選びの民であっても、キリストを信じる信仰によって、御霊をいただいて(霊が)新しく生まれなければ神の国に入れないのです。神の国に入るには先ずキリストを信じる信仰が必要なのです。これは、私たち異邦人にも言えることで、親がクリスチャンだから、家がクリスチャン家庭だから自動的に救われる(クリスチャンとなる)のではなく、一人ひとりがキリスト・イエスを信じる信仰によって救われることを表しています。キリストを信じて新しく生まれる、これが大前提となります。

その上で、今日の聖書箇所を見ると、イエス様を信じてクリスチャンになった、しかし、信じる前の正しくない生活を続けている者は神の国に入れないと書かれています。御霊を受けて御霊によってきよめられていない(聖化の歩みに入っていない)ので、以前からの正しくない生活や悪習慣から抜け出せていないのです。このような人は、イエス様がタラントのたとえで話された悪い怠け者のしもべのように(マタイ25:14-30)、御国には入れず、御国の外の暗闇で泣いて歯ぎしりすることになります。

イエス様を信じて、自分はもう救われたと思っていた人には、話が違うではないかということになりますが、そういう人は、大変な思い違いをしているのです。この大変な思い違いについて、第Ⅰコリント5章から6章にかけてパウロは「あなた方は知らないのですか」と7回も声を荒げて? 例を挙げて指摘しています。

2.悪意と邪悪のパン種

悪はエスカレートする

Ⅰコリント 5:6
あなたがたが誇っているのは、良くないことです。わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。

これは、「父の妻を妻にして」いるという、異邦人(真の神を知らない民)の間にもないような淫らなことをしている信徒がいる(5:1)のに、教会はその信徒を排除することもせずに、何も問題はないと目をつぶっていることへの批判です。問題を放置することは、パウロの目には思い上がっていると見えるのです。

当時、コリントの社会は一夫多妻制でしたので、父には何人もの妻がいて、成長したこどもの中には継母や義母を妻にした者がいたようです。はじめはちょっとした思いだったものがどんどん大きくなり、ついには抑えきれなくなり、「父の妻を妻にする」という人の道に外れた、淫らな状態になったというのです。わずかなパン種とは、「悪意と邪悪のパン種」のことで、これがこねた粉全体を膨らませるとは教会に蔓延するということです。 パウロは、体は離れていても、目をつぶることなくそのような者をさばいています。

Ⅰコリント5:3-5
5:3 私は、からだは離れていても霊においてはそこにいて、実際にそこにいる者のように、そのような行いをした者をすでにさばきました。
5:4 すなわち、あなたがたと、私の霊が、私たちの主イエスの名によって、しかも私たちの主イエスの御力とともに集まり、
5:5 そのような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それによって彼の霊が主の日に救われるためです。

パウロはそのような者をサタンに引き渡したと書かれています。つまり、教会から追放したのです。教会の祈りのサポートが無くなることで、神の守りが無くなり、ヨブのようにサタンによって災いや病気がもたらされることになります。しかし、その苦難を通ることによって、悔い改めに導かれ、たとえ肉体は滅んでも、霊は救われるようにと意図しているのです。

イエス様が語った「パン種」

イエス様もパン種にはくれぐれも注意するようにと言われました。

マルコの福音書 8:15
そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」

パリサイ人のパン種とは、偽善のこと(ルカ12:1)。パリサイ派の教師は、律法学者らとともに律法を民に教えていた霊的な指導者です。しかし、その教えは、モーセの律法を曲げて口伝律法を重視し、神への信仰から離れ、人間の行いによる救いを人々に教えていました。その教えはどんどんエスカレートし、モーセの律法をはるかに超えた戒めを作り出し、それを民に守るように教えています。結果、自らも負えない重荷を民に負わせることになっていました。イエス様は、パリサイ人を律法学者同様偽善者と叱責されています。

ヘロデのパン種とは、強欲のこと。ヘロデ王はユダヤ人ではなく、イドマヤ人(エサウの子孫)です。ローマ帝国から委任されて、ガリラヤ地方の国主としてイスラエルの民を支配し、搾取していました。また、そのヘロデ王の手下となり、権力に巣くって甘い汁を吸っていたユダヤ人グループがヘロデ党です。

「パリサイ人のパン種」と「ヘロデのパン種」、どちらも神を信じる信仰から人々を離れさせ、堕落させる偽善と強欲のパン種で、少しでも入ったら、知らず知らずのうちにどんどん大きくなり、自制できなくなる。どんな大きな罪もはじめは小さな罪(パン種)から始まる。だから、パウロはパン種を教会から取り除くように言っています。

3.クリスチャンは御国の裁き司

信徒間のもめごとを仲裁する責務

Ⅰコリ6:1-3
6:1 あなたがたのうちには、仲間と争いを起こしたら、それを聖徒たちに訴えずに、あえて、正しくない人たちに訴える人がいるのですか。
6:2 聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
6:3 あなたがたは知らないのですか私たちは御使いたちをさばくようになります。それなら、日常の事柄は言うまでもないではありませんか。

6:1に出てくる「正しくない人」とは、不正をしている人という意味ではなく、未信者のことです。神から離れている人は、神の目には正しくない罪人です。その罪人の未信者に、罪赦されて義とされたクリスチャンが訴えるのかというのです。当時の社会は、今のように人権が確立し、法によって正義がなされる世界ではありません。権力者が法となり、権力者の考えで判決が出される社会です。ですから、未信者へ訴えるということは、クリスチャンの価値観(愛と義)と違う価値観(利益・欲)で裁かれることになります。そこでは、正義が行われてはいなかったでしょう。

教会内のもめごとは教会内で裁くように、クリスチャン同士のもめごとはクリスチャンが解決するようにとパウロは言っています。やがて、神の国、御国が来た時には、クリスチャンが世界を裁くようになる。その時には人間だけでなく、御使い(堕天使のこと)をも裁くようになる。だから、今の日常のことなど裁けるはずだし、愛と義によってもめ事を裁かなければならないということです。

御国での立場

ヨハネの黙示録をみると、イエス様再臨後の御国では、死に至るまで信仰を守ったクリスチャンが千年の間王となって世界を裁くことが預言されています。

ヨハネの黙示録 20:4,6
20:4 彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。
20:6 彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。

ただ、ここで注意しなければならないのは、今の世で、私たちクリスチャンが人を裁くのだ、ということではありません。人を裁く方は裁き主、神お一人です。あくまで、もめ事を仲裁する、ということです。

4.正しくない者は神の国を相続できない

Ⅰコリント 6:7-10
6:7 そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。どうして、むしろ不正な行いを甘んじて受けないのですか。どうして、むしろ、だまし取られるままでいないのですか。
6:8 それどころか、あなたがた自身が不正を行い、だまし取っています。しかも、そのようなことを兄弟たちに対してしています。
6:9 あなたがたは知らないのですか正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
6:10 盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません。

クリスチャン同士で解決せずに、互いに訴え合うまでになるとは、邪悪のパン種が入っているのでしょう。クリスチャンの忠告を受け入れないどころか、相手のことなど思いやらず、自分の利益だけを求め、自分だけが正しいと主張するのは、まさに高慢の現れです。

箴言12:15(新改訳改訂3)
愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。

あくまで自分が正しいと押し通すことで、結果として相手から奪い取ることになり、“自身が不正を行い、だまし取る”ことになります。名誉欲、金銭欲が高じてそうさせるのでしょうが、こうなると、もうサタンの支配下に入っています。
サタンは「告発者」、「訴える者」(黙示録12:10)であり、欺く者です。神と神の民に反抗する者です。クリスチャン同士で解決せず、未信者に訴える者はサタンと同じことをしているのです。更に言えば、訴えて、だまし取る者は、偽り、盗み、むさぼる者で、サタンのしもべ(Ⅱコリント11:15)となっているのです。

Ⅰコリント6:11
あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

「しかし、キリストの御名と神の御霊によって、洗われ、聖なる者とされ、義とみとめられた。」と書かれています。以前は罪の中を歩んでいたのでしょうが、思い直してください、今はクリスチャンとされた者です。キリストの御名(=キリストの権威、キリストを信じる信仰者に注がれる力)と神の御霊(=聖霊の力)によって、「洗われ」(罪が洗い落とされ)、「聖なる者とされ」(神の民に聖別、取り分けられ)、「義と認められた」(神の目には罪がないとされた)のではないですか。自分の力で得たのではなく、神から受けた、与えられた恵みであることを思い起こしなさい、そして、救われた者として相応しい歩みをしなさい、とパウロは言っているのです。高ぶることなく、へりくだって、恵みに感謝しつつ、神のみこころを行いなさい、と。

イエス様も言われました。

マタイ7:21
わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

クリスチャンであっても盗む者、貪欲な者、奪い取る者は、神の国を相続することはできません。父のみこころを求めてみこころを行う者が御国にはいるのです。

5.クリスチャンのからだはキリストの一部

身勝手な解釈で、からだを汚す者

Ⅰコリント 6:15-17
6:15 あなたがたは知らないのですかあなたがたのからだはキリストのからだの一部なのです。それなのに、キリストのからだの一部を取って、遊女のからだの一部とするのですか。そんなことがあってはなりません。
6:16 それとも、あなたがたは知らないのですか遊女と交わる者は、彼女と一つのからだになります。「ふたりは一体となる」と言われているからです。
6:17 しかし、主と交わる者は、主と一つの霊になるのです

エペソ人への手紙では、「教会はキリストのからだ」(1:23)であり、私たち一人ひとりによって建て上げられている(4:12)と書かれています。キリストを信じる、私たち一人ひとりの信仰生活をとおして、キリストが表わされていくのです。しかし、ここではもっと直接的に私たちのからだ自体がキリストのからだの一部だと書かれています。ですから、そのからだで遊女と交わるなんて、とんでもないことなのですが、コリントの教会にはそのような人たちがいました。

当時のコリントの街は、エーゲ海(ギリシャ)とアドリア海(ローマ)との接点となる交通の要衝で、船乗りが集まる商業都市でした。街の中央にはギリシャ神話の女神アフロディーテ(元はフェニキアのアシュタロテ)を祀る神殿があり、ここには千人以上の神殿娼婦がいたそうです。
「コリント化する」という言葉は「不道徳を行うこと」を意味するほど、街自体が不道徳なところだったようです。そのような社会の中で、信仰を持った人たちでしたが、信仰を持った後でも遊女通いをする者がいたのです。

彼らは、「すべてのことが私には許されている。」(6:12)と思い違いをしていました。キリストを信じたことで、罪赦され(=信仰義認)、様々な戒めの律法から自由にされているので、何をしても良いという考えです。これは、信仰義認の間違った解釈、悪用です。結果、遊女と交わっても罪にならない、という身勝手な解釈で自己を正当化しているのです。そして、「私はどんなことにも支配されません。」(6:12)と言いながら、実際は遊女の虜、欲望の奴隷になっているのです。

また、「食物は腹のためにあり、腹は食物のためにある」(6:13)という言い伝えを盾にしていた人もいたようです。これは、食物も腹(体)もこの世限りのもので、永遠のことには関係ないというグノーシス思想に影響された考えです。遊女と交わっても、この世のからだのことだから、永遠のたましいの救いとは関係ないと思い違いをしているのです。しかし、神はたましいもからだもどちらも滅ぼされます(6:13)。

イエス様も言われました。

マタイ 10:28
からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい

6.クリスチャンのからだは聖霊の宮

Ⅰコリント 6:19
あなたがたは知らないのですかあなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。

私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰によって救われましたが、この救いは私たち自身の努力や力によって得たものではなく、御霊と御力の現われによる(Ⅰコリント2:4)のであって、神からの恵みによるものでした。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません」(第Ⅰコリント12:3b)とあるように、イエス様を救い主と信じることができるのも、聖霊の働きによるのです。それまで、サタンの影響下にあって神から離れていた状態から、聖霊が内住される状態になったのです。神の御霊、聖霊が私たちの内に住まわれるのなら、私たちのからだはもはや自分自身だけのものではありません。

もし、救われた後でも、好き勝手に淫らなことを行うなら、「自分のからだに対して罪を犯す」(6:18)ことになり、聖霊に対して罪を犯すことになります。私たちのからだは、神のきよい御霊、聖霊が住まわれる、聖霊の宮なのです。

<結論> クリスチャンは神の栄光を現す器

Ⅰコリント 6:20
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。

ここまでパウロは7回も「あなたがたは知らないのですか」と叱責し、思いちがいを指摘し、本来のクリスチャンの姿を認識できていない聖徒たちに悔い改めて意識を変えなさいと語ってきました。そして締めくくりとして「あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」と結んでいます。

そうです、クリスチャンは代価を払って買い取られたのです。神の御子、「イエス様のいのち」という測り知れない代価を払って神が買い取ってくださったのです。滅びに向かっていた罪人の私たちを買い取るためには、罪のない神の御子のいのちを犠牲にしなければならない、それほどに、神から離れていた罪は重いのです。

しかし、見方を変えれば、私たち一人ひとりは、それほどに神の目に尊い存在だということです。6:20の「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」の後に、「あなたがたはそれを知らないのですか」とパウロは言いたかったと思います。もし、自分自身を愛せない人がいるなら、自分の自己像が低い人がいるなら、神が御子を代価にしても買い取りたかった尊い存在だということを再認識してほしいと。

そして、それほどに神の愛が注がれているのを理解したのなら、「自分のからだをもって神の栄光を現しなさい」と迫っています。

神の栄光を現すとは、どういうことでしょうか。

マタイの福音書 5:16
あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。

イエス様が弟子たちに、御国を受け継ぐ者(クリスチャン)は、地の塩、世の光ですと話された時のことばです。(参照:「心の貧しい者は幸いです」) クリスチャンとして、神を信じる信仰者として、自分自身のように隣人を愛する心を持って、周りの人へ良い行いをしていくことで、回りからの賞賛、光栄を受け、それが神に栄光を帰することになり、生ける神を証しすることになります。

しかし、それだけではありません。もう一つ、神の栄光を現すことがあります。
イエス様は十字架にかかる直前、弟子たちにこう言われました。

ヨハネの福音書 12:23-24
12:23 イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
12:24 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。」

この後、ご自身が十字架にかかることを知っておられたイエス様は、十字架にかかり死ぬことが人の子(イエス様)の栄光であると言われたのです。むち打たれ、ズタズタにされ、血みどろになって木に掛けられ、見るも無残な姿になることが、イエス様の栄光だというのです。人類の罪を贖うためには、罪のない聖なる神の御子のいのちを代価として捧げること、しかも、全ての罪の呪いを引き受けるために、木に掛けられて呪われた者となることが必要なのです。イエス様は、世の罪を取り除く神の子羊としてこの世に来られました。十字架にかかること、そして、そのイエス様の十字架を信じるすべての人に救いをもたらすこと、これがイエス様の栄光なのです。
ならば、救い主イエス様を、まだイエス様を知らない人に伝えることが、神の栄光を現すことになるのではないでしょうか。

世の人は、イエス様が人であっても、神の御子(=神)であることは知りません。
世の人は、十字架にかかったことは知っていても、3日目によみがえった事実は知りません。
そして、世の人は、イエス様が再び、今度は裁き主としてこの世に来られることを知りません。
「あなた方はこの真理を知らないのですか」とイエス様を証ししていきましょう。

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