史上最大の冤罪

この人をみよ 礼拝メッセージ
エッケホモ(この人を見よ)教会のステンドグラス
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聖書箇所: ヨハネの福音書 19章10節~16節

19:10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
19:11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」
19:12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」
19:13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語ではガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
19:14 その日は過越の備え日で、時は第六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
19:15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
19:16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。

エルサレムの2階座敷で最後の晩餐となった過ぎ越しの食事を終え、大祭司の祈りをして弟子たちを祝福された後、イエス様はいつものようにゲッセマネの園に行かれます。旧市街から降りてゆく石段は、今も2000年前に、イエス様が歩かれたそのままの状態で残っています。

旧市街からゲッセマネへいく石段 キリストと主に下る弟子たち
ゲッセマネの園に入られると、この後ご自身の身に起こる苦難を覚え、血の汗が滴る壮絶な祈りをされました。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と。
ゲッセマネの園1 ち
そして、時が来ました。イスカリオテのユダに率いられた一団がやってきてイエス様を捕らえ、大祭司のもとへと連行していきます。ゲッセマネの園に来るときに下ってきた同じ石段を、今度は大祭司の官邸に向かって上っていきます。
ゲッセマネから上る石段 連行される

この後、6回にわたる裁判を経て十字架となるわけですが、今日はこの裁判、史上最大の冤罪裁判をとおして、なぜイエス様が十字架にかからなければならなかったのかを考えていきます。

1.6回にわたる裁判

①大祭司アンナスの審問

・イエス様はまず、大祭司アンナスのところに連行されます。そこにペテロともう一人の弟子がついていきますが、もう一人の弟子とはヨハネのことです。この弟子は大祭司の知り合いだったので、そのコネで官邸の中庭に入ることができました。ヨハネはガリラヤの漁師ゼベタイの子です。父ゼベタイは有力な網元だったようです。

・早速、大祭司アンナスの尋問が始まりますが、これは夜中に行われているので、モーセの律法によれば裁判は明るい時に行うとあるので、不法な裁判です。イエス様は、弁明については、会堂や宮でイエス様の語ることを聞いた者たちから証言させよと答弁をして、下役の反感を買い、平手打ちをされますが、律法には本人ではなく、他の2名以上から証言させよとあるので、実は律法に則った答弁です。

・結局、大祭司アンナスはイエス様から有罪にできる言質を取ることができず、大祭司カヤパのところにイエス様を縛ったまま送ります。大祭司カヤパの官邸跡地には現在、鶏鳴教会が建っています。

カヤパの官邸跡地にある鶏鳴教会

②大祭司カヤパの審問

・カヤパはアンナスの娘婿で、この年ローマ帝国からアンナスに代わり大祭司に任命されていました。それまで大祭司だったアンナスの汚職がひどく、カヤパをこの年の大祭司に任命したようですが、律法によれば、大祭司は終身制なので、アンナスも大祭司と呼ばれています。

・そのカヤパは、イエス様殺害をユダ人たちに助言した人です。
ヨハネの福音書18:14「1人の人が民に代わって死ぬほうが得策である。」
これは、イエス様が、死んで4日経っていたラザロを生き返らせたときのこと。群衆がみなイエス様を信じるようになったため、指導者たちがイエス様への対処をどうしようか協議した中での発言です。カヤパは、個人的にはイエス様を殺したかった。しかし、このことを発したのは、カヤパが大祭司であったので、イエス様が民のために死のうとされていることの預言であったと、ヨハネの福音書11:47-52に書かれています。

・この審問では、カヤパはイエス様から有罪にできる言質を取ることはできませんでした。

・このアンナスとカヤパの審問の間、ペテロは中庭で炭火にあたっていましたが、女中たちやしもべたちに詰問され、イエス様を3度知らないと否定してしまいました。すると、すぐに鶏が鳴き、「あなたは鶏が鳴く前に3度わたしを知らないと言う」とイエス様が言われた預言が成就しました。鶏鳴教会には、ペテロが3度否定したことのモニュメントがあります。

ペテロ3度の否定

 

③最高法院(サンヘドリン)の裁判

・夜が明けると、大祭司カヤパは最高法院(サンヘドリン)を招集します。大祭司カヤパが議長なので、イエス様を有罪に貶めるように仕向けていきます。ヨハネは記していませんが、ルカの22章にその内容が書かれています。

ルカ22:66-71 夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まり、イエスを彼らの最高法院に連れ出して、こう言った。「おまえがキリストなら、そうだと言え。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。だが今から後、人の子は、力ある神の右の座に着きます。」彼らはみなで言った。「では、おまえは神の子なのか。」 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」 そこで彼らは「どうしてこれ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と言った。

・こうして、最高法院では、イエス様が自分を神の子としたことで、神を冒とくした罪により死刑に定めました。ところが、ここで困ったことが起きています。実はこの数か月前に、ローマ帝国は、ユダヤ人が死刑を執行することを禁止していたのです。ユダヤ人たちは、正式な裁判でイエス様を死刑に定めました。しかし、死刑を執行できないのです。因みに、もしユダヤ人が死刑を執行しようとすれば、その場合は石打の刑です。少し前に8章で姦淫の女を裁く場面がありましたが、その時も石打の刑にしようとしていました。

④ピラトの裁判第1回目

・そこで、ユダヤ人たちはローマの総督ピラトに申し出て、イエス様を死刑にしてもらおうとしたのです。彼らは、イエス様が自分をユダヤ人の王としたと訴えました。ローマ帝国に対する反逆罪という訴えですが、ピラトには有罪とは思えず、宗教的な理由とみて、自分たちで裁けと突き放しました。ところが、ユダヤ人たちは、自分たちは誰をも死刑にすることが許されていない、とピラトに訴えます。そこでピラトはイエス様を審問しますが、他の福音書を見ると、イエス様がガリラヤ出身とわかり、その時、ガリラヤの国主ヘロデが祭りのためにエルサレムに来ていたので、ヘロデのところにイエス様を送ります。

⑤ヘロデの裁判

・ヘロデの裁判は、ルカの福音書23章に書かれています。このヘロデは、バプテスマのヨハネの首をはねた、あのヘロデ・アンティパスです。ヘロデ自身もイエス様に会って、いろいろな奇跡を見せてもらおうと思ってイエス様を尋問しますが、イエス様は一言もお話しにはなりませんでした。何も聞きだすことができなかったので、ヘロデはピラトのもとにイエス様を送り返します。

⑥ピラトの裁判第2回目

・ピラトは、ヘロデから送りかえされてきたイエス様の裁判を再開しますが、ピラトにはイエス様が有罪とは思えず、何とか釈放しようとします。

・毎年、過越しの祭りでは囚人を1人釈放する習わしがあるので、この恩赦を使って、イエス様を釈放しようとユダヤ人たちに語ります。民の多くはイエス様の釈放を望んでいると思ったからです。ところがユダヤ人たちは、祭司長たちの息のかかった者たちに扇動されて、大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と騒ぎ出します。

・恩赦作戦が失敗したので、今度はむち打ち刑に減刑しようとします。しかし、ユダヤ人たちはむち打ち刑では満足せず、「十字架にかけろ」と騒ぎ出します。

・最後は、この民衆の勢いに押されてやむなくイエス様を十字架に引き渡してしまいます。マタイ27:24を見ると、つぎのようにあります。 ・・・群衆の目の前で手を洗って言った。「この人の血について私には責任がない。おまえたちで始末するがよい」と。

・無実であるとわかっていて、十字架に引き渡したのです。史上最大の冤罪となりました。

このように、イエス様を訴える裁判は6回行われますが、ヨハネの福音書では数字が象徴的に使われています。6という数字は人間を表す数字です。不完全な人間が真理である方を裁くという不条理(道理に合わないこと)を表しているのではないでしょうか。

2.ピラトの裁き

あなたはユダヤ人の王なのか

・第1回目の裁判で、イエス様に「あなたはユダヤ人の王なのか」と聞いた時、イエス様はこのように答えられました。「私の国はこの世のものではありません。・・・わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするため生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」 イエス様は、ピラトへ直接ご自身がメシアであると宣言しています。サマリヤの女の時もご自身がメシアだと明かされましたが、同じようにピラトへも伝道しているのでしょうか? ピラトはこの言葉を聞いた時ただならぬものを感じ始めていたと思います。死刑判決を受けようとしている人の発言にはとても思えないからです。

・真理とは何だ? ピラトの頭の中は?だらけです。当時、ローマ帝国では、ギリシア哲学の影響で、「自分が正しいと信じることが真理」だと考えられていました。この考えは今の時代でもそうです、哲学とはそういうものです、十人いれば十とおりの真理が出てきます。

・しかし、聖書の言う真理は違います。唯一の正しいことです。ピラトは真理とは何かと心に引っ掛かりながらも、裁判を進めますが、この時は、「私は、あの人には罪を認めない」と表明しています。

ユダヤ人の王かバラバか

・この裁判では、ピラトは何度もイエス様には「罪は認められない」と表明するのですが、ユダヤ人たちは納得しません。そこで、ピラトは恩赦を画策します。

ヨハネの福音書18:39-40 「過ぎ越しの祭りでは、だれか一人をおまえたちのために釈放する習わしがある。おまえたちは、ユダヤ人の王を釈放することを望むか」と。すると、かれらは再び大声をあげて、「そのひとではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。

・イエス様より強盗のバラバを釈放せよというのです。イエス様のほうが極悪なのでしょうか。

しかし、この群衆の反応も神様のみこころでした。なぜならバラバは私たち罪人の象徴だからです。イエス様は神の御子です。バラバとはバル・アバの略。父の子という意味です。神の御子イエス様を救い主と信じる信仰によって、私たちは義と認められ、神の子、父なる神の子とされます。神様は御子イエス様を犠牲にしてまで、バラバ(神の子となる私たち)を救いたいのです。ですから、バラバのほうを釈放することが神様のみこころだったのです。

むち打ちの刑

・ピラトは、恩赦作戦が失敗とみると、イエス様をむち打ちの刑に処します。むち打ちでイエス様が血を流すのを見れば、ユダヤ人たちは満足するのではないかと考えたのでしょう。

・当時のむち打ちは、ユダヤのむち打ちとローマのむち打ちがありました。ユダヤのむち打ちは取っ手の先に短い革紐をつけて、それで背中を39回打つもの。背中はミミズばれになります。一方、ローマのむち打ちは取っ手に長い革紐を付け、その革紐の先端にはガラスや骨、金属片がつけられています。回数制限はありません。革紐が体の前に回り込み、皮や肉を引き裂きます。顔も体中、ボロボロとなります。何人も死んだ者がいるそうです。映画パッションを見た方はわかると思いますが、イエス様もおそらく顔もぐちゃぐちゃになっていたと思います。

・ヨハネの福音書19:5で、ピラトは、むち打ちで血だらけになったイエス様を群衆の前に出して、「見よ、この人だ」と言って、これで刑罰は完了とするつもりでした。
ところが、群衆はあくまで十字架につけろと叫んでいます。

この人をみよ

(エッケホモ教会内のステンドグラス)

あなたはどこから来たのか

・そしてこの後、ピラトをさらに恐れさすことをユダヤ人たちが言います。
ヨハネの福音書19:7 「律法によれば、この人は死にあたります。自分を神の子としたのですから。」
この言葉にピラトはますます恐れを感じました。

・前の尋問で、イエス様ご自身が「私の国はこの世のものではない」、そして「ユダヤ人の王であり、真理を証しするためにこの世に来た」とおっしゃったこと。そして、今度は、イエス様が自分を神の子としたとユダヤ人たちが叫んでいる。ピラトはイエス様が普通の人間ではないと感じ始めています。当時のギリシャ・ローマの世界では、神々が人となって現れて人を裁くという話が広まっていました。使徒の働き14:11-12で、パウロとバルナバが、生まれつき足の萎えた人をいやしたとき、人々は神々が人間の姿をとって現れたと言って、バルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼んだとあります。

・そこで、ピラトはイエス様に「あなたはどこから来たのか」と聞きますが、イエス様は一言もこたえられませんでした。

裁く権威

・イエス様が何も答えないので、ピラトは、自分には釈放する権威も十字架につける権威もある、あなたの生死を握る権威をもっているのだぞとイエス様に誇示しています。
それに対して、イエス様は言われました。
ヨハネの福音書19:11「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです」と。

・すべての権威は上から、つまり神様から与えられます。神様から与えられた権威でなければ、イエス様を裁くことはできないと。別の言い方をすれば、イエス様は自らの意志で十字架につくが、それは神様から与えられた計画であり、権威でもあるということなのです。ローマ総督ピラトの権威ではなく、父なる神様の権威によって、十字架につくのだとイエス様は言っているのです。

3.まことの大祭司

大祭司の役割

・アンナスとカヤパの二人の大祭司が最初にイエス様を裁きましたが、大祭司の最も重要な役割は、民全体の罪を神様にとりなし、罪を贖うことです。

レビ記16:19には、大祭司は全ての民の罪を贖うために、年に一度、犠牲の動物の血を携えて幕屋の至聖所に入り、神様に罪の赦しを求め、とりなしの祈りをささげることが書かれています。これは命がけの働きで、やり方を間違えると神様に打たれて死ぬこともありました。

・それに対して大祭司カヤパは、民の罪をあがなうどころか、自分たち宗教指導者たちの利権を守るためにイエス様を死刑にしたのです。そのカヤパが、「1人の人が民に代わって死ぬほうが得策である」とイエス様の殺害を助言したのは、預言であったと同時に、イエス様が民を贖う方、つまり、世の罪を取り除く神の小羊であることのあかしでもあります。

イエス様はとこしえの大祭司

・このように人間の大祭司は、民の罪を贖うどころか、罪のない神の御子を裁くという大きな罪を犯してしまいましたが、自ら十字架にかかられたイエス様こそが、まことの大祭司、それもとこしえの大祭司であると、ヘブル人の手紙に書かれています。

へブル人への手紙9:11-12 「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

真理とはイエス・キリスト

・ピラトは第1回目の裁判の時、イエス様ご自身が真理をあかしするためにこの世に来たと聞きましたが、目の前に真理である方がいるにもかかわらず、この方を受け入れることができませんでした。権力者は権力を身にまとうことで、目が見えなくなっているのです。真理とは、唯一正しいこと、永遠に変わらないことであり、それはイエス・キリストです。

・弟子たちに語られた次のみ言葉が端的に表しています。

ヨハネの福音書14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
イエス様を信じることだけが父なる神様へ至る道であり、唯一の正しいこと・真理であり、これを受け入れた者には永遠のいのちが与えられるというのです。

ヨハネの福音書17:2-3「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです」。
この「知る」という言葉は単なる知識としての「知る」ではなく、自分に関わること、自分のこととして「知る」ということです。イエス様を遣わした神様を唯一まことの神様として認めること、そして、御子イエス様を救い主、全てを支配する方と確信することが、永遠のいのちにつながることなのです。これが真理です。

結び:ピラトの裁判から思わされたこと

・大祭司とピラトらによって行われた6回の裁判。それは罪ある人間が、神の御子を裁くという何とも道理に合わないことでした。裁かれる存在である人間が、全てを裁く権威をもつ神の御子を裁くとは、なんと恐れ多いことでしょう・・・。

・しかし、神の御子が裁かれ、十字架にかかることは、神様のみこころでした。それほどに神様から離れた人間の罪が深いということです。その人間の罪を贖う唯一の方法が十字架なのです。罪深い人間を救うために、罪のない方が、人間の罪を代わりに受けて呪われたものになり、いのちを捨てる。これが贖いです。この十字架の贖いが、義なる神様の救いのご計画でした。

・神様は罪を必ず裁かれる方です。しかし、同時に、憐れみ深い方です。御子を犠牲にしてまでも私たち罪人を救われる方です。すべての人が救い主イエス様を信じて、裁かれることなく永遠のいのちを得てほしいと願っておられます。今、この神様の愛が、私たちに注がれています。

 

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