パウロが命をかけて証しした望み

礼拝メッセージ
最高法院で弁明するパウロ
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最近、ネットなどで「フェイクニュース」という言葉が頻繁にみられるようになりました。辞書を見ると、「虚偽の情報でつくられたニュースのこと」とあります。単純な間違いならまだしも、敵対する者を貶めようと、悪意を持って偽の情報を流す場合が結構あるようです。
今日の聖書箇所は、パウロが3度の宣教旅行で、今で言えばシリア、トルコ、ギリシャに及ぶ地域へ福音を宣べ伝え、エルサレムに戻ってきたときのことです。この時、パウロを待ち受けていたのは、フェイクニュースによって扇動された群衆による迫害でした。エルサレム中が大騒動となり、パウロは殺される寸前で、駆け付けたローマ兵によって保護されました。その騒動の原因究明のために開かれた最高法院での弁明が今日の場面です。

聖書箇所 使徒の働き23:1-11

23:1 パウロは、最高法院の人々を見つめて言った。「兄弟たち。私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。」
23:2 すると、大祭司アナニヤは、パウロのそばに立っている者たちに、彼の口を打つよう命じた。
23:3 そこで、パウロはアナニヤに向かって言った。「白く塗った壁よ。神があなたを打たれる。あなたは、律法にしたがって私をさばく座に着いていながら、律法に背いて私を打てと命じるのか。」
23:4 すると、そばに立っている者たちが「あなたは神の大祭司をののしるのか」と言ったので、
23:5 パウロは答えた。「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはいけない』と書かれています。」
23:6 パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見てとって、最高法院の中でこう叫んだ。「兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」
23:7 パウロがこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に論争が起こり、最高法院は二つに割れた。
23:8 サドカイ人は復活も御使いも霊もないと言い、パリサイ人はいずれも認めているからである。
23:9 騒ぎは大きくなった。そして、パリサイ派のある律法学者たちが何人か立ち上がって、激しく論じ、「この人には何の悪い点も見られない。もしかしたら、霊か御使いかが彼に語りかけたのかもしれない」と言った。
23:10 論争がますます激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと恐れた。それで兵士たちに、降りて行ってパウロを彼らの中から引っ張り出し、兵営に連れて行くように命じた。
23:11 その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言われた。

1.主イエスと同じ道

苦難の予兆

実はこのエルサレムでの迫害は、事前に聖霊によって示され、パウロも予期していました。ギリシャからエルサレムへ向かう途中、アジア州のミレトスというところで、エペソ教会の長老たちにはっきり語っています。迫害が待ち受けているのをわかっていて、あえてエルサレムへ上って行ったのです。

使徒の働き20:22-23
「ご覧なさい。私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます。そこで私にどんなことが起こるのか、分かりません。ただ、聖霊がどの町でも私に証しして言われるのは、鎖と苦しみが私を待っているということです。」

パウロは聖霊によって鎖と苦しみが待っていることを知らされていますが、このことは、主イエスご自身がパウロを異邦人への使徒として召した当初に、はっきりと語られていました。ダマスコ途上で、主の栄光にさらされて、一時的に盲目となったパウロを手当するために遣わされた弟子のアナニヤに主イエスがこう語られています。

使徒の働き9:15-16
しかし、主はアナニヤに言われた。「行きなさい。あの人(パウロのこと)はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」

主イエスからの召命をいただいた時にすでに、使命とともに、苦難の予告もされていたのです。

イエス様も最後にエルサレムに上られる前に、何度も弟子たちに、「エルサレムでは祭司長らに捕らえられ十字架にかかる」と語られていました。弟子たちには、理解できないことでしたが、イエス様はご自身が十字架にかかることが分かっていて、エルサレムへ上っていかれたのでした。

パウロの場合は、同行していた弟子たちもわかっていました。エルサレムに上る直前、ツロの町で、弟子たちは聖霊から苦難が待っていると示されて、パウロにエルサレムに上らないように繰り返し説得しています。

さらに進んで、カイザリヤに来ると、あの執事のひとりである伝道師ピリポの家に滞在します。そこに、ユダヤから下ってきた預言者アガポが、パウロの帯を取って、自分の両手と両足を縛って、預言しました。

使徒の働き21:11
「この帯の持ち主を、ユダヤ人たちはエルサレムでこのように縛り、異邦人の手に引き渡す」と。

これを聞いた弟子たちは、ルカを含め皆、パウロにエルサレムに上っていかないように懇願しました。
しかし、パウロの決心は固く、揺るぎませんでした。

使徒の働き21:13
「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。」

パウロは死ぬ覚悟でエルサレムへ上って行きます。主イエスが通られた道をパウロも歩もうとしているのです。

フェイクニュース

エルサレムへ上ってくると、パウロはエルサレム教会を訪ね、リーダーのヤコブ(主イエスの弟)や長老たちに宣教旅行の成果を報告します。彼らはこの報告を聞いて、神をほめたたえますが、心配も告げます。

使徒の働き21:20-21
「兄弟よ。ご覧のとおり、ユダヤ人の中で信仰に入っている人が何万となくいますが、みな律法に熱心な人たちです。ところが、彼らがあなたについて聞かされているのは、あなたが、異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子供に割礼を施すな、慣習にしたがって歩むなと言って、モーセに背くように教えている、ということなのです。」

ここエルサレムでもパウロに対するフェイクニュースが広まっていたのでした。パウロ自身は律法に忠実な者でした。そのパウロが宣教した各地で教えていたのは、律法の民ではない異邦人に対しては、律法にしたがって割礼を受ける必要はないと、そう教えていたのでした。このことは先のエルサレム会議で教会のリーダーたちによって公にされたことですが、それをパウロに敵対する者たちは、パウロが異邦人にではなく、律法の民である同胞のユダヤ人に対して、割礼を施すな、律法の慣習に従うな、と教えていると、真逆のことを吹聴していたのでした。

そこで、長老たちは、パウロに、律法にある請願の儀式を公の場で行うよう提案します。パウロが律法を守り、行っているところを人々に見せて、噂が根も葉もないことであることを示そうと図ったのです。パウロはこの提案を受けれ、宮でその儀式に入りました。その儀式は7日間に渡るものでしたが、その期間が終わらないうちに、パウロに敵対するユダヤ人たちは、宮でパウロを見かけると、群衆を扇動して、パウロを捕らえ、宮から引きずり出したのでした。エルサレム中が大騒動になりました。

パウロは、打ち殺される寸前で、騒動を聞いて駆け付けたローマ兵によって、保護されました。ローマの千人隊長は、騒動の中心であるパウロを二本の鎖で縛るように兵に命じました。以前預言者アガポが預言したことが現実のものとなりました。

2.パウロの証し

兵営の前で

パウロを縛ったものの、群衆の騒ぎは一向に収まらないので、千人隊長はパウロを兵営に連行しようとします。ところが、パウロが千人隊長にギリシャ語で話しかけたことで、千人隊長は、パウロに対する印象が変わったようです。千人隊長は、パウロを、近頃、暴動を起こしたテロリストグループの一味ではないかと勘違いしていたのですが、パウロが普通の市民であるとわかり、パウロに群衆への弁明の機会を与えました。

パウロは兵営の階段の上に立ち、群衆を前にして弁明を始めます。「兄弟ならびに父である皆さん」と、群衆の中の年配者に敬意を払って語り掛けます。内容はパウロの証しです。自分を正当化しようとの意図はなく、ただ、自分の身に起こった事実を語っていきます。生まれながらのユダヤ人であること、教師ガマリエルの下で厳しく指導を受け、律法に熱心で、エルサレムでは、キリスト者を激しく迫害したことさえ告白しています。その後、キリスト者を捕らえるためダマスコへ向かう途中で、まばゆい光に輝く栄光の主に遭ったこと。その方は、十字架で死んだナザレのイエスであったこと。また、弟子のアナニヤを通して、イスラエルの民をはじめすべての人に、主イエスを証しする証人となる使命を受けたこと。その後、主イエスから、異邦人に遣わすと語られたことを証言しました。

しかし、パウロが「異邦人に遣わす」と言った途端、群衆が怒り出しました。当時、イスラエルは異邦人であるローマ帝国に支配されていました。その自分たちを苦しめる異邦人に、自分たちが熱心に求めている救いの道が与えられることに我慢ならなかったのです。「こんな男は生かしておくべきではない」と、わめきたて、上着を放り投げ、ちりを空中にまき散らすので、千人隊長はパウロを兵営の中へ引き入れました。

兵営の中で

パウロは、ヘブル語で群衆に語っていたので、千人隊長やローマ兵には訳が分かりませんでした。群衆がいきり立つ理由を知ろうと、千人隊長はパウロをむち打ちにして、自白させようとします。しかし、パウロが、自分はローマ市民であることを知らせると、状況は一変します。ローマ市民。それもお金で買った成り上がりのローマ市民ではなく、生まれながらのローマ市民であると聞いて、ローマ兵は身を引きます。パウロがローマ市民の中でも由緒ある家の者とわかったからです。
この権威が千人隊長を動かします。千人隊長はパウロの鎖を解き、翌日にユダヤの最高法院(サンヘドリン)を開くように、祭司長や議員らに命じました。最高法院にパウロを立たせ、騒動の理由を明らかにしようとしたのです。

最高法院で

そして、今日の聖書箇所です。いよいよ、最高法院で、証しをする時がきました。今はローマ帝国に支配されてはいますが、最高法院は、ユダヤ人にとっては、民族の最高議決機関です。民の代表です。この民の代表者たちを前にして、主イエスを証しするチャンスがきたのです。パウロは、最高法院の人々を見つめて、「兄弟たち。」と切り出します(23:1)。先の群衆の時には、「兄弟ならびに父である皆さん」と年配者に敬意を払って語り掛けましたが、今回は明らかに雰囲気が違います。パウロ自身もかつて、最高法院の議員であったので、神妙ではあっても、対等の立場で語っているのです。

そして、「私は今日まで、あくまで健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました」と語り出した。すると、大祭司のアナニヤがパウロの口を打つように命じました。アナニヤは、噂されていたことを信じていたのか、パウロのことを、律法を破り、慣習に背くよう人々に教えている異端者のように思っていたのでしょう。罪人が何を殊勝なことを言っているのかと、その口を打たせたのです。

それに対して、パウロはアナニヤに向かって「白く塗った壁よ、神があなたを打たれる。あなたは、律法にしたがって私をさばく座に着いていながら、律法に背いて私を打てと命じるのか」と反論しています。「白く塗った壁よ」とは、外見はきれいだが、中身は汚れていることの表現で、アナニヤがどういう人間かを見抜いています。

イエス様も偽善者らに対して言われました。

マタイの福音書 23:27
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。」

当時、墓石は石灰で白く塗られていました。石灰(強アルカリ)による殺菌効果もありますが、夜、暗い中で、誤って触れて、汚れることのないようにと、白く塗られていました。

この時アナニヤは、律法の裁きの座に着いていましたが、律法によれば、2人、3人の証言が無ければ裁いてはならないと決められているのに、アナニヤは、証言なしでパウロの口を打つように命じたのでした。パウロは、律法に精通していたので、アナニヤに律法に背いて裁きを命ずるのかと指摘しているのです。

ただ、アナニヤが大祭司だと知らされると、「兄弟たち。私は彼が大祭司だとは知らなかった。確かに、『あなたの民の指導者を悪く言ってはならない』と書かれています。」と弁解しています。アナニヤは裁きの座についていました。通常、裁きの座は大祭司が座る座ですし、大祭司はその服装から一目で大祭司とわかるので、パウロがアナニヤに対して大祭司とは知らなかったというのは、律法を知らないものが大祭司の座についているとのパウロの皮肉にも取れます。

パウロの弁明

パウロは回りを見渡し、一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、「私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、裁きを受けているのです。」と叫びました。最初は神妙に弁明を始めましたが、アナニヤの殴打事件があったため、即アクセル全開、単刀直入に叫んだのです。

すると、最高法院は真っ二つに割れての大論争となりました。サドカイ人は、復活も御使いも霊もないといい、パリサイ人は復活を認め、御使いも霊も認めていたからです。「死者の復活という望みのことで裁きを受けている」、この一言を言っただけで、最高法院は紛糾してしまいました。

パウロは、自分をパリサイ人と証言していますから、死者の復活を信じるパリサイ人を味方にして、イエスの復活をサドカイ人に証するつもりだったのかもしれません。そして、イエスの復活は、後に続く者たち(罪赦された義人、メシアを信じる者)の復活の初穂であると証ししたかったのだと。
また同時に、パリサイ人には、復活したイエスが聖書に約束されていたメシア、救い主であること、神が預言者やモーセを通して父祖たちに与えた復活の望みは、ナザレのイエスによって現実のものとなったと証ししたかったのではないでしょうか。

しかし、パウロはサドカイ人とパリサイ人の間で、引き裂かれてしまいそうな状況となり、ローマ兵に連れ出され兵営に戻されました。

3.死者の復活という望み

聖霊の促し

最高法院では、パウロは「死者の復活という望み」という一言だけしか語ることができませんでした。兵営に戻ったパウロは、最高法院で、語るべきことをすべて語ることができなかったと残念に思ったかもしれません。しかし、この「死者の復活という望み」という一言は、事前に準備した言葉ではありませんでした。その場で、示されたことばです。つまり、聖霊の促しによって発せられた言葉でした。

マタイの福音書10:19-20
人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。
というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。

イエス様が言われたように、人々に弁明する時には、父の御霊、聖霊が話させてくださるのです。五旬節(ペンテコステ)の日に、3000人の群衆を前に使徒ペテロが、ナザレのイエスが約束のメシアであると証ししたように(使徒の働き2章)、また、最高法院で、メシアを拒否した宗教指導者らを糾弾した殉教者ステパノのように(使徒の働き7章)、聖霊が語るべきことを語らせてくださるのです。

パウロが語りたかったこと

「死者の復活という望み」、この一言は、聖霊がパウロを通して語られた言葉です。これまでパウロは、ユダヤ人にも異邦人にも、旧約聖書から福音を語ってきました。預言者やモーセが、後に起こるはずのこととして預言したことです。すなわち、メシア、救い主が来られること。メシアは人々の罪の身代わりとなって十字架で死なれること。また、死者の中から最初に復活すること。そして、この復活のメシアを信じる信仰によって、ユダヤ人も異邦人も義と認められて、メシアと同じように復活して、御国に入るということ。
このメシアがナザレのイエスであり、イエスを信じる者もイエスに続いて復活に与り、御国に入る。これらのことがこの一言に凝縮されているのです。

父祖アブラハムは、神は死者を復活させてくださるとの信仰によって、ひとり子イサクをささげました。「死者の復活という望み」とは、父祖の時代から、イスラエルの民が待ち望んでいる望みであり(この望みはイエスを信じる異邦人も与っています)、いわば、旧約聖書に預言された救いの完成であり、御国に入るための唯一の方法であり、永遠のいのちへの望みなのです。

死んだら、霊魂が天国に行けるという望みではありません。主のご再臨の時に、御国がこの地上に現れ、その御国に入るために体が復活するのです。それが死者の復活という望みです。

励ましと新たな使命

この夜、主イエスご自身がパウロに現れ、パウロを励ましています。パウロは気落ちしていたようです。最高法院では、満足に証しできなかったと思っていたかもしれません。しかし、イエス様は、「あなたは、エルサレムでわたしのことを証しした」と言っています。

使徒の働き23:11
「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」

イエス様は、パウロがどう思っていたにせよ、「証しした」と言われたのです。パウロは、イスラエルの群衆への弁明でも、最高法院での弁明でも、最後まで証しできなかったと思っていたかもしれませんが、主の見方は違うようです。聖霊に促されて、群衆に対しては復活の主イエスを証しし、最高法院では、死者の復活という希望を叫びました。結果は紛糾しましたが、群衆が騒いだことで、最高法院が召集されたのです。最高法院が紛糾したことで、この後ローマ総督への弁明の機会が与えられ、更にガリラヤの国主アグリッパ王へも弁明する機会が開かれることになるのです。群衆への弁明も、最高法院での弁明も、聖霊の導きであったことが分かります。

そして、主イエスはパウロを励まされました。「勇気を出しなさい」という言葉は、他の訳では、「しっかりしなさい」、「恐れるな」、「強くあれ」と訳されています。この言葉は、非常に強い励ましです。
更に、主はここで、ローマでの証しという次の使命を与えています。人は、落ち込んでいるとき、ただがんばれ、と言われても頑張れません。かえって、逆効果になる場合のほうが多いです。神様のやり方は、単に励ましの言葉をかけるだけではなく、使命を与えることで、うつむく顔を上げさせ、目を上げさせてくださるのです。使命、目標を与えることで、新たな力を奮い起こさせてくださるのです。

創世記には、神様が、出産を間近にしたリベカを特別な言葉をもって励ましている場面があります。おなかの中では、子供たちがぶつかり合うようになっていました。初めての出産で、しかも双子。医療設備も十分にない昔の話です。「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう、私は」と、心配するリベカに主が語られました。

創世記25:23
すると主は彼女に言われた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。・・・」

不安、怖れの中にいるリベカに、神様はただ「がんばれ」と、励ましの言葉をかけるのではなく、偉大なご計画を告げました。あなたの中に宿っている子らは、特別な子で、大いなる国民の父祖となる子である。あなたはその子を生み出す母となるとの使命です。使命が、将来のビジョンとなり、希望を与え、新たな力を与えてくれます。

パウロは、ローマへの道という新たな使命を主イエスから与えられました。以前から、ローマを見なければならないと、心の中で思っていましたが、今や主からの使命となったのです。そして、この後、ローマ総督フェストの裁判で、ローマ皇帝カエサルへ上訴することになりますが、これも聖霊に導かれての弁明です。主がそのご計画の中でパウロを用いて、福音をローマへ、全世界へと宣べ伝えようとされています。

結び.すべてのことが共に働いて益となる

今日は、パウロがエルサレムのユダヤ最高法院で弁明した場面から、御言葉を分かち合いました。パウロが弁明したのは、「死者の復活という望みのことで裁きを受けている」との一言でした。しかし、この一言は、聖霊に導かれたものでした。「死者の復活」とは、創造主なる神様だけが行うことのできる御業であり、メシア、イエス様によって証しされた救いの完成であり、真理なのです。救い主イエス様を信じる私たちも、この「死者の復活という望み」に与っているのです。パウロが命をかけて伝えたこの真理を今一度、心に留めましょう。

もう一つ、心に留めたいのは、神様はご計画をもって私たちを導いているということです。パウロの弁明でもそうでしたが、なかなか自分の思うとおりにはならないことがあります。私たちの日常生活でも主のみこころと確信し、祈ってから行ったのに、その時には良い結果にならないことがあります。しかし、後から見ると、その時の失敗や挫折が、より大きなことのために必要なことであったことが分かります。パウロの場合、群衆を前に弁明した時も、最高法院で弁明した時も、最後まで弁明することができませんでしたが、群衆が騒ぎだしたから最高法院が開かれたのです。最高法院が紛糾したからローマ総督への弁明の道が開かれたのです。私たちは目先の成功を求めがちですが、神様はもっと大きな視点でご計画をお持ちなのです。そして、すべてのことを働かせて益にしてくださいます。

ローマ人への手紙8:28
神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことが共に働いて益となることを、私たちは知っています。

日常生活の中で、結果を心配し、不安や恐れをいだいて、物事を実行できない時がありますが、そういう時こそ、主に信頼していきましょう。結果を恐れて立ち止まっているのではなく、主に信頼し、一歩踏み出しましょう。主はそばにいて、励まし、力づけてくださいます。

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