福音宣教はイスラエルから始まり、異邦人の時を経て、イスラエルの救いで完了します。すべての国に福音が宣べ伝えられ、世界宣教が終了すると、最後にイスラエル民族の覆いが取り除かれ、彼らはイエス様を「神の子キリスト」と信じるようになります。イスラエルが民族的に救われ、異邦人クリスチャンとともに一人のキリストの花嫁として完成すると、神の御子が治める「神の国」が始まります。
イスラエル民族への伝道が進まない原因の一つに、キリスト教とユダヤ教の聖書理解の違いがあります。
1.イスラエル伝道の特殊性
イスラエルは最初に始まった宣教地であり、最後を締めくくる宣教地です。ところが、イスラエルではキリスト教の伝道は違法とされ、福音を語ることも、新約聖書を配布することもできません。なぜイスラエルへの福音伝道が難しいのでしょうか。
① 真の神と聖書を知る民への伝道
イスラエル民族は、聖書を書いた民族、聖書の神を民族的・国家的に信じている人々です。彼らは初めから神によって生み出された契約の民であり、何千年もの間、律法を守り、聖書を伝えて来ました。子どもの頃から御言葉を聞いて育ち、御言葉を暗記し、神の教えと戒めに従って生活してきた人々です。
当然、イスラエル民族はクリスチャンより旧約聖書を深く理解し、神の民としての自分たちの役割を知っています。個人が聖書に基づいて生活するだけでなく、国家として聖書の暦(安息日、例祭、断食日など)に従い、政治や国際関係においても、国の指導者が神の御心を求め、御言葉を支えとして国を運営してきました。
彼らはキリスト教が誕生する以前から神の人類救済計画を知り、預言を信じ、救い主の到来と神の国の実現を待っている人々なのです。唯一、彼らが知らないことは、「約束されていたメシアはすでに来られ、十字架で贖いを成し遂げられた。やがて再臨されて神の国を打ち立てられる。その方の名前はイエスである」ということです。
ですから、クリスチャンがイスラエル民族に伝道する上で問われることは、「クリスチャンの語る福音とメシアは、イスラエルが信じているものと同じか?」 「キリスト教の聖書解釈は正しいか?」 「クリスチャンの信仰と品性と行動は神の民にふさわしいものか?」 「クリスチャンの愛と生き方は聖書の神を表しているか?」 ということです。
もし、クリスチャンの語る福音が旧約聖書の約束や希望と異なり、救いや神の国の理解がイスラエル民族の理解と異なっているなら、また、クリスチャンの語るイエス様がイスラエルのメシア像とかけ離れているなら、ユダヤ人たちは、クリスチャンが自分たちと同じ神を信じ、同じメシアを待ち望み、同じ神の国を相続するとは思わないでしょう。
② 福音と救い主を拒否した民族への伝道
イスラエル民族への宣教は、かつて国家的に救い主イエス様を拒否した人々の子孫に対する宣教です。
イエス様はイスラエルの地で人として誕生し、割礼を受け、ユダヤ人として生活し、民衆からラビと尊敬されました。イスラエルでもイエス様が歴史的に実在したことを認める人々がおり、主の説教や教えはまさにラビ的であると発見するユダヤ教ラビもいます。
しかし当時の宗教家たちは、イエス様を妬み、敵視し、拒絶し、イエス様をローマの十字架刑に引き渡しました。そして、復活したという証言をもみ消そうとし、主の弟子たちを激しく迫害して福音伝道を妨げました。そのため民衆の多くは福音を受け取ることができず、イスラエル国家は滅ぼされ、ユダヤ人は諸国に離散しました。
ユダヤ人は行く先々で、「主を十字架に付けた悪魔の民」、「神に呪われ、捨てられた民」、「神に背く者の受ける刑罰を諸国に示す、見せしめの民」として、クリスチャンから迫害され、財産を奪われ、拷問され、キリスト教に強制改宗させられました。置換神学と反ユダヤ思想の犠牲となってきたユダヤ人たちは、「イエスは悪魔の使い」、「十字架はユダヤ人抹殺の旗印」、「新約聖書はユダヤ人殲滅計画書」と信じるようになりました。
ユダヤ人が、「イエスは聖書に約束された救い主である」、「クリスチャンの信じる神はイスラエルの神である」と理解するのは容易なことではありません。彼らが被害者意識と恨みと憎しみを乗り越え、イエス様を信じる決心をするためには、特別な恵みが必要です。
③ 「言葉」ではなく「実際的な行い」を見るイスラエル民族
イスラエル民族に伝道する場合、単に教理や思想を伝えるだけでは役に立ちません。彼らにとって、信仰とは行動を伴う実際的な生き方です。
ユダヤ人は助け合い意識、献金意識が高い民族です。ユダヤ教正統派のハバッド派は、ユダヤ人が住む所ならどこにでも出向き、会堂を建て、ユダヤ人の生活と信仰を助け、支援活動を行ないます。イスラエル国家は、国外で被災した自国民を救出するために、どの国よりも早く行動します。
イスラエルは、他国、他民族への支援にも積極的で、戦争中であっても、敵対する国に対しても、被災した他国に迅速に支援チームを送ります。東日本大震災の時には、イスラエルの支援チームが真っ先に駆け付け、医療支援をしてくれました。今回のハマスとの戦争中、イスラエルの支援団体はアメリカの支援団体に協力して、ガザ地区の住民に食糧支援をしていました。
イスラエル緊急支援団体の「イスラエイド」は、2001年の設立以来、65カ国以上で100以上の人道的緊急事態に対して物質的支援を行いました。もう一つの支援団体「スマートエイド」は、太陽光発電システム、モバイル通信ユニット、浄水技術を提供しています。
主の弟ヤコブは、信仰は目に見えるものであるから、主を信じる者はその信仰に相応しく語り、相応しく行動するようにと説いています。
ヤコブ1:22、25、27
みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。・・・自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。・・・父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っている時に世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分自身を守ることです。ヤコブ2:14、17
だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。・・・信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。
行いのない信仰は無益です(2:20)。信仰は行いとともに働き、信仰は行いによって完成されます(2:22)。そして信仰は行いを欠いては死んでいる(2:26)のです。
言葉だけで実質の伴わない伝道はユダヤ人の心に響きません。ですから、ユダヤ人をイエス様に導こうとする人々は、食料支援や医療支援を通して、クリスチャンはイエス・キリストの教えを実践していると示します。
イスラエルを愛する働き人は、戦時下のイスラエルにとどまり、ミサイルが飛んで来る中でも毎日命懸けで食糧を配達します。新移民の生活支援、テロ被害者支援、破壊された町の再建、学校教育、メンタルケアなど、彼らの必要を満たす様々な支援を行い、時間を割いて彼らの話に耳を傾け、喜ぶ者とともに喜び、悲しむ者と共に悲しみます。そのような愛の実践と生き方を通して、クリスチャンの神、新約聖書の神はイスラエルの神であると証しするのです。
キリスト教の支援団体が、ひたすら善い行いをもってキリストにある愛を実践してきた結果、長年の奉仕がユダヤ人たちの心に触れ、彼らは、クリスチャンの愛は本物であると知り始めました。イスラム教徒たち、アラブ人たちから憎まれ、攻撃され、世界中からも非難されて反ユダヤ暴力に曝されているイスラエル民族は今、真のクリスチャンだけが彼らの置かれている困難な状況と苦しみをわかってくれて、無条件で助けてくれると理解しています。そして彼らはイエス様に対して心を開き、新約聖書を読み始めているのです。
2 ユダヤ人とクリスチャンの信仰の違い
世界に散らされたユダヤ民族は、諸国の教会が真理を正しく伝えているかどうかを試し、キリスト教の真価を測るリトマス試験紙のようなものであると言われます。実際、ユダヤ人と一般的なクリスチャンでは、「メシア」「律法」「救いと神の国」について異なる理解をしているのです。
① ユダヤ民族のメシアとキリスト教の救い主
ユダヤ人にとってのメシアはセム系のユダ族から生まれる「ダビデの子孫」であり、「ユダヤ人の王」です。当然、ユダヤ的な背景(人間性・思想・知識など)を持ち、聖書の教えに忠実で、律法を守り、安息日や例祭を遵守される方です。何よりも、イスラエル民族の救い主は、同胞イスラエル民族をすべての敵から解放し、平和をもたらす方です。
イザヤはメシアについて次のように預言しました。
イザヤ9:6~7
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
また、御使いガブリエルはマリアに次のように伝えました。
ルカ1:32~33、35
その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。・・・聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。
聖書の教えるメシアはダビデ王の子孫として生まれ、永遠にイスラエルを治め、永遠の平和をもたらします。
旧約の預言者たちは、メシアはイスラエルの敵を滅ぼすだけでなく、悪魔の支配する今の時代を終わらせて新しい時代を開始し、義人を死からよみがえらせ、永遠の御国に招き入れてくださると語ってきました。メシアは神ご自身であり、永遠の神の国の王となり、エルサレムから世界を支配されます。
西洋キリスト教の救い主は、多くの場合、金髪・青い目・白人のヤペテ系の人物として描かれており、キリスト教には、十字架とイエスの名によってユダヤ人を迫害してきた歴史があります。
またキリスト教では、イエス様は12月25日(太陽神の祝日)に生まれ、イースター(春の女神の祝日)に復活したとされていますが、それらは異教から取り入れた祝日で、聖書に記された神のご計画とは無関係です。
イエス様は過ぎ越しの祭りの日に死なれ、初穂の祭りの日に復活されました。これら2つの祭りは神ご自身が定められた春の例祭で、イスラエルの成人男性はエルサレム神殿に登ることが義務づけられた特別な日です。過ぎ越しの祭りにはイエス様の贖いの死が、初穂の祭りには復活が啓示されていました。
イエス様の降誕日は特定されていませんが、ユダヤ人キリスト者が増えるにつれ、主は秋の祭りの期間に誕生されたと考えられるようになりました。メシアニック・ジューによると、イエス様は仮庵の祭りの初日に生まれ、8日目(祭りの終わりの大いなる日)に割礼を受けたと考えられるそうです。
理由として、以下のことが言われています。
・冬は寒いので羊を野宿させない
⇒ 冬以外の季節
・主が誕生された時、宿屋が一杯だったという記録から、ユダヤ人が移動する季節
⇒ 春か秋の例祭の季節
・現存する祭司の勤務表から、バプテスマのヨハネの父ザカリヤが属していた「アビヤの組」の勤務時期が特定できる。勤務修了後にエリサベツが妊娠し、それから半年後にマリアが受胎した
⇒ 主の誕生は秋
主の再臨後の神の国で仮庵の祭りが祝われる(ゼカリヤ14:16)ことからも、それが主の降誕日である可能性は高いでしょう。
キリスト教の救い主像とユダヤ人のメシア像との間に隔たりがあるのは、クリスチャンが聖書的メシアを十分理解していないからです。もしクリスチャンが旧約聖書を熱心に学ぶなら、イエス様の真実の姿を見出すことができます。
② 律法についての理解の違い
イスラエル民族にとって、モーセを通して与えられた律法を愛し、教えと命令と戒めに従うことは、神を愛することと一致します。それはイスラエル民族であることの証、民族的アイデンティティとも言えます。大多数のユダヤ人は聖書の教えに忠実に従い、律法を熱心に守ろうと努力します。食物規定・安息日・例祭を守ることは、苦痛ではなく喜びであり、民族としての誇りと誉れでもあるのでしょう。
「律法」とは何か
「律法」と訳されているヘブライ語の「トーラー」はギリシャ語で「ノモス」と訳されました。ノモスは規則・法則や命令・禁止、罰則的意味合いを含むため、律法は人を縛るもの、自由を奪うものと思われがちです。しかしトーラーは、神に近づき、隣人と共に生きるための基本的教えであり、人を縛るためのものではありません。
「トーラー」は一般的にはモーセ五書や十戒を指しますが、
・本質的意味は「神の教え・さとし・導き・道」です。神が語られた教え、神のみことばがトーラーであり、広い意味では旧約聖書全体がトーラーです。
・律法は神の意思の啓示であり、聖なるもの、正しいもの、良いもの(ローマ7:12)です。
・山上の垂訓は、トーラーを定められた神ご自身によるトーラーの解説であり、イエス様の教えも新約聖書もトーラーと言うことができます。
・何より、イエス・キリストご自身が「生けるトーラー」なのです。
・トーラーは、真の神はどのような方であるかをすべての民族に示します。トーラーには神のご性質(善、義、聖、愛、恵み、憐れみ、真実など)が反映されているからです。
・トーラーは罪を犯す者に罪から離れるように説き、すべての人を主の元に立ち返らせます。そして何が良いことで神に喜ばれるのか、何が悪いことで神に憎まれるのかを教え、「いのちの道、義の道、生きる道」に歩ませ、民に永遠の神の国を相続させるための指南書です。
・トーラーは、創造主の御心に適った正しい歩みをするための考え方、生き方を教えます。神との正しい関係に立ち返って祝福の道を歩み、神と隣人を愛し、人間同士が正しい関係を築いて平和に生きるための「おきて・教え・戒め・命令・さとし」です。
イスラエルは民族の存在と歴史を通して真の神を諸国民に示し、トーラーの民として真の神に従う生き方を表し、世の終わりの裁きから救われるように教える使命があります。ユダヤ人は、よく言われるように、「律法を守ることで救われる」と考えているのではなく、「たった一日でもユダヤ人全員が律法を守るなら、メシアが来られる」と信じているそうです。
律法が終わったわけではない
旧約時代のイスラエル民族は、祭司の国として諸国民の罪のために動物犠牲を献げました。祭司として仕えるため、彼らには数々の規定が与えられていました。
動物犠牲制度とレビ系の祭司制度は、神の子羊であり大祭司であるイエス様を示す「型」です。動物犠牲制度は「影」であって、「本体」は神の子羊キリストです。キリストがご自分の肉体という一つの捧げものを十字架によって捧げ、完全な贖いを完成されたので、今はそれらの祭儀律法は不要です。
しかし、「天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはない(マタイ5:18)」と主が言われたとおり、十戒に命じられているような道徳律法が廃止されたわけではありません。
キリスト教では悔い改めによる赦しと救いを最重要な教えとし、恵みと信仰によって義とされたことが強調されます。神を畏れて戒めを守ることよりも神の愛と恵みを説き、「クリスチャンは新契約によって律法から解放され、自由になった」と説明されることもあります。しかし、イエス様が「わたしを愛する人はわたしのことばを守る(ヨハネ14:23)」と言われたとおり、主はご自分が定めたトーラーを廃止されたのではありません。
安息日
安息日はイスラエルの神を礼拝する日として、主が永遠に守るように定められたものです。イスラエル民族は、安息日を神の前に出る日として喜びをもって迎え、ホロコーストの苦しみの中でも守り続けました。「イスラエルが安息日を守ったのではなく、安息日がイスラエルを守った」と言われるほど、安息日は民族の存続を支えてきたのです。
安息日を守ることは、異邦人にとっても祝福です。
イザヤ56:4~7
また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった異国の民が、みな安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。
メシア再臨後の神の国で守られるのは日曜礼拝ではなく安息日です(イザヤ66:23)。
異邦人教会の律法理解
使徒の働き15章に、エルサレム教会の使徒たちが、異邦人伝道を進めるパウロたちと会議を開き、異邦人の割礼問題について議論したことが記されています。その時まで、異邦人は割礼を受けることによってイスラエル民族に加えられるなら、イスラエルと同じ約束を受け取ることができると考えられていました。そして割礼を受けるためには、多くのハードルがありました。
エルサレム会議での決定事項
・異邦人信者は割礼を受けなくてよい(割礼を受けてイスラエル民族にならなくても、諸民族のままで神の民となる)。
・異邦人信者も、偶像と不品行と血と絞め殺したものを避ける。
・前提として、異邦人信者も安息日ごとに会堂で読まれるモーセの律法を聞く。
ここで、キリスト教会が正しく理解すべきことがあります。
・異邦人には割礼不要という決定がされましたが、ユダヤ人にも割礼不要と決定されたわけではありません。
・パウロは、異邦人に守り切れない律法を負わせることに反対しましたが、ユダヤ人に律法に背くようにと教えたわけではありません。
しかしキリスト教会は律法が不要になったと理解し、後にユダヤ人信者にも律法を捨てるように強制したのです。
イスラエルの祭り(春:過ぎ越しの祭り/初穂の祭り/五旬節、 秋:ラッパを吹き鳴らす日/贖いの日/仮庵の祭り)は、律法で定められた主の例祭なので、イスラエル民族は今も国家的に守っています。一方、キリスト教では例祭とは異なる宗教行事を行います。イースターや収穫祭やクリスマス、カトリックには万聖節とハロウィーンもあります。
異邦人教会が律法を軽視し、否定するなら、新約聖書の神と旧約聖書の神は異なるということになります。
③ 救いと神の国についての理解の違い
ギリシャ的な死生観では、「救いとは死者の霊魂が身体を抜け出して霊の世界に入り、永遠に生きること」であり、肉体は悪いものなので、死者が復活して物理的な世界で生きることはないと考えます。キリスト教にも二元論的な考え方が入っています。救いは霊的なもので、イエス様は死後に霊魂を天国に導く救い主、それまでは地上生活で祝福された人生を歩むための指導者と考えたりします。
永遠のいのちは、罪の無い栄光のからだを持ち、神と共に永遠に生きる時に実現します。人はイエスの血による贖いを受け取るなら義と認められます(義認)が、これは救いの始まりです。信仰者がその後の人生を通して神の民に相応しく造り変えられ(聖化)、新しいからだに変えられる(栄化)ことによって救いが完成します。死んでよみに下った義人が朽ちない栄光のからだによみがえり、新しいエルサレムを相続した時、神と共に永遠に生きることができるようになります。
イエス様は主の祈りを教え、御国が来て、御心が地上で行われるように祈りなさいと命じられました。それは、クリスチャンの心の中に神の国が来るという思想的・感覚的なものではありません。また、クリスチャンが聖霊の力でこの世界を変革したら「神の国がここに来ている」ということでもありません(それらは神の国の前味です)。
聖書の教える天の御国(神の国)は、将来地上に出現する、物理的・現実的な世界です。地上に建てられる神の王国、再臨されたキリストが王となって治めるキリストの王国です。「神の国」は、エデンの園に替わる永遠の神のパラダイスであり、人間が永遠に生きて活動する新しい被造世界です。他宗教の「天国」が意味しているような、天上にある見えない霊魂の世界でも、異次元の世界のことでもありません。
神の国では、神の完全な支配がすべての被造物に及びます。神を知る知識が全地を覆い、あらゆる場所であらゆる人々が神を知り、人間の思想や活動に神の御心が浸透します。人々は神の価値観と善悪の基準に一致した、神に良しとされる生き方をするので、真の正義と平和と祝福が全地に実現します。そして神の子たち(神の民)は、アダムが罪によって失った全ての祝福を取り戻し、キリストとともに世界を治めます。
イエス様は嵐を鎮め、水の上を歩き、奇跡を通して、ご自分が世界と全てのものを造り、自然界を支配する神であることを示されました。水をぶどう酒に変え、パンと魚を増やし、ご自分が永遠のいのちに至る「いのちのパン」であり、いのちあるものを養う神であると証明されました。また病人を癒やし、盲人やろう者を癒やし、死人をよみがえらせ、ご自分がいのちの源であり、世の終わりに死人をよみがえらせることを保証されました。
イエス様のなさった「しるしと不思議」、主の奇跡や御業の目的は、ご自分がメシアであると証明し、神の国を治めるダビデの子であると保証するためのものでした。クリスチャンに神の賜物が与えられて癒しや奇跡が起こるなら、それは、「イエスは神の国の王である」と証しするためのものでなければなりません。
3.聖書信仰の確立
・イスラエル民族は恵みによってエジプトの支配から贖い出され、その後シナイ契約を結んで神の民となり、律法が与えられて信仰の歩みが始まりました。
・クリスチャンはイエスを主と信じ、恵みによって世と悪魔の支配から贖い出され、新しい契約の民として、キリストの律法に従う歩みが始まりました。
どちらも自分の義や努力ではなく、恵みと信仰(行いを伴う)で始まりましたが、その後、生涯をかけて神の御心に歩み、永遠の神の国の民として成長し、救いの完成を目指すことになります。
イスラエル民族は神の国実現のために神と共に働く民族ですが、彼らの最重要課題は、神の国の王、イエス・キリストを知ることです。
多くのクリスチャンは
・キリストの血によって贖われた信者が亡くなると、霊魂が天国でイエス様と共に永遠を過ごすと信じています。
・イエス様は旧約律法を成就(廃止)されたので、旧約聖書は重要ではないしユダヤ教は不要となったと考えています。
・イスラエルはもはや特別な選民ではなく、諸国民と同じ一民族であり、クリスチャンこそが選民であると考えています。
新約聖書はクリスチャンに「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長し(Ⅱペテロ3:18)」、主の御言葉を守って、終わりまで正しく歩み、「自分の救いを達成するよう努めなさい(ピリピ2:12)」と教えています。
現時点では、イスラエル民族とキリスト教会の聖書理解は異なっていますが、イエス様再臨後の新しい世界では、ユダヤ人と諸国のクリスチャンはすべての理解において一致するようになります。主が再臨され、真の神の国が実現する時、異なる宗教や様々な教派は存在せず、間違った教理や偽りの教えは完全に取り除かれます。そしてユダヤ教とキリスト教の対立はなくなり、信仰は一つとなります。
クリスチャン一人一人の信仰が真に聖書的なものとなり、私たちが生きた信仰を実践する者となりますように。この世の教え(ギリシャ哲学、ニューエイジ、異教的信仰、心理学、自己啓発など)に捕らわれず、純粋な聖書信仰を守ることができますように。これからの時代に備えつつ、信仰の完成を目指して歩みましょう。

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