シェオールとゲヘナ、第二の死と永遠の滅びについての誤解

その教えは聖書的?
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クリスチャンの最終目的地は、死者の霊魂が行く霊的な「天国」ではなく、死からよみがえり、不滅の身体を持ってリアルに生活する「地上に出現した神の国」です。また不信者の滅びとは、霊魂が永遠に「地獄」で苦しみ続けることではなく、「燃える火の池ゲヘナで焼き尽くされ、からだもたましいも、人の全存在が滅びてしまうこと」です。

永遠のいのちとは、たましいとからだを持って永遠に生き続けること、永遠の死とは、人としての存在も肉体的・精神的活動も終了することです。

この記事では、不信者の最終的裁きである第二の死ゲヘナについて、また終末の裁きの時まで、すべての人が集められているよみについて学び、聖書の死生観と一般的な死後の世界観との違いを明確にしていきます。

1.「よみ」と「天国」「地獄」

時々、天国や地獄に行き、そこにいる人々の状態を見てきたという話を聞きます。夢や幻を見ることはあり得ますが、実際に訪問し、体験することは聖書的とは言えません。

人は死後すぐに永遠の行き先が決まるのではなく、キリストの再臨までよみ(シェオール)で休み(眠り)、復活してから裁きを受け(ダニエル12:1~2、ヨハネ5:28~29)、その行いに応じて、永遠のいのち御国)と永遠の滅びゲヘナ・火の池)に分けられます。

① 「よみ」と「シェオール」と「ハデス」

世の人々は、死後、霊魂が身体を抜け出して霊の世界に行き、霊魂は永遠の世界で意識と感覚を持って存在し続けていると考えています。たとえば、「天国」「地獄」「極楽」「煉獄」というような死者の霊魂が行く目に見えない霊的世界があり、善人の霊魂は天国で神様と一緒に永遠に幸せに暮らし、悪人の霊魂は地獄で永遠に拷問されて苦しみ続けると考えます。
聖書は、身体を持たない霊魂が意識や感情、感覚を持って活動している世界については教えていません。

復活まで留まっている場所を「よみ」と言います。よみは、原語のヘブライ語では「シェオール」で、すべての死者が集められる所、死者の休んでいる暗い沈黙の場所、「地の深いところ」「墓」を指します。「よみに下る」は、「死ぬ」、「墓に入る」と同じような意味で使われ、「穴に下る(イザヤ38:19)」、「墓に下る(詩編30:9)」、「沈黙へ下る(詩編115:17)」などと表現されます。聖書は、よみがどんな場所か詳しく解説していません。

シェオールは新約聖書では「ハデス」と訳されています。この言葉はギリシャ神話の冥界の神「ハーデース(死者を裁くとされている)」からギリシャ語訳聖書に取り入れられ、死後の見えない世界を指すようになりました。肉体の死と裁きの間の中間状態を表しますが、ぼんやりとした意識のある地下の世界であるとされていて、シェオールの意味するものとは異なります。ハデスは死者を裁くギリシャ神の名前から取られたので、「闇の帝王(悪魔)が支配し、死んだ罪人を苦しめている国」というようなイメージを持つ方もいます。

 シェオールには、善人の行く慰めの場所や、悪人の行く苦しみの場所という区別はありません。(ラザロと金持ちのたとえ話を死者の世界の会話であると間違って解釈し、そのような教えが広まっています。)

よみは、意識も感覚も感情も活動も、神との関係もない場所です(伝道者9:5~10、詩編6:5、詩編146:4)。人が死ぬと魂が身体から抜け出して別世界で活動するのではなく、人はちりに返り、復活するまで意識活動はありません。よみがえって最終的裁きが行われる前に、死人がよみで慰められたり、苦しめられたりして、「天国」「地獄」をプレ体験しているという教えは聖書にはありません。

創世記のアダムの創造から判るように、ちりでできた身体に霊が吹き込まれると生きものネフェシュ・生きた人の全存在を表す)となり、人が死ぬと霊は天に帰り、霊が抜け出たからだはちりに返ります。
ちり(からだ)+ いのちの息(霊)=生きもの、 生きもの ― いのちの息(霊)=ちり

いのちの息が吹き込まれる前のアダムに意識や感情や知性の働きがなかったように、いのちの息が取り去られた後、知性や精神の働きは停止します。

② 「天国」と「天の御国」、「地獄」と「ゲヘナ」

聖書信仰者が目指している「天の御国(神の国)」は、キリスト再臨後、よみがえって永遠のいのちを持つ「神の子たち」が相続する、物理的な国です。霊的世界を表すいわゆる「天国」とは別物です。私たちの目標は、死後、霊魂が雲の上の世界に行くことでも、大艱難時代に雲の上でハネムーンを楽しむことでもありません。人には、神のおられる天に昇ることは許されていないのです。

キリストが再臨されると、天にある新しいエルサレム(神のパラダイス)が地上に下って来て、天の御国が目に見える形で実現します。それは、神の子イエス・キリストが全地の王となって治めるリアルな王国です。天の御国が実現するなら、アダムの罪によって失われてしまった神との関係が回復し、贖われた神の民が神とともに永遠に住むことができるようになります。それを信じて待ち望むのが聖書信仰です。

ゲヘナ」は「罪人が火で焼き滅ぼされる場所」を表します。他宗教の「地獄」のイメージは、罪人が鞭打たれ、火の池や針の山に突き落とされ、燃やされても突き刺されてもバラバラに切り離されても、また元の身体に戻り、永遠に苦しめられ続ける場所ではないでしょうか。クリスチャンの中にも、ゲヘナは悪魔の支配する地下の世界で、悪霊たちが死んだ罪人の霊魂を苦しめる場所であると考える人々がいます。これはギリシャ的な思想から取り込んだ間違った理解です。

英語の聖書には、よみをHell(地獄)と訳しているものがあります。KJV訳聖書では、使徒2:27を「あなたは、私のたましいをHellに捨て置かず」と訳したために、「イエス様が地獄に行って、罪人の身代わりに悪魔から拷問を受けた」と教える教師もいます(罪人は神から裁かれるのであって、罪の代価を悪魔に支払う必要はありません!)。シェオールとゲヘナの両方を「地獄(Hell)」と訳し、異教的な地獄観を取り入れたために、英語圏のクリスチャンが混乱してしまいました。

 よみはヘブライ語の「シェオール」の意味であると受け入れ、ギリシャ神話的理解を「ハデス」に付け加えないように、また「ゲヘナ」については異教的「地獄」観を読み込まないようにすべきです。

2.「ゲヘナ」と「火の池」

① ゲヘナは、幼児犠牲と遺体焼却が行われた「ヒノムの谷」  

新約聖書に出て来る「ゲヘナ」という言葉は、「ヒノムの谷(ヘブライ語のゲー・ヒッノーム)」をギリシャ語に訳し、それを日本語でゲヘナと発音したのが始まりです。

ヒノムの谷は神殿の丘の南側と西側を囲む谷で、東側にあるケデロンの谷とつながっています。
この谷は、偶像礼拝者たちが異邦民族の忌み嫌うべき習わしをまねて、自分の子供を火で焼いて(火の中をくぐらせ)、モレクにささげた場所でした(エレミヤ7:31、32:35)。

ユダ王国のアハズ王は、ベン・ヒノムの谷で香を炊き、自分の子どもたちに火の中をくぐらせました(Ⅱ歴代誌28:3)。また、マナセ王も自分の子どもたちに火の中をくぐらせ、卜占やまじない、呪術を行い、霊媒や口寄せをしました(Ⅱ歴代誌33:6)。

Ⅱ列王記23:10には、ヨシヤ王が大祭司ヒルキヤの見つけた律法の書に従って宗教改革を行い、「ベン・ヒノムの谷にあるトフェテを汚し、だれも自分の息子や娘に火の中をくぐらせて、モレクにささげることのないようにした」と書かれています。
トフェテとは「焼き場」「オーブン」の意味です。

後にこの場所は、町の廃棄物、犠牲動物の内臓や骨、犯罪人の死体の焼却場、役に立たないものを処分する場所となったので、絶えず火と煙が立ち上り、死体にはいつもウジがはびこっていました。この「ベン・ヒノムの谷」のイメージから、ゲヘナは、神様に裁かれた罪人が焼き尽くされる永遠の刑罰の場所を表すようになり、「火の燃える場所」を意味する「火の池」「火と硫黄の池」などと言われるようになりました。

イエス様の教えを聞いた当時の人々は、イスラエルでかつて行われていた幼児犠牲について知っていました。またヒノムの谷で犯罪人の死体が焼かれて火が燃え続け、煙が立ち上り、ウジがわくのを目にしていたので、神が罪人を裁き、火で焼き滅ぼすとはどういうことか理解できたことでしょう。

 マタイ10:28
 たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

マルコ9:43~48
もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません

「いのちに入る」「ゲヘナの消えぬ火の中に落ち込む」か、「神の国に入る」「ゲヘナに投げ込まれる」か、最終的に判定が下されることになります。自分がどのように生きるのか、選択しなければなりません。ゲヘナの火に投げ込まれたなら、人の全存在(からだとたましい)が焼き尽くされてしまいます。

ゲヘナは、神に逆らう者たちが滅ぼされる罪人の最終処分場、火が燃え、煙が立ち上り、うじがわき、悪臭を放つ、忌まわしい場所なのです。

② 「火と硫黄の燃える池」

世の終わりに、罪人が最終的に焼き滅ぼされる場所は、「火の池」「火と硫黄の燃える池」と呼ばれています。

「羊と山羊のたとえ話」に、再臨されたイエス様が諸国の民を裁かれることが教えられています。

マタイ25:31~46
 「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。・・・・・』
王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。・・・・・おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

羊と分類された人々は、天の父に祝福された人々で、世の初めから供えられていた御国を継ぎます。山羊と分類された者たちは呪われた者で、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れられます。

 黙示録16章で、獣と偽預言者は、万物の支配者である神と戦うために、ハルマゲドン(メギドの丘)に軍隊を集めます。竜と獣と偽預言者には、カエルのような汚れた霊が入っていました(16:13~16)。この三者は普通の人間ではないようです。
19では、白い馬に乗ったキリストと主の軍勢が天から現れ、諸国の王と軍隊を滅ぼし、獣と偽預言者は生きたまま硫黄の燃える火の池に投げ込まれます。この二人は、千年の間、死ぬことなく火で燃やされています(19:19~20)。その千年後、悪魔も火と硫黄の池に投げ込まれます(20:10)。火と硫黄の池は、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の刑罰の場所なのです。

③ 世の終わりのゲヘナはどこにあるか

世の終わりには、神の怒りと裁きの火が燃え上がります。

エレミヤ7:20、30~32
それで、神である主はこう仰せられる。「見よ。わたしの怒りと憤りは、この場所と、人間と、家畜と、畑の木と、地の産物とに注がれ、それは燃えて、消えることがない。」・・・
それは、ユダの子らが、わたしの目の前に悪を行ったからだ。──【主】の御告げ──彼らは、わたしの名がつけられているこの家に自分たちの忌むべき物を置いて、これを汚した。また自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ。
それゆえ、見よ、その日が来る。──の御告げ──その日には、もはや、そこはトフェテとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。人々はトフェテに、余地がないほどに葬る。

エレミヤは、当時のユダの王と民衆に対して預言しただけでなく、終末(その日)の裁きについての預言も語っています。ヒノムの谷と罪人に対して神の怒りと憤りが燃え上がり、消えることがありません。それは彼らが、「わたしの名がつけられているこの家に自分たちの忌むべき物を置いて、これを汚した」からです。

大艱難時代には、主の宮である神殿(聖なる所)に、荒らす忌むべきもの(荒らす憎むべき者)が立ち、自分を神として礼拝させる(マタイ24:15)ようになります。
ヒノムの谷は、主に殺された多くの人が葬られるので、虐殺の谷と呼ばれるようになります。トフェテに余地がないほど罪人が葬られることは、その日、つまり主の御怒りの日に実現します。

ヒノムの谷は神殿の丘の南側から西側にかけて広がる谷です。
新しいエルサレムの外にも火の燃える場所があることが記されています。

イザヤ66:22~24
「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、──の御告げ──あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」とは仰せられる。「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見るそのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。」

主が再臨され、新しい天と新しい地に代わります。贖われた民は、新月の祭りと安息日に、新しいエルサレムで主を礼拝します。外に出ると、主に背いて殺された者たちのしかばねが見えます。そこには火が燃え続け、死体にはうじがわいています。ゲヘナは新しいエルサレムの外にあるようです。
「ラザロと金持ち」のたとえ話で、ラザロのいた「アブラハムのふところ」は新しいエルサレム、金持ちのいた火の燃える場所はエルサレムの外であると考えられます。貧しい病気のラザロに何もしてあげなかった金持ちは、「山羊」に分類されてしまいました(参照:ラザロと金持ちのたとえ話2 復活後のラザロと金持ち)。

埋葬されない死体は忌むべきもので、遺体を焼くことは侮辱を表します。忌みきらうは、侮辱し、嫌悪することです。

ダニエル12:1~2
 国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。

「虐殺の谷」の死体を見る人は、罪人に対し激しい嫌悪感を抱き、忌み嫌います。同時に、神のことばと神の御計画の真実を再確認し、神の正義を実感し、自分たちに注がれた神の愛とあわれみと恵みを感謝するのです。

3.「第二の死」と「永遠の滅び」についての誤解

  永遠の滅びは、永遠に苦しみ続けることではありません

① 第二の死とは火の池に投げ込まれること

 黙示録14章で、御使いたちが地に住む人々に、「獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、聖なる御使いたちと子羊との前で、火と硫黄で苦しめられる」と警告をします(14:9~11)。黙示録20章には、天地が跡形もなく消え去り、死んだ人々が白い大きな御座の前に立たされ、いのちの書と数々の書物に書かれていることに従って裁かれることが記されています(20:11~13)。

黙示20:14~15
 それから、死とハデス(よみ)は火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

黙示録21:8
 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」

第二の死とは、神の裁きによって火と硫黄との燃える池に投げ込まれてしまうことです。罪人、いのちの書に名前のない人々、神よりも悪魔に従った人々、獣のしるしを受けた人々、反キリスト軍に参加した人々、死もよみも、火の池に投げ込まれ、焼きつくされます。

② 永遠の滅びとは、永遠に炎の中で苦しみ続けることではない

罪人が火の池で永遠に燃やされ続け、永遠に苦しみ続けるという教えは間違った教えです。

第一に、火の池に投げ込まれた人が「永遠に苦しんでいる」ということは、永遠に生きている、永遠に死なない、つまり不滅であるということになります。苦しむということは、いのちがある証拠です。苦痛を感じるのは、肉体を持ち、精神活動をしている、生きている人だけです。死人には、感覚や感情や意識はありません

伝道者9:5~6
生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる。彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消えうせ、日の下で行われるすべての事において、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。

朽ちないからだに変えられた御国の民だけが永遠に生きるのであり、いのちの書に名前のない人が存在し続けることはできません。罪人の永遠の刑罰とは永遠の滅びであり、肉体もたましいも燃え尽き、精神活動も意識も存在しません。

イザヤ26:14
 死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません。それゆえ、あなたは彼らを罰して滅ぼし、彼についてのすべての記憶を消し去られました。

第二に、火の池は本来、悪魔と堕落天使たちを懲らしめるために用意された場所です。堕天使たちは霊的存在で、この世の物質で造られていないため、火で焼かれても死なないようです。悪魔、獣、偽預言者、神に反逆した堕落天使たちは、ゲヘナの火によって永遠に苦しめられます。けれども、人間は地上の物質で造られているので、火によって焼き尽くされてしまいます。

詩編37:18、20
 主は全き人の日々を知っておられ、彼らのゆずりは永遠に残る。・・・しかし悪者は滅びる。主の敵は牧場の青草のようだ。彼らは消えうせる。煙となって消えうせる

ソドムとゴモラの町は永遠の火の刑罰を受けて火と硫黄で焼かれ、燃え尽き、灰となりました。

ユダ:7
ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。
Ⅱペテロ2:6
(神は)ソドムとゴモラの町を破滅に定めてにし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。

永遠の火の刑罰を受けた町々は、燃え尽きて灰となり、今も残骸は残されていますが、火はすでに消えています。同様に、永遠の火の刑罰とは、霊魂が永遠に燃やされ続け、苦しみ続けることではありません。ゲヘナの火は燃え続けますが、人間は永遠に燃え続けるのではなく、灰と煙になって存在が終了するのです。

第三に、神が罪人を永遠に苦しめると考えることは、神を悪魔と同じように残酷で非情な恐ろしい存在に貶めてしまっています。神は、罪人を裁いた後にも憎しみと怒りを持ち続けて、人間を永遠に拷問し続ける方ではありません。

そんなおぞましい地獄の恐怖におびえているなら、愛と慈しみに満ちた聖書の神も、永遠の御国の御計画もわからないでしょう。地獄の拷問を免れるためにイエス様を信じたとしても、神との関係に愛と信頼が欠け、平安も喜びも感じられないでしょう。いつも神の裁きにおびえながら、神の顔色を窺い、偽善的に生きることになりかねません。

そんな非聖書的な地獄観を持たせ、神との関係を破壊することが、悪魔の策略なのです。悪魔こそゲヘナの炎で永遠に苦しめられる存在です。

火の池を異教的な地獄と同一視したため、悪魔の支配下で罪人の霊魂が永遠に苦しめられるという間違った理解が広まってしまいました。ハデスもゲヘナも悪魔の支配する国ではないし、悪魔、悪霊たちには、罪人を拷問する資格も権利も与えられていません。

永遠の滅びとは、永遠のいのちを持たない罪人が、完全に焼かれて灰と煙になり、存在が消滅してしまうことです。たましいが永遠に火の池で燃やされ続け、苦しめられ続けることはないのです。

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