イエス様は、「終わりの日に選びの民を天の果て、地の果て、地の四方から集める」と言われました。その意味は、諸国の間に散らされたイスラエルの民を終わりの日によみがえらせ、神の国を相続させるために世界中から集めるということです。それは本来、アブラハム契約に基づいてイスラエル民族に与えられた約束です。
イエス様を神の子メシアと信じた諸国の民は、イスラエル民族と同じ神の国の民とされました。ですから、この約束はクリスチャンにも適用されますが、多くの方が期待しているように、イスラエル民族を抜きにして異邦人教会に先に起こる出来事ではありません(参照「携挙についてのイエス様の教えを旧約預言から解き明かす」)。
私たちは、神様の人類救済計画の中で、イスラエルはどのような役割を果たしているのかを理解する必要があります。この記事では、クリスチャンとイスラエル民族との関係について聖書がどのように教えているのか、エペソ書、ガラテヤ書、ローマ書から確認し、さらに、私たちはイスラエルとどのように関われば良いのかを考えます。
1.クリスチャンはアブラハムの子孫、イスラエルと共同の相続人
イスラエル民族は、アブラハムの一人子イサクとその後継者ヤコブの子孫、つまりアブラハムの血統による直系の子孫です。神様がアブラハムに「あなたとあなたの子孫に与える」と約束された相続地を受け継ぐ人々です。異邦人クリスチャンはイスラエル民族と血縁関係はありませんが、イエス様をキリストと信じる信仰によってアブラハムの子孫とされました。
ガラテヤ3:26~29
あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
キリスト・イエスを信じる異邦人はアブラハムの子孫と見なされ、それゆえに相続人となったのです。譬えるなら、イスラエル民族が実子、クリスチャンが養子という関係です。
エペソ3:5~6
この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています。それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人となり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者となるということです。
旧約時代にはイスラエル民族だけが神の民であり、相続人でした。新約時代には、イエス様を神の子、神の国の王と信じる人は、イスラエル民族と同じように神の民とされ、同じからだに連なり、ともに約束にあずかる共同相続人となります。
では、共同相続人であるイスラエル民族と異邦人クリスチャンの受け取る資産、受け取る時期、受け取る条件は同じでしょうか?異なるのでしょうか?
・実子と養子の受け取る永遠の相続地は同じはずです。クリスチャンは天上の御国を相続するが、イスラエル民族は地上の御国を相続する、ということではないでしょう。
・イスラエル民族とクリスチャンに対する終末計画は同じはずです。クリスチャンは先に神の国を相続し、イスラエルは7年間後に相続するのでしょうか? 復活させて約束の地に集めるというご計画は、そもそもイスラエル民族に対するものです。実子より養子が優先されることはないでしょう。
・イスラエル民族もクリスチャンも、主の再臨時に栄光のからだに変えられ、神の民として救いが完成します。イスラエル民族は大艱難時代の苦しみを経て完成するが、クリスチャンは苦難を通る前に完成し、秘かに相続を受け、さあ天で楽しもう、というわけにはいかないでしょう。
イスラエルの救い主とクリスチャンの救い主は同じ主であり、約束された神は一人、救いの方法は一つ、相続地も一つ、終末時代の進展も一つなのです。
2.キリストを知る前の異邦人
イエス様を信じる前の異邦人はどんな存在であったか、エペソの教会にパウロが教えています。
エペソ2:1~2、11~12
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。・・・ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
ユダヤ人はアブラハムの子孫である証拠として割礼を受けます。割礼は、神によって選ばれた民であり、神との永遠の契約を持っていることのしるしです。アブラハムから何世代も後の子孫であっても、生後8日目に割礼を受けたことで、自分がイスラエル民族に属し、それゆえ相続を受け取る資格があると示しているのです。割礼を受けなければイスラエル民族から切り離されてしまいます。
「無割礼の人々」とは、神を知らず、神との契約関係のない人々を指しています。その人々は、復活して約束の地に集められるという神のご計画とは無関係で、従って、永遠のいのちも永遠の御国も受けることができないと理解されていました。神の民ではないので、短い人生を生き、楽しみ、喜び、あるいは苦しみ、悲しみ、死んで滅びて終わり、希望がないのです。
イエス様が十字架で贖いを完成される以前にも、諸国民の中にはイスラエルの神を信じる異邦人がいました。イスラエル民族と一緒にエジプトを脱出し、イスラエル社会で生活した異邦人たちがいました。また、アッシリアやバビロンに捕囚されたユダヤ人を通してイスラエルの神を信じた異邦人もいました。彼らは安息日に会堂に通い、食物規定やイスラエルの例祭を守っていました。そのような「神を畏れる異邦人」は、割礼を受けて契約の民に同化するなら、イスラエル民族とともに約束を受け取るとされていました。
3.キリストにあって異邦人とイスラエルは一つになる
十字架以降、福音がユダヤ人以外にも伝えられ、諸民族からもイスラエルの神を信じて聖霊を受ける人々が起こされました。初代教会の使徒たちは、そのような人々は、ただイエスをキリストと信じる信仰によって義とされて御国を相続できるのか、それとも割礼を受けてユダヤ民族に同化する必要があるのか、エルサレムで会議を開いて議論しました(使徒の働き 15章)。
その結果、異邦人は異邦人のままで(割礼を受けなくても)イエスを信じるだけで救われると結論されました。その根拠は、アモス書9:11~12の「倒れているダビデの仮庵を建て直す」という預言でした。それは、「分裂したイスラエル王国をわたし(神)が再建し、わたしの名で呼ばれる信仰ある諸国の民を神の民として加える」という預言です。(預言の詳細な解き明かしはこちら)。
使徒たちの結論は、異邦人信者は割礼を受けなくても、イエスを信じる信仰によって、イスラエル民族と同様に神の選びの民とされるというものでした。
異邦人信者は、かつて神とは無関係の存在で、律法を知らずに罪と呪いの下にいました。イエス様が身代わりに呪われた者となって裁かれ、罪を処分して下さったので、信じる者は罪から解放され、義とされます。
救われたイスラエル人も、かつては不従順の子らの中にあり、肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。律法を知っていても守れない故に呪いの下にあり、罪過の中に死んでいました。イエス様はそのイスラエル民族の罪を贖い、信じた者たちをともによみがえらせ、ともに生かし、ともに天の所に座らせくださいました(エペソ2:3~6)。
このように、イスラエル人も異邦人も罪の支配下にいましたが、主が十字架によって罪を贖い、神と和解させてくださったので、信じる全ての人は、律法の行いによらず、イエスを信じる信仰で義とされるのです。
エペソ2:13~16
しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。
かつては、様々な規定から成り立つ戒めの律法がイスラエル民族と他の民族を区別し、互いに敵意を生み出していました。イスラエル民族は律法を与えられた神の選民であることを誇り、無割礼の民を見下していました。律法を持たない諸国民は、そのようなイスラエル民族に反感を持ち、嫌っていました。
イエス・キリストは、律法を知りつつ、あるいは知らずに罪を犯していた全ての人のために、ご自分が身代わりとなって十字架で死なれ、律法の要求(罪の支払う代価としての死)を満たしてくださいました。そして、罪人を神と和解させてくださっただけでなく、イスラエル民族と諸民族とを隔てていた壁を打ち壊し、ご自分の肉において敵意を廃棄してくださったので、イスラエル人信者と異邦人信者は、割礼のあるなしに関わらず、キリストにおいて和解し、新しいひとりの人、一つのからだとなるのです。
エペソ2:18~19
私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。
クリスチャン(イエス様を信じた諸国民)と聖徒たち(イエス様を信じたイスラエルの民)は、一つの御霊において同じ国の民、神の家族となりました。アブラハムの肉の子孫たちが捨てられて、クリスチャンが新イスラエルになったわけではなく、また、イスラエル民族なら誰でも神の国の民であると認められるのでもなく、イエス様を救い主と信じた人はともに神の国の家族として、神の国を相続する国民となるのです。
4.イスラエルの失敗を通して世界を救う神のご計画
ローマ人への手紙11章でパウロは、ユダヤ人が福音を拒否したために異邦人に救いのチャンスが与えられたと教えています。そして異邦人が救われることでユダヤ人に嫉みが起こり、彼らも主を信じるようになることを願い、ユダヤ人の救いの完成が、神の人類救済計画の完成につながると説きます。
ローマ11:11~15
・・・彼ら(イスラエル)がつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。
そこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の務めを重んじています。そして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。 もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。
イスラエル民族は、イエス様を約束のメシアと信じず、十字架に付けて殺してしまいました。彼らは神の計画を受け入れず、福音を受け取ることに失敗しました。その結果、福音は異邦人に伝えられ、諸国の民がイエス様を信じて真の神に立ち返ることができるようになりました。
神の選民が一時的に退けられ、神の民ではなかった諸国民が、イエス様を通して神と和解し、神の民とされたのです。先に福音を聞いたイスラエル民族が不信仰ゆえに後になり、後から福音を聞いた異邦人が信仰と恵みによって先になりました。イスラエルが違反したために異邦人に救いがもたらされ、イスラエルが失敗したために異邦人が神から恵みを受けたのです。
さらに素晴らしいことがあります。それは、もし不従順で神を怒らせていたイスラエル民族が最終的にメシアを受け入れ、イスラエルの救いが完了したら、神の人類救済計画も完了するということです。つまり、イスラエルが民族的に神に立ち返った時、死者がよみがえり、永遠の御国が到来するのです。
聖書信仰者の最終目的地である永遠の神の国は、天から降る新しいエルサレムです。
黙示録21:10~13
そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。都には大きな高い城壁と十二の門があって、それらの門には十二人の御使いがおり、イスラエルの子らの十二部族の名が書いてあった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
新しいエルサレムの入り口である12の門には、イスラエル12部族の名前が書いてあります。贖われた諸国の民は、そのどれかを通って都に入ることになります。このことから、イスラエル民族は全ての民族の救いに重要な役割を持ち、その名が永遠に覚えられていることがわかります。
置換神学が教えているように、血統的イスラエルが神に捨てられ、クリスチャンが新しいイスラエルになったわけではありません。永遠にイスラエル12部族の名が残るのですから、神はご自分の民を退けてしまわれたわけではないのです(ローマ11:2)。神は、イスラエル民族を肉的(地的)イスラエル、異邦人教会を霊的(天的)イスラエルと区別されているのではありません。
黙示録21:14
また、都の城壁には12の土台石があり、それには、小羊の12使徒の12の名が書いてあった。エペソ2: 20
あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており・・・
異邦人クリスチャンは、イスラエルの使徒たちと預言者たちの教えによって養われています。イエス様は旧約聖書に預言されていたダビデの子として来られ、旧約聖書に預言されていたとおりに贖罪を成し遂げられ、旧約聖書に預言されていたとおりに神の国を地上にもたらしてくださいます。
預言者たちは私たちに信仰の土台を提供してくれているのです。イエス様も使徒たちも預言者たちの教えを前提に語り、パウロは、イスラエルを軸とした神の救済計画を説き明かしてくれました。
5.栽培種のオリーブに継がれた野生種のオリーブの枝
パウロは、イスラエル民族と異邦人の関係を2種類のオリーブの木に譬えて説明しています(ローマ11:17~24)。
選民であるイスラエル民族は神の栽培するオリーブの木に譬えられ、諸国民は野生のオリーブの木に譬えられています。栽培種の木の枝の一部が不信仰のために折り取られ、野生種の枝のいくつかが、元の性質に反して栽培種の木に接がれました。接ぎ木された野生種の枝は、栽培種の木の根に支えられ、その根から豊かな養分を受けているのだから、折り取られた枝に対し誇ってはいけないと戒められています。
神が栽培種の枝を不信仰ゆえに折り取られたのなら、接ぎ合わされた野生種の枝も、もし不信仰になるなら折り取られます。折り取られた栽培種の枝は、不信仰を続けなければ再び元の木にたやすく接ぎ合わされます。だから、今接ぎ合わされている野生種の枝は、神の慈しみの中にとどまり、高ぶらないで、かえって恐れなさいとパウロは説きます(11:20~24)。イスラエルが不信仰のために神の厳しい取り扱いを受け、代わりに異邦人がいつくしみを受けたのは、神の主権とご計画によることで、異邦人信者がイスラエルに対して高ぶるのは的外れなのです。
かつて神に不従順だった野生種の枝が憐れみを受けたように、折り取られた枝もやがて憐れみを受ける時が来ます。神のご計画では、イスラエル人の一部が頑なにされているのは異邦人の完成のなる時までであり、最後にはイスラエルはみな救われます。それは神がイスラエル民族に与えた契約ゆえに、主ご自身が彼らの罪を取り除く時が来ると約束されているからです。神は初めにイスラエルを不従順にし、異邦人を憐れまれたのですが、終わりの時にはイスラエルが再び憐れみを受けるようになるのです(11:25~27)。これが、イスラエルと異邦人の救いの関係について明らかにされた神のご計画、奥儀です。
ローマ11:28~29
彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、父祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。
割礼を重視する一部のユダヤ人は、無割礼の異邦人が救われて神の民となることに反発し、主の弟子たちを迫害しました。福音を拒否し、神に敵対したのです。けれども神はあわれみ深い神、父祖たちとの契約を守る神です。神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められました(11:32)。イスラエル民族の不従順も、諸国民を救うための神のご計画の一部です。すべての事が神から発し、神によって成り、神に至るのです(11:36)。
現在、ガザの人々にも福音が伝えられ、アラブ人イスラム教徒からイエス様に従いたいという人々が増加しています。異邦人の時の完了が近づくにつれ、神の人類救済計画の焦点はイスラエルの完成に向けられていきます。
以前から、夢や幻でイエス様の訪問を受け、イエス様をメシアと信じるユダヤ人たち(メシアニック・ジュ―)が増加していることや、正統派のラビたちの中にも、隠れメシアニック・ジュ―がいることを聞いています。イスラエルの書店でも新約聖書が販売され、小学校で教えられるようになったそうです。ユダヤ人がクリスチャンに嫉みを起こし、イエス様を知りたいという願いが起こされ、新約聖書を読むなら、旧約聖書を熟知している彼らは、イエス様こそアブラハムの子、ダビデの子メシアであると確信することができます。異邦人がイエス様を信じるより簡単に、ユダヤ人が信じるようになるのです。
6.イスラエル民族に対する態度と永遠の報い
マタイの福音書25章31∼46節に「羊と山羊の裁き」のたとえ話があります。
イエス様が栄光を帯び、すべての御使いたちを伴って来られ、栄光の座に着かれます。そして、御前に集められた全ての国々の民は、主によって羊か山羊かに分けられます。羊は天の父に祝福された人々で、世の初めから備えられていた御国を継ぎます。山羊は呪われた者たちで、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れられます。
国々の民を羊と山羊に分ける基準は、主の兄弟たちの最も小さい者が困っていた時(空腹、渇き、宿、裸、病、投獄など)、どのように対応したかです。
諸国の民と主の兄弟たちには区別があります。主の兄弟はイスラエル民族を指し、彼らに対する態度は主に対する態度と見なされます。主の兄弟たちに愛を示して善を行ったのか、それとも無視して冷酷に扱ったのか、むしろ迫害する側に立ったのか、それによって永遠のいのちか永遠の刑罰かに分類されます。
なぜでしょうか? 主の兄弟を愛する人々は、イスラエル民族に対する神のご計画と願いを知って、彼らの必要を満たすために犠牲を払い、神の御心を行ったからです。「主よ、主よ」と言う者が天の御国に入るのではなく、父の御心を行う者が入るのです。
パウロは同胞の救いのためなら、自分が呪われた者になっても良いと告白しています(ローマ9:2~3)。私たちは神の家族であるイスラエル民族が大艱難を苦しんでいる時、自分たちだけ先に神の国に入り、主と楽しく過ごしたいと願うべきでしょうか? 主は、異邦人教会が艱難時代の前に携挙されて天に行き、7年間の婚礼(ハネムーン)を楽しむという教えを喜ばれないでしょう。
私たちは、イスラエルの民が悔い改めてイエス様を主と受け入れることができるように祈るべきです。全世界が彼らを非難し、攻撃する中にあって、彼らを助け、イスラエルと共に立つべきです。私たちはイスラエル民族を侮ったり、悪く言いふらしたりすべきではありません。まして、ホロコーストの時、自分を守るためにユダヤ人の居場所を密告し、迫害に加担した人々のように振舞って、自分のいのちを救おうとして真のいのちを失うようなことになってはいけません。
世の情報に惑わされたり感情に流されたり、自分の思い込みやに固執したりせず、聖書の教えと神のご計画を土台にし、主の兄弟たちを愛し、主に喜ばれる真実な行いを実践しましょう。
ガラテヤ6:15~16 割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
コメント
いつも楽しく拝見させて頂いております!
これからどんどん惑わしが増えていきそうな世の中になりそうですが、シャロン様の助けをお借りつつ、聖書的信仰を持ち続け、隣人に教えていけるよう精進して参りたいです。勉強になりました!ありがとうございました!
羊とヤギのたとえ話の核心的なメッセージは、神の民は他者を愛するということだ。
キリストに従う者は、キリストご自身に仕えているかのように、他者に親切に接し、仕える。新生していない者は、それとは正反対の生き方をする。山羊は確かに親切や慈愛の行為を行うことができるが、彼らの心は神に対して正しくなく、その行動は正しい目的のためではない。
御霊の実は、愛、喜び、平安、忍耐、親切、善意、優しさ、誠実、自制心である。たとえ話に出てくる良い行いは、救いの原因ではなく、救いの結果なのだ。
ガラテヤ5:14 – 律法全体は、この一つの命令を守ることによって成就するのです: 隣人を自分のように愛しなさい。
*私は置換神学に同意しない
ありがとうございました
Ai愛 さま
コメントありがとうございます。
行いによって救いが決まる(イスラエルに善を行ったから救われる)のではなく、救われた結果として、隣人を自分のように愛し、主に仕えるように他者に仕えるというのは、おっしゃる通りですね。羊はそのような人々なのでしょう。
クリスチャンでもイスラエルに対する考え方はいろいろあり、現代イスラエル建国を預言成就と考える方も、考えない方もいらっしゃいます。ユダヤ人と自認する人が皆、血統的子孫であるとは限らず、アラブ人として生きている人が血統的子孫である可能性もあります。
現状を見ると、イスラエル国の行動が必ずしも正しいわけではなく、クリスチャンでも、とてもユダヤ人を愛せないと感じられることがあるでしょう。イスラエルはますます世界から憎まれるようになり、クリスチャンのイスラエル理解は最後まで分かれるのかもしれません。
人々の愛が冷め、信仰の兄弟であるなしに関わらず、民族に関わらず、他者に愛を実践することが難しい時代になると、主に対する忠実さと愛は、究極的にはイスラエルに対する神の主権と御計画を認めて従うかどうかに表れてくるのではないかと推測します。主の御心に立ち、最後まで主の喜ばれる働きをする羊でありたいですね。