人の思いをはるかに超えた神のご計画

礼拝メッセージ
ピリポ・カイザリヤのパン神の聖所(パネイオン)の予想図
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困っている人に対して無私の心で何かをしてあげることは、その人の必要に答えることで、とてもすばらしいことです。聖書の言う隣人愛の現れですね。ところが、自分の利害で人に対して何かをするのは、必ずしもその人の必要に答えていないことがあり、喜ばれないどころか、要らぬおせっかいとなることがあります。今日の聖書箇所でも、ペテロが自分たち弟子たちにとって良かれと思ってした言動が、イエス様にとってはつまずきとなり、神様のご計画を邪魔することになると、イエス様に叱られてしまいました。

聖書箇所:マルコの福音書8:27-38

8:27 さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちにお尋ねになった。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
8:28 彼らは答えた。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。」
8:29 するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに答えた。「あなたはキリストです。」
8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた。
8:31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
8:32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
8:33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

1.あなたはキリストです。

ピリポ・カイザリヤ

今日の聖書箇所は、ヘルモン山の南山麓、高原の町ピリポ・カイザリヤに向かう途中での話です。ピリポ・カイザリヤは、もともとはギリシャ神話にでてくるパン神(牧神)の聖所パネイオンがあった偶像礼拝の場所でした。今は、バニアス(アラビア語ではパニアス、パネイオンに由来)と呼ばれるところですが、当時は、領主のヘロデ・ピリポが、自分に支配者の権威を与えてくれたローマの皇帝(カエサル)にちなんで命名した町です。ここには、ローマ皇帝の像を安置した神殿があり、イスラエルの民にすればローマ帝国を象徴する町のひとつです。

人々の見方

山道を登ってきて、眼下には、ガリラヤ湖や湖畔のベツサイダの村が見えたことでしょう。ここでイエス様は、弟子たちにとても重要な質問を投げかけます。下を振り返るように、これまでの宣教活動を弟子たちに振り返らせたのです。「人々はわたしをだれだと言っていますか」
それに対して弟子たちは、バプテスマのヨハネだ、エリヤだ、預言者の一人だと人々が言っていると答えますが、これは弟子たちの意見を代弁したものでもありました。弟子たちも、イエス様を力ある預言者、あるいはそれ以上の方であると何となく感じ取っていたものの、はっきり口にすることはできなかったのです。するとイエス様は、弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれといいますか。」と更に突っ込んで問います。弟子たちの信仰を引き出すための質問です。

直前の神の御業

弟子たちは、これまでイエス様がなされた数々の御業を直に見て、体験してきました。ガリラヤ湖上では、嵐をことばによって静め(マルコ4:39)、死んだ少女(会堂管理者ヤイロの娘)を蘇生することもしました。直前では、ガリラヤ湖畔に集まったおよそ4000人の群衆を7つのパンと少しの小魚で満腹にさせ、創造の御業を現わされました。湖畔のベツサイダの村では、目の見えない人を見えるようにされました。盲人のいやしは預言者イザヤが預言したように、メシア到来のしるしでした。

イザヤ29:18
「その日、耳の聞こえない人が、書物のことばを聞き、目の見えない人の目が、暗黒と闇から物を見る。」

イザヤ35:5
「そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。」

ペテロの回答

これらのことを体験してきた弟子たちですが、ここでペテロがはっきり「あなたはキリストです。」と宣言します。マタイの福音書では、「あなたは生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)となっています。イエス様が神の子であること、キリストであることを宣言していますが、じつはこれ、ペテロが自分で考えて話したのではありませんでした。

マタイ16:17
すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは血肉(別訳では「人間」)ではなく、天におられるわたしの父です。

人間の知性ではなく、父なる神の啓示、つまり聖霊の啓示を受けて語ったというのです。
聖霊の啓示を受けて、ペテロが告白した『キリスト』とは、ヘブル語の『メシア』(「マシアㇵ」の派生語)をギリシャ語(クリストス)に訳したものです。
『メシア』とは、本来は“油注がれた者”という意味です。王様、祭司、預言者らを任命する時に頭に油を注ぐことに由来し、聖霊の注ぎを象徴しています。よって、神によって任命された者、聖別された者(イザヤ61:1)のことで、後に、ダビデの子孫として来る「救い主」を指すようになりました。

しかし、当時の人々が待ち望んでいたメシアとは、ローマ帝国をやっつけ、独立を勝ち取ってくれるリーダー、モーセのように神の力によって、支配者から救い出してくれる解放者のことでした。
ペテロや弟子たちも同じようなメシア観をもっていたようですが、その弟子たちに、この後、イエス様は思いもよらないことを告げられます。

2.キリストの受難

神のご計画

マルコ8:30-32a
8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。
8:31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
8:32 イエスはこのことをはっきりと話された。

イエス様は、弟子たちに、ご自分がキリストであることを誰にも言ってはならないと命じられました。さらに、ご自分が民の指導者らによって殺され、3日後によみがえらなければならないという神が定められたご計画を教え始められました。それもはっきりと。たとえ話ではなく、具体的に、はっきりと殺され、3日後によみがえると話されました。“教え始められた”とあるように、この後何度も、事あるごとに、弟子たちにキリストの受難(十字架)と復活をお話になります。しかし、弟子たちは、実際にイエス様が十字架にかかって死ぬのを目撃し、3日目に復活した姿を見るまでは、信じることができませんでした。神の御子が、キリストである方が、民をローマから救い出してくださるはずのお方が、民の指導者らに殺されるとは、弟子たちには、まったく理解を越えたことだったのです。

人のこと

イエス様の受難の予告を聞いたペテロがすぐさま反応します。イエス様をわきにお連れして、いさめはじめました。直前には、イエス様がキリストであると告白して、イエス様からほめられたペテロは、気分が高揚していたようです。弟子であるのに、師であるイエス様をわきへおつれして、いさめています。
マタイの福音書ではこのように表現しています。

マタイ16:22
「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」

ペテロはイエス様の苦難に同情して言ったのでしょうか。あるいは、人々の希望の光を消すようなことは言わないでください、といさめているのでしょうか。高ぶってしまったペテロに、イエス様は、振り向いて、冷水を浴びせるように、お叱りになります。

神のこと

マルコ8:33
しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ペテロがサタンだというのではありません。高ぶったペテロの心に、サタンが吹き込んだ思いを、イエス様は退けられたのです。

ここでイエス様は、弟子たちを見ながら語っていますので、ペテロを叱っているのですが、弟子たちにも聞かせています。つまり、ペテロがイエス様をいさめたとき、弟子たちもペテロと同じような思いを、イエス様にそんな不幸なことが起こるはずがないという思いを抱いていたのでしょう。ペテロを代表して叱っていますが、実際には弟子たち全員を叱られたのです。

マタイの福音書を見ると、「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。」(16:23)となっています。

イエス様は、ご自分が民の指導者に殺され、3日後によみがえらなければならないと弟子たちに教えましたが、これこそが、罪ある人を救うための神のご計画でした。このことを弟子たちに分からせようとしているのです。神は、信じるすべての人を救うために、ただ一人の御子を十字架に掛け、御子のいのちによって人の罪を贖うご計画なのです。それほどに神は人を愛しておられるのです。それを、十字架のイエス様に同情して、或いは、ローマから解放してくれるリーダーへの希望から、十字架にかからないように願うことは、イエス様をつまずかせることであり、結果として神のご計画を邪魔することになるのです。

イエス様は、最も大切な戒めは、「心を尽くしてあなたの神である主を愛せよ」と、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」であると言われました。「心を尽くして神を愛すること」とは、先ず神の愛を知ること、神は御子のいのちをも犠牲にするほどに人を愛されていることを知ることであり、神の御思いに応答して、ご計画を受け入れ感謝をささげること。さらには、そのご計画どおりに、死にまで従われたイエス様に感謝をささげることなのです。

「人の子」とは

ペテロがイエス様はキリストであると告白し、イエス様もそれを認められました。イエス様は、ご自身がキリスト、メシアであることを民にはわかってほしいのですが、一方で、民がご自身のことをキリスト、あるいはメシアと呼ぶことは望まれていなかったようです。イエス様は、キリストとしての立場で言われる時は、ご自分のことを「人の子」と言われました。今日のところでも31節、38節にでてきます。

「人の子」とは、原語のヘブル語では、“ベン・アダム”です。“ベン”は「子」。“アダム”は「人」という意味です。「アダム」は人類の祖先。つまり、「人の子」とは「アダムの子」でもあります。先祖アダムが神に背いた時から、人類に罪が入りましたが、このアダム以来の罪(原罪)を取り除くために、神である方、キリストが、人の姿をとり、アダムの子としてこの世に来られたこと。それも、十字架で人類の罪の贖いをするためにこの世に来られたことを、この「人の子」ということばは暗示しているのです。イエス様が、“人の子は・・・”とおっしゃるときは、キリストである神の御子が、へりくだって人となられ、受難のしもべとなって十字架にかかるために、この世にきてくださったということを表しているのです。

かん口令

ところが、弟子たちをはじめ、イスラエルの民は、ローマ帝国の支配から独立し、自由にしてくれる、力による解放者としてメシア、キリストを待ち望んでいました。神の救いのご計画が理解できていなかったのです。そこで、イエス様は、弟子たちにご自身がキリストであることを誰にも言わないように命じられました。かつて、ヒゼキヤ王の時代、ユダ王国に攻めてきた18万人ものアッシリア軍を、一夜にして壊滅させた(Ⅱ列王記19:35)神は、やろうと思えば、一夜にしてローマ軍から民を解放することができます。イエス様の数々の御業を見て体験した弟子たち、民はそれを望んでいました。しかし、力による解放の前に、神であるイエス様は、人類の罪を取り除く神の小羊として、十字架の贖いの御業を成し遂げなければならなかったのです。ですから、イエス様は、弟子たちに今は(十字架と復活が完了するまでは)、ご自分のことをキリストであると、誰にも言わないように封印したのです。

直前のベツサイダの盲人のいやしでも、彼をわざわざ村の外へ連れ出して(8:23)癒やし、「村には入って行かないように」と言いつけて(8:26)彼を家に帰らせています。これらも、イエス様がメシア、キリストであると、人々が言い広めないようにするためであったことが分かります。

3.いのちへの道

ペテロを叱った後、イエス様は、キリストとして救いの核心に迫る言葉を、従ってきた群衆と弟子たちに語られます。

マルコの福音書8:34-38
8:34 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
8:35 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者は、それを救うのです。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
8:37 自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。
8:38 だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」

自分を捨て

ペテロが人間的な思いで、迫害を預言されたイエス様をいさめたように、弟子たちや群衆は、イエス様を、ローマ帝国の支配から解放してくださるメシア、豊かな経済や平和な生活を与えてくれるメシアと期待していました。そのような弟子たち、群衆に対して、イエス様について来たいなら、「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」というのです。大変厳しい言葉です。
イエス様はまず、キリストの受難(十字架の死)と復活があることをはっきりと語られました。そして、キリストに従っていく者も、イエス様が受難を受けるように、犠牲が伴うことをはっきりと語られたのです。自分を捨てるとは、それまでの自分本位、自己中心的な生き方を捨てるということです。自分本位な生き方をしつつ、救い主イエス様に従うことはできません。イエス様に従うこととは、自分の欲しいものを得るご利益宗教ではありません。かえって、自分を捨てるという犠牲が伴います。
この「自分を捨て」ということばですが、この直前に弟子たちに命じられたことばが伏線となっています。

パリサイ人のパン種とヘロデのパン種

マルコ8:15
そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」

パリサイ人は、人々に聖書を読み聞かせ、律法を教える立場の人たちです。その彼らが人々に教えていたのは、聖書に書かれたモーセの律法そのものではなく、モーセの律法を守ろうとするあまり、人間があれこれ考えて聖書に書かれていないことまで付け足した口伝律法でした。自分の力で義を得ようとして、結果として聖書の本来の教えから外れてしまいました。この似て非なる教え、偽りの教えをイエス様はパリサイ人のパン種と言われました。パン種とはイースト菌など粉を膨らませる発酵菌のことです。こねた麦の粉に種菌が入ると、知らない間に粉全体を大きく膨らませます。偽りの教えが、知らず知らずのうちに人々の中で増え広がっていったことを表しています。悪魔、サタンは、偽りの教えを吹き込むことで、救い主、キリストから人々を引き離そうと働いています。

また、ヘロデとは、ヘロデ一族のこと。ローマ帝国の権力を後ろ盾に、民から税金を搾り取りローマへ貢くことで、ユダヤを治めていた支配者です。イエス様が生まれた頃は、ヘロデ大王がユダヤを治めていました。彼は、東方の博士らが来た時、生まれたばかりのイエス様を抹殺しようとして、エルサレムの2歳以下の男の子を皆殺しにしたことがありました。この当時は、ヘロデ大王の息子で、ヘロデ・アンティパスがガリラヤ地方を治めていました。彼は、自分の兄弟ピリポの妻へロディアを略奪したことで、バプテスマのヨハネから姦淫の罪を指摘され、後に、そのヨハネの首をはねました。また、イエス様の裁判の時には、ガリラヤの国主として聖書に出てきます。このように、ヘロデとは、権力と富と欲望にまみれた世俗の象徴です。神から離れた人間の姿です。自分の欲するままに生きる姿です。パン種が少しの量でも粉全体を膨らますように、欲は次第に大きくなり、欲がはらむと罪を犯します。自己中心の最たるものが、「自分が神のようになる」ことです。(創世記3:5)ヘロデのパン種とは、神から離れさせようとする世俗の力、サタンの誘惑であることが分かります。

このように、「自分を捨て」とは、パリサイ人のパン種とヘロデのパン種を取り除くことなのです。

自分の十字架を負って、イエスに従う

また、「自分の十字架を負って、わたし(イエス様)に従ってきなさい」とはどういうことなのでしょうか。私たちは、聖書によって、このあとイエス様がエルサレムで十字架にかかったことを事実として知っていますので、自分の十字架と聞けば、自分に降りかかる苦難を思い浮かべます。イエス様に従う道には苦難があると理解できます。しかし、この時弟子たちは、十字架自体は目にして知ってはいても、自分の十字架を負うことの意味を理解していたのでしょうか。

十字架は死刑の道具です。罪の刑罰の象徴です。よって「自分の十字架を負ってイエス様に従う」とは、自分が罪ある存在、死ぬべき罪人であったことを自覚し、そのうえで、キリストであるイエス様に従うこと。それまでの自分本位の生き方を悔い改めて、イエス様を救い主として受け入れることなのです。イエス様が宣教のはじめで言われた、「悔い改めて、福音を信じなさい」と同じです。

十字架はまた、救いの象徴でもあります。イエス様が私たちの罪のために十字架にかかってくださり、復活されたことにより、私たちは、イエス様を救い主として信じる信仰によって救われていますが、それは、イエス様の十字架を自分の十字架として負っているからなのです。イエス様の十字架により私たちの罪は贖われました。
「自分の十字架を負い、イエス様に従う」とは、自分の罪を認め、イエス様を自分の罪から贖ってくださった救い主として受け入れることで、これが唯一の救いの道なのです。

ヨハネの福音書14:6
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

自分のいのち

このあとイエス様は、8:35で、「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」と言われました。

自分の力でなんとか救いを達成しようとする者(パリサイ人のパン種)は、救い主キリストを受け入れることができず、裁かれることになります。また、迫害などで、命の危機に瀕した時にイエス様を否む者は、その場の危機は脱したとしても、結果として、終わりの日に裁かれ、永遠のいのちを失うというのです。逆に、イエス様を信じる信仰のゆえに、また福音宣教のために迫害されて、たとえ死んだとしても、その人には永遠のいのちが約束されています。この永遠のいのちは、イエス様ご自身が復活されたことにより、真実であると証しされました。

更に、8:36で、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。」と言われました。

生きている今だけが全てだとして、権力と富と欲望に生きる世俗の者(ヘロデのパン種)は、最も大切ないのちが分かっていません。「全世界を手に入れても」とイエス様がおっしゃったのは、ここがピリポ・カイザリヤの近くであったことも関係しています。冒頭にあったように、ピリポ・カイザリヤはローマ帝国を象徴するような場所です。ローマ皇帝を神としてまつる偶像と神殿のあったところ、つまり、創造主である真の神から背を向ける世俗の象徴のようなところなのです。そこを弟子たちに見せて、イエス様は、神の救いのご計画、救いの核心を教えられたのです。

結び:神のご計画を知り、神の愛を知る

今日はマルコの福音書から、「人の思いをはるかに超えた神のご計画」と題してメッセージさせていただきました。
イエス様のなされた様々な奇跡や力ある業を見て、弟子たちは、イエス様が神の御子・キリストであると悟りましたが、その弟子たちに、イエス様はご自身がキリストであることを誰にも言わないように命じられました。神のご計画である十字架の贖いを成し遂げるためです。
そして、自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様に従うように言われました。これが、救いの道、永遠のいのちへの唯一の道であるからです。
もし、弟子たちや民の希望のとおり、神の大いなる御力でローマ帝国からイスラエルの民を解放したとしたら、その時は一時的に民を自由の身にしたかもしれませんが、それでは、全人類を救うための十字架の贖いは成し遂げられなかったことになります。先ずはイエス様の十字架によって救いの道が開かれ、この福音が全世界に宣べ伝えられて、それから終わりの日に、イエス様が全世界を裁き、御国をもたらす、これが神のご計画なのです。

イザヤ55:9
「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなた方の道よりも高く、わたしの思いは、あなた方の思いよりも高い。」

私たちは、とかく目の前の御利益を求めがちですが、それはその場だけのことですぐに消え去ります。大切なのは自分のいのちです。神は、キリストの十字架という偉大なご計画によって、私たちに永遠のいのちを授けてくださっています。私たちが何か良いことをしたからではなく、神からの一方的な恵みです。神の愛の現れです。人の思いをはるかに超えた神の救いのご計画、神の愛に改めて感謝をささげましょう。

ローマ人への手紙 5:8
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

コロナ禍の苦難の中にあっても、既に救いをいただいている者として、神の愛を受けている者として、神の守りの御手の中、恐れることなく、歩んでいきましょう。

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