キリストの受難、それは計り知れない神の愛

礼拝メッセージ
輝きを失った大陽を背景にした十字架
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今年も受難日を迎えました。毎年、この日を迎えると十字架のことをいろいろ考えます。十字架と聞くと、すぐに釘付けにされる苦痛を思い浮かべてしまいます。そして、過去に自分が怪我をした時のことを引き合いに出して、イエス様の十字架はこれより何倍も辛かったのだろうと思いを馳せます。しかし、今回は、イエス様が受けた苦痛もさることながら、十字架を取り巻く人々たちを通して、イエス様が十字架にかからなければならなかった意味について探っていきます。そこから、神様のご計画、そして、計り知ることのできない神の愛について考えていきます。

■聖書箇所: ルカの福音書23章26節~47節

1.嘆き悲しむ人々

ルカの福音書 23:26-31
23:26 彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。
23:27 大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。
23:28 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。
23:29 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』と言う日が来るのですから。
23:30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ』と言い始めます。
23:31 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」

イエス様の後についていく女たち

彼女らの多くはガリラヤからイエス様に従ってきた女たちです。母マリヤはじめ、マグダラのマリアら、イエス様が宣教を始めてから、ずっと従ってきた女たちです。彼女らは、既にローマのむち打ちによって血だらけになっているイエス様を見てその痛々しさに泣いています。これから殺されることを考えて嘆き悲しんでいます。

そんな彼女らに対して、これから殺されようとしているイエス様のほうが逆に気遣い、慰めています。

23:28「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。
 23:29 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』と言う日が来るのですから。・・・」

これは、この後起こること、神の訪れの時を認めない(ルカ19:44)イスラエルの民に対する神の裁きとして、ローマ帝国によって、エルサレムが破壊され、人々が虐殺されること(AD70年)を予見して言われたのでした。

イエス様を王として迎えた人たち

男たちは、イエス様を十字架につけた指導者らの目を恐れて、遠巻きに見ていたと思いますが、彼らもイエス様逮捕のショックを引きずったまま、悲しみと絶望に打ちひしがれていたことでしょう。

しかし、思えばこの日の5日前、たかが数日前、彼らは、エルサレムに入城されるイエス様を御国の王として盛大に歓迎したのでした。

ルカの福音書19:36-38
19:36 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。
19:37 イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、
19:38 こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」

それまで約3年半、弟子たちはイエス様がなされた様々な力ある業、メシアでなければできない奇跡を目の当たりにしてきました。盲人が見えるようになり、中風(脳卒中によるマヒ)を癒し、ツァラート(重い皮膚病)の人を癒されました。悪霊を追い出、雨風を静め、2匹の魚と5つのパンで男だけで5000人を満腹にされました。弟子たちは、この方こそ、神の子、メシア、救い主と確信していました。そしてエルサレムを目前にした時、弟子たちはこれらの力ある業を思い出し、いよいよ、イエス様が、神の力によって、ローマ帝国の支配からイスラエルの国を解放してくださると思い、イエス様を御国の王としてお迎えしたのでした。ろばの子に乗ったイエス様が通る道に上着を敷き、貧しい者は木の枝(シュロの枝=パーム)を敷いて(⇒パームサンデーの由来)歓迎しました。そして、ハレル詩篇と言われる詩篇118:26-27を賛美し、メシアをお迎えしたのでした。

そのイエス様が今は十字架につけられようとしているのです。 ローマの支配からの解放、御国到来の夢が断たれた失望、絶望。そして、イエス様を十字架につけた自分たちの指導者たちへの恨み、怒り、やるせなさ、そういった負の感情が渦巻いています。

大いなる誤解

実はここに、大いなる誤解があったのです。人々は、メシア、救い主をローマ帝国の支配から解放してくれるリーダーと考えていました。力ある御業によって、先祖の民をエジプトの奴隷生活から脱出させてくれたモーセのようなリーダーを待ち望んでいたのです。

しかし、メシアは、先ず受難のしもべとして来られ、罪の贖いを成し遂げなければなりませんでした。罪の贖いが無ければ、誰も義とされて御国に入ることができないからです。イスラエルの民は律法を守ることで義を得ようとしましたが、誰一人律法によっては救いを得ることはできませんでした。律法を守ろうとして、かえって、勝手な律法(口伝律法)を作り、本来の律法(モーセの律法)から離れてしまいました。イエス様は、そのことを教えるとともに自らが、世の罪を取り除く神の小羊として十字架にかかり、その命を犠牲にされることで、完全な贖いを成し遂げ、救いの道を開いてくださったのです。そして、この受難の後に、メシアは今度は、裁き主として来られ(再臨)、世に残っている罪と悪を裁き、この地に御国をもたらします。これが神のご計画でした。つまり、メシアの十字架が無ければ、御国は来ないのです。

このメシアの受難、イエス様の十字架は、弟子たちをはじめ、ほとんどの者が理解していませんでした。イエス様は、弟子たちといたころ、何度も「キリストは祭司長らに捕らえられ、十字架にかかり、しかし、3日目によみがえる」と教えられましたが、弟子たちは聞いてはいても、理解できず、受け止められなかったのです。

受難を察した人

イエス様の受難を理解し、察したのは、ベタニヤ村のマリヤら、ほんの一部の人だけでした。このマリヤは、死んで4日目にイエス様が生き返らせたラザロの姉妹です。彼女は、イエス様がエルサレムへ上って行かれる直前、純粋で非常に高価なナルドの香油をイエス様の足に塗りました。

ヨハネの福音書12:7
イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。

イエス様はマリヤの行動を、わたしの葬りの日のためと言われました。
マリヤは、イエス様が前もって語られた受難のことを理解し、必ずそのとおりになると受けとめました。そして、これからエルサレムへ行くということは、その時が間もなく来ると悟ったのです。ですから、自分の最も大事にしていた香油(花嫁道具)をささげたのです。当時は女性が独力で生きていける社会基盤は無く、女性にとっては、結婚し夫の庇護に入ることが唯一の生活の手段でした。よって、香油を注ぐというのは、ある意味、自分の人生を犠牲にすることであったのです。マリヤは、イエス様の受難を理解し、自分にできる最大限のことをしたのです。

このように、多くの者がイエス様が十字架にかかることを嘆き悲しんでしますが、なぜ、メシアが十字架にかからなければならないのか理解できません。御国が実現する前には、罪の贖いが必要、それもキリストの十字架による贖いが必要だということを人々は理解できなかったのです。神の定められたメシアの受難は人間の理解を超えたものであったのです。

2.あざける人々

 ルカの福音書 23:32-37
23:32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。

イエス様が神の御子であるとわからない人

イエス様を十字架につけた人々は、ほふられる小羊のように、黙々と十字架にかかるイエス様をあざけりました。彼らは、イエス様がメシア、救い主、神の子であることが分からない人たちです。

ローマの兵士は、王の王であるイエス様をあざけりました。

23:37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」

犯罪人の一人は、キリスト、救い主であるイエス様をあざけりました。

23:39 「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」

十字架につけろと要求した指導者たち、最高法院の議員たち、民衆は、イエス様が多くの人を癒し、救ったことを逆手にとって、神であり、キリストであるなら自分を救えとイエス様をあざけりました。

23:35 「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」

マタイの福音書では、この場面、さらに心を逆なでするように、つぎのようにあざけっています。

マタイの福音書27:42、43
「 他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。・・・神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」

サタンの罠

これは悪魔サタンの巧妙な罠です。サタンは、最後の最後まで、イエス様が十字架で贖いのわざを完了するのを妨害しようとしています。

イエス様は、しるしを不思議を行われる方、湖の上を歩いたお方です。やろうと思えば、自力で十字架から脱出できるのです。また、天の軍勢(12軍団)を配下に従わせるお方です(マタイ26:53)。一声かければ、み使いを遣わして脱出することもできるのです。しかし、そうはなさいませんでした。

もし、奇跡を行い、み使いを遣わして十字架から降りたなら、民の指導者らが言うように、そこにいた人々は皆、イエス様を神の子と信じ、ひれ伏したことでしょう。

しかし、それでは、イエス様は全人類の救い主にはならないのです。なぜなら、罪の無い神の御子が、人の罪の身代わりに十字架で呪われたものとなり、命を犠牲にされなければ、罪の贖いとならないからです。聖なる神の子の命の犠牲だけが罪ある人間を救うことができるのです。それが唯一の方法であり、神のご計画だったのです。イエス様は十字架にかからなければならなかったのです。イエス様は、これらの侮辱に耐えて、十字架(=神の救いの計画)を全うされたのです。

3.キリストの十字架を理解した人

多くの人が十字架のイエス様をあざける中、聖なる神の子が十字架についた事実を受け入れた者たちもいました。

ルカの福音書 23:38-47
23:38 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
23:44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。
23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。

犯罪人の一人

23:42 「イエス様、あなたが御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

この犯罪人の一人は、イエス様が御国の王であることを悟りました。しかし、十字架に掛けられた当初は、もう一人の犯罪人と同じようにイエス様をあざけっていました(マタイ27:44)。それが、イエス様がご自分を十字架に掛けた者たちへの赦しの祈りをするのを聞き、イエス様の様子を見ているうちに回心しました。御国の王である方が、自分と一緒に十字架にかかっている。ならば、死んだ後、よみがえって御国に入る時、自分も一緒に御国に入れてくれるかもしれない、との希望を抱いたのでしょう。イエス様に憐れみを求めたのです。“私を思い出してください”、この言葉は、救い主に申し上げることのできる精一杯のことばでした。

百人隊長

23:47  この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。

「正しい方」というのは、真実な方、偽りのない方という意味ですが、実は、メシアの呼び名(イザヤ53:11)でもあります。この百人隊長はイエス様をメシアと告白しています。マタイの福音書では 神の子と表現しています。

マタイ2:54 「この方は本当に神の子であった」

この百人隊長、ロンギヌスという名前だったことが分かっています。彼は、一連の出来事を見てイエス様がメシア、神の子であったと悟りました。この出来事とは、ピラトの裁判、むち打ち、そして十字架にいたるすべてのことです。直前では、これから殺されようとしているのに、泣き悲しむ女たちへのいたわりにことばをかけたこと、黙々と十字架についたこと、自分を十字架に掛けたものたちへの赦しの祈りをしたことなど。そして、イエス様が十字架にかかっていたときに3時間も大陽が光を失ったこと。これらを見て、体で感じて、イエス様がメシアであると悟り、その方が十字架にかかって死なれたことを受け止めたのです。

伝承ですが、イエス様が息を引き取った後、死んだかどうかを確認するために、ロンギヌス(あるいは彼の部下)はイエス様の脇腹を槍で刺し通しましたが、その際にイエス様の血を浴びました。すると、長く患っていた目の病が癒されたのです。この体験を通して、イエス様を救い主と信じた、というのです(ロンギヌスの槍)。

弟子たち

十字架を見た時はメシアが十字架にかかることが理解できませんでした。事前にイエス様から何度も、受難のことを聞かされていたのに、真に受けていませんでした。メシアはローマの支配から解放し、国を再建するリーダーと思っていたからです。

しかし、イエス様は、復活された後、弟子たちに現れ、メシアは旧約聖書に書かれている通りに、十字架にかかり、死んで葬られ、3日目によみがえると教えられました。

ルカの福音書 24:44-48
24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。

弟子たちは、復活の主イエスに出会って、やっと受難の意味を理解しました。

また使徒の働きを見ると、ペテロや弟子たちの伝道で多くの民衆が、十字架にかかったイエス様がメシア、救い主であったと理解し、悔い改めて、救われました。

その他、サウロ(ローマ名:パウロ)も、後に、ダマスコに行く途上でキリストに出会い(使徒9章)、主イエスが約束のメシア、救い主、キリストであったことを理解しました。

このように、十字架上の犯罪人やローマの百人隊長(異邦人)、弟子たちや、弟子たちの伝道で悔い改めた民衆、教会を迫害したサウロ(パウロ)など様々な人が、メシアの十字架を理解し、イエス様をキリストとして受け入れました。このことは、それまでどのような人生を歩んでいたとしても、イエス様をメシア、キリストとして受け入れるすべての人に救いの道が開かれていることが分かります。

結び. 私たちにとって十字架の意味 

十字架刑は見せしめの刑罰です。木に掛けられるということは、無残な姿をさらしものにするという呪いの象徴です。キリストが、この木に掛けられた者、呪われた者になってくださったのは、私たちの罪、罪の結果である呪いをキリストが私たちの代わりに背負うためでした。それも、私たちが何か良いことをしたから、その報いということではありません。神様からの一方的なギフトです。私たちが罪人であった時に、キリストが私たちのために死なれたのです。ここに、私たちに対する神の愛のが明らかにされています。(ローマ5:8)

また、十字架は、神が死んだ瞬間でもあります。永遠に生きておられるお方、本来死ぬことのないお方が、私たちの罪の身代わりとなるために人間となって、そして死なれたのです。イエス様は十字架で死ぬために、人となられてこの世に来られたのです。イエス様は、一度死ぬことで、私たちが必ず経験する苦しみ、痛み、恐れ、不安、そして死を実際に経験されました。つまり、私たちの痛み、苦しみがわかる方なのです。そして、そのイエスの御霊、聖霊が私たちの内に住まわれ、弱い私たちを慰め、励まし、力づけてくださるのです。

適用:私たちの苦難にも意味がある。

最後に、私たちへの適用について考えます。私たちも、イエス様の十字架ほどではありませんが、様々な苦難を通っています。コロナもそうですが、コロナ以外でも、生活していく中でいろんな苦難に遭います。クリスチャンになったから苦難や試練はないということではありません。いや、むしろ増えたかもしれません。なぜこんな苦難があるのかと神様に不満をぶつける時もあります。しかし、イエス様の十字架がそうであったように、私たちの苦難にも意味があるはずです。神様は、苦難を苦難だけで終わらせません。神はすべてのことを働かせて、苦難を私たちの益、良いものに替えてくださいます。なぜなら、神様は、私たち一人ひとりにご計画をお持ちで、それは良い計画だからです。苦難は、その計画を達成するために通るプロセスなのです。

ローマ8:28
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

Ⅰコリント10:13
神様は真実な方ですから、私たちを耐えられないような試練、苦難にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださるのです。

今週は受難週。私たちのために十字架にかかり、尊い命を犠牲にしてくださったイエス様に感謝をささげつつ、コロナに、苦難に立ち向かっていきましょう。

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