聖書箇所: ルカによる福音書24章13節~35節
24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
(途中省略)
24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
2種類の人がいます。男と女。良い人と悪い人。神様を信じる人と神はいないとする人。私は、以前は、神はいないと考えていました。今は神様を信じる人に変わりましたが。神様を信じていなかったときは、自分しか頼る者がいないので、自力で何でもしなければならないと、ただただ頑張るのみでした。さらに見栄っ張りだった私は、自分にできないものまで抱え込んでいることがよくありました。見栄っ張りというのは、外見は立派そうに見えますが、内面はいい加減で、よく考えていないというか、ものごとがよく見えていないことが多いのです。ある意味目がさえぎられている人なのです。私も、いろいろな試練があって、目が開かれ、神様を信じるものへと変わりました。
今日の聖書箇所に出てくる二人は、神を信じる者たちですが、二人とも最初は目がさえぎられていて、一緒に歩いているのが、イエス様だとわからなかったのですね。ふしぎですね。でもきっかけがあって、目が開かれると、ものごとが全て見えるようになりました。
今日は「目が開かれた人」(副題:絶望からの復活)と題して、みことばからメッセージさせていただきます。
1.さえぎられた目
失意の人たち
・今日の聖書の場面ですが、時は、イエス様の復活の日です。24章1節を見ると、週の初めの日とあります。前日までエルサレムでは過ぎ越しの祭りが行われ、世界中からきた巡礼者でごった返していました。その人々が故郷に帰るべく一斉に山を下りていくのです。そんな下山する大勢の中に、エマオへ向かうこの二人はいました。
・16節、「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」
私はこの個所を読むとき、いつも不思議に思っていました。なぜわからない?イエス様はフード付きの着物でも着ていたのでしょうか。十字架にかかる前、ローマのむち打ちの刑で顔がわからなくなるほど、傷ついて、顔つきが変わってしまったのでしょうか。おそらくこの二人は、イエス様はもう死んだ人で、この世にはいないという固定観念にとらわれていたのではないでしょうか。この二人の心の中は、イエス様の十字架の死を目撃したショック、失望、そして、こともあろうにイエス様を十字架につけたのが自分たち民を導く祭司長や宗教指導者たちだったことで、彼らへの怒りとやるせなさでぐちゃぐちゃだったのだと思います。失意のどん底、夢も希望もない、お先真っ暗!!!だから、眼の前にいる方が復活したイエス様だとわからない。
・19節で、クレオパともう一人が本心を打ち明けています。「この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。」
救い主のイメージ
・イエス様がなされた様々な奇跡、それも人間にはできない救い主(メシア)にしかできない奇跡の数々をこの弟子たちは見てきたのでした。イエス様は、生れつきの盲人を見えるようにし、ツァラート(重い皮膚病)の人を瞬時に癒し、死人を甦らせ、中風(脳梗塞等で体が麻痺)の人を癒したり、暴風雨を鎮めたり、5つのパンと2匹の魚で男だけで5000人を満腹にさせたりもしました。しかし、このような超自然の神のみわざを目の当たりにしても、イエス様のことを、預言者くらいに思っていたようです。
・当時(紀元30年ころ)、イスラエルの国は、ローマ帝国によって支配されていましたが、多くの人々は、この方こそお国をローマ帝国の支配から救い出し、自分たちを自由にしてくださる方だと望みをかけていたのです。
・イスラエル民族は、自分たちの先祖が約1500年前(BC1500年頃)に、モーセに率いられて、エジプトの奴隷生活から脱出し、自由となり、イスラエルの国を作ったことを、聖書をとおして過越しの祭りを通して語り継いできました。そして今また、ローマ帝国の支配から、救い主によって解放してくださると期待していました。外国に支配されて苦しみの中にいた民衆にしてみれば、征服者の圧政から救い出してくれる政治的なリーダー、政治的な指導者が、救い主だと思っていました。モーセのような人を救い主として思い描いていたのでした。
・それなのに、救い主として期待していたイエス様は、十字架に掛けられ、殺されてしまいました。それが3日前のことです。大ショックです。夢も希望もないと嘆くこの二人の姿は、実は、罪ある人間の自然な反応でもあります。
心の鈍い人たち
・そこで、25節、「イエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」とあります。
イエス様は彼らを心の鈍い人たちと言っています。預言者たちの言ったすべてを信じないとは、部分的に信じないところがあるということ。直前には、墓に見に行った女たちがイエス様の復活を知らせましたが、その話を信じませんでした。様々な奇跡を見て、イエス様が聖書に預言されていたメシア、キリストであると信じても、復活までは信じられない。預言者をとおして、救い主メシアの十字架と復活は何度も語られてきたし、イエス様ご自身も事前に何度も話された。それを信じないので、心の鈍い人たちと言われたのです。
心の鈍い人はものが見えない
・以前の私がそうでしたが、人は自分に都合の悪いことが起こると、問題の原因を誰かのせいにしたり、問題を隠したりします。精神的な安らぎを得ようとして、哲学に解決を求めたり、自己啓発や能力開発に助けを求めたりします。これは、自分の力で何とかしようという思いの表れで、自分の期待するもの、願っているものを見出そうとする姿ですが、反対に期待していないことには気づかないことがあります。
言い方を変えると、人は自分の見たいものだけを見る。見たくないものは目に入らない(見ない)ことがあります。脳の機能だという脳生理学者もいますが、人間の体がそのようになっていることについては、聖書は、罪の結果であると言っています。これは自己中心、自分の好き嫌いで事の良し悪しを判断することで、神様が私たちに与えた良心(神のみこころ)によって判断することを拒否している状態、つまり、神様とともにいないで、神から離れている状態なのです。これはアダムの罪です。アダムは、神様から禁じられた善悪の知識の木の実を食べた結果、自分の好き嫌いで善悪を判断するようになりました。自己中心です。それをずっと人間は受け継いでいます。
自己中心
・歴史を見ても、権力者自身が法律になり、逆らう者を迫害してきました。自国中心が高じて他の国を侵略し戦争を引き起こしました。一部の権力者が多くの民を支配するために身分制度が作られました。インドのカースト、江戸時代の士農工商、中国の共産党独裁、すべて自己中心の結果です。反対に聖書に書かれた神様のみこころ(公正・善悪)を法律にして、キリスト教国で憲法がつくられました。人権、自由、平等、平和は神のみこころをあらわしたものです。ですから、自己中心というのは、自分を神とすること、真の神様から離れることであり、罪を犯していることなのです。因みに、“欲に目がくらむ”ということばがありますが、理性を失う、良心に背く、神様から離れるということでは同じ状態です。
・聖書に“目がさえぎられていて”と書かれたこの時の二人の心の中は、自分たちの解放者と望みをかけていたイエス様の十字架という最も見たくないものを見たことで、悲しみと不安、恐れに支配され、物事が見えない状態だったのかもしれません。ですから、イエス様が十字架にかかる前に、「キリストは祭司長たちに渡され、殺され、三日目によみがえる」と言われたことも、思い出すことができなかったのでしょう。
しかし、そのことをイエス様は、改めて聖書(旧約聖書)から説明され、それが今まさに起こっていることですよと言われたのです。これは、神様の愛の現れであり、人類を救う唯一の方法だったのですが、人間の理解を超えたものでした。
2.神様の救いのご計画
聖書に示されていた救い主
・27節には、「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自身について書いてある事がらを説明された」とあります。創世記で、“アブラハムが一人子イサクを捧げた”のは、罪の贖いのために唯一人の子が犠牲にささげられることを。出エジプト記では、“過ぎ越しの小羊の血”によって裁きがまぬかれることが書かれています。イザヤ書には、“私たちのそむきの罪のために刺し通され、ほふり場へ引かれていく小羊のようだ”と、そして、ダニエル書には、油注がれた者(メシア)は定められた時に絶たれる、つまり殺されることが書かれています。これら以外にもたくさんありますが、これらすべては、3日前の十字架で現実となったことです。この救い主イエス様の十字架こそが、罪ある人間を救うための唯一の方法でした。それを神様はモーセを通して、預言者をとおして予めイスラエルの民に伝えていたのでした。
唯一のご計画
・26節でイエス様は言われました。「キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのか」と。キリストの十字架と復活。それは必ず成就すると聖書に約束されていたこと。このことを1コリント15:3-4でパウロが簡潔に書いています。「キリストは、聖書のしめすとおりに、私たちの罪のために死なれたこと(十字架)、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと」と。これが福音です。
・さらに、使徒の働き4:12には、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」とあります。この救われるべき名とは、もちろんイエス様のお名前です。へブル語で、「イェシュア」、“主は救う”の意味です。
・メシアをこの世に送り、メシアの十字架によって、罪ある人間を救う、そのメシアの名は「イェシュア」、これが神様の唯一のご計画です。
3.開かれた目
真理を体験した人
・30節~31節 「彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった」とあります。それでとはどういうことなのでしょうか? 道々、イエス様は、聖書全体から、救い主について書いてあることを、つまりイエス様ご自身に起こったことを彼らに解き明かされましたが、そのなかには、救い主が十字架にくぎ付けにされることもあったはずです。この後、食卓で、イエス様はパンを取って祝福し、裂いて二人に渡されました。三日前の十字架の前夜、最後の晩餐のときにも、全く同じことが行われていました。イエス様はパンを取って祝福し、裂いて弟子たちに渡されたのです。
・しかし、ただ一つ違っていたところがあります。それは、この時のイエス様の両手(手首)に、十字架の釘穴が開いていたことです。
・それで、二人の目が開かれました。眼の前にいるのが、復活したイエス様だと分かったのです。更に、直前にイエス様が説明された、聖書に書かれている救い主のことが、全て本当のことだったと確信したのです。「キリストは祭司長たちに渡され、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目によみがえる」と。信じられないようなことですが、今まさにそのことが、この数日間に起こったことであったと、聖書に書かれていたことは本当のこと、真理であったと分かったのです。
人生の復活
・目が開かれたこの二人は、数分前とは別人のようになっています。エルサレムから下山しエマオに向かう時は、絶望し、意気消沈して、下を向いていた二人ですが、復活の主イエスにお会いしたことで、復活の希望を抱き、意気揚々と上を向いてエルサレムへ上って行きました。人生が復活したのです。それまで自分の願いに固執し、自分の見たいものだけを見る「心の鈍い人」だった二人が、預言者の語ったすべてを信じる者へと変えられました。
・復活の主に出会った二人の心は燃えていました。いのちにあふれました。聖霊によって動かされ、すぐさま、エルサレムへと戻りました。弟子たちのところへ、復活の主イエスを伝えるためにです。
・真理を知ったものは、心が燃やされ、真理を周りの者たちへと伝えずにはいられなくなります。聖霊が働かれ、いのちに、満ち溢れるからです。イエス様の十字架を語り、御子イエスを十字架につけてまで私たちを救いたいと願う父なる神の愛を伝えずにはおられません。
ルカの福音書24:46-48に、イエス様がこう語っています。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」 これは、弟子たちに言われた言葉ですが、救われた私たちへのことばでもあります。
クレオパのその後
・心燃やされた二人ですが、クレオパに関してはその後の情報があります。このできごとの後、約30年後のこと、クレオパは、主の弟ヤコブ(ヤコブ書の著者)の後を継いで、エルサレム教会のリーダーに。そして、ad66年、ローマ軍がエルサレムを包囲すると、ルカ21:20-21の御言葉(「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。」)に従い、ローマ軍の一瞬の隙を逃さず、信徒をエルサレムから脱出させて、多くのいのちを救うという働きをします。
主の教えに忠実なしもべの役割を果たしました。
私たちへの約束
・さて、二人の目が開かれた後、イエス様の姿は忽然と消えます。それまで二人は、復活したメシア(救い主)を目の前にみて、語り合い、食事を共にしようとしていました。復活したキリストは、霊ではありません。自分たちと同じように歩き、語り合い、パンを取って、裂かれたのです。自分たちと同じように肉体を持っている。しかし、このすぐあと、瞬時に見えなくなりました。復活の体はこの世の法則を超越した、超自然の体です。永遠の体、栄光の体です。
・この復活の体、栄光の体は、イエス様を信じる私たちにも約束されています。主の御再臨の時、成就します。1コリント15:52には、 「・・・ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」とあります。
ピリピ3:21にも、 「キリストは、万物をご自身にしたがわせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」とあるように、私たちにも復活の約束が与えられています。私たちは、主の日に、主と同じ栄光の体へと変えられます。霊の話ではありません。この栄光の体をいただいて、主と永遠に生きる、これが永遠のいのちの約束です。
【結び】
下を向く者から上を向く者へ
・エマオの二人は、ローマの支配から解放してくださる解放者を待ち望んでいました。自分の考えで自分中心的な救い主を求めていました。だから復活のイエス様にお会いしても、目がさえぎられていて、イエス様とわかりませんでした。しかし、聖書の解き明かしを聞き、イエス様の手を見たとき、目が開かれて、神様の救いのご計画を理解できました。そして、心燃やされ、クレオパはみ言葉に忠実な弟子に、教会の中心的な働き人へと変えられていきました。
・現代の私たちには聖書が与えられています。主は、聖書をとおして、私たちの目を開き、真理を、救いの計画を悟らせてくださいます。そして、私たちの人生を復活させてくださり、一人ひとりに与えられたご計画を歩む者にしてくださいます。
・更に、救われた私たちには、主の日(御再臨の時)にイエス様と同じ栄光の体に変えられる約束が与えられています。日々の生活のなかでは困難な時もありますが、そのような時にこそ、復活の約束をいただいているのですから、下を向いて意気消沈するのではなく、主イエスに希望を抱いて、上を向いて歩んで行きましょう。