わたしがあなたを贖った

礼拝メッセージ
荒野でモーセが上げた青銅の蛇のモニュメント
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聖書箇所: イザヤ書 43章 1節~7節

43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、【主】はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、【主】はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
43:3 わたしが、あなたの神、【主】、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
43:5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。
43:6 わたしは、北に向かって『引き渡せ』と言い、南に向かって『引き止めるな』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。
43:7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。

今日の聖書個所の直前には、神様から離れ、偶像礼拝に走ったヤコブ(イスラエル)の民が、神様の裁きを受け、バビロンによって国が滅ぼされたときの姿が書かれています。預言者たちの忠告に耳を貸さず、目の前の危機に目を留めなかった彼らは、耳しいた者、盲人と言われ、はたして、バビロンにかすめ奪われ、略奪され、町々は焼き尽くされてしまいました。生き残った民、見る影もなく、ボロボロになった、そんなヤコブ(イスラエル)の民に、神様は語り掛けられます。それが今日の聖書箇所です。

1.神様は愛される方

・ヤコブを造り出した神

43:1で、神様は、「ヤコブよ、イスラエルよ」と呼びかけられます。ヤコブもイスラエルもイスラエル民族のことですが、ヤコブというと、アブラハム・イサク・ヤコブと続く血筋、家系のニュアンスがあり、イスラエルというと、神様に選ばれた民、神様の民というニュアンスがあります。そのヤコブは、神が造り出したと書かれています。この「造り出す」という言葉、原語のヘブル語では“バラー”という特別な言葉です。

【創世記1:1】
初めに、神が天と地を創造された。

この「創造された」という言葉。何か材料を使って物を作る(=加工する)のではなく、何も無いところから存在するものを創造する、造り出すという意味で、神様にしかできない言葉です。ヤコブの先祖、父祖アブラハムが約束の子イサクを授かったのが、100才の時、妻のサラは90才。サラには普通の女性にある月のものがすでに無くなっていました。生理学的には妊娠することができないのに、神様のことばのとおり、サラは妊娠し、男の子イサクを生みました(創世記17章)。そのイサクの子がヤコブです。ですから、ヤコブはその家系自体が人間の営みに神様が介入され、いわば神様によって造り出された民なのです。

・ともにおられる神

43:2では、神様はヤコブとともにおられると書かれています。水の中でも、川を渡る時も、火の中でもいつも一緒にいるというのです。水の中を過ぎる時とは、出エジプトの時。神様は、昼は雲の柱、夜は火の柱となって民とともにおられ、紅海を2つに割って、民が海の中の乾いた地を歩けるようにして脱出させました。川を渡る時とは、ヨシュアに率いられた民がヨルダン川を渡る時、川の流れが堰をなして立ち上がり、民は乾いた地を渡りました。火の中を歩いても、とは、この後、バビロンの地でのこと。火の燃え盛る炉に投げ込まれたダニエルの友人3人(シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ)が、共に火の中にいた御使いによって守られ、焼かれなかったこと。
これらを通して、神様は過去にも、今も、そして将来も、苦難の時にはイスラエルの民ととともにおられ、助け出されるのです。
そのような神様を、黙示録では、み使いたちが昼も夜も絶え間なく賛美しています。

【黙示録4:8】
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」

・背きの民への忍耐

一方、ヤコブの民はというと、彼らは、神様から“うなじのこわい民”と呼ばれています。うなじとは首筋のことです。牛や馬を扱う時には、首にくびきや手綱をつけて、前後左右に引いてコントロールしますが、強情な牛や馬はこの首のコントロールが効きません。これを“うなじがこわい”と表現しています。神様から離れ、偶像礼拝を行うヤコブの民に、神様は預言者を通して、何度も正しい道に立ち返るように語られますが、彼らは聞く耳を持ちません。少し先の48章には、“あなた(ユダヤの民)はかたくなで、首筋は鉄の腱”と神様から言われています。
そんなヤコブの民に対して、神様は忍耐をもって扱われます。

【イザヤ書48:9-10】
「わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを押さえて、あなたを断ち滅ぼさなかった。見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」

銀を練る場合は、溶かして浮いてきた灰汁、不純物を取り除いて、純粋な銀にしますが、ヤコブの場合には、不純物(不信仰者)が多すぎて、銀と同じように練ったら、ほとんど残らない。だから、ヤコブを練ったが、銀のようには練らず、民を絶ち滅ぼすようなことはしなかったというのです。本来なら、断ち滅ぼされてもおかしくないほどの背信の民なのに、ヤコブの民は神様が造り出した民であるがゆえに、神様はご自身の名のため、栄誉のために、怒りを遅らせ、忍耐をもって扱われたのです。

わたしの目には高価で尊い

更に、憐れみ深い神様は、生き残ったヤコブの民(残りの者)に次のように言われます。

【イザヤ書43:4】
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

聖書の中でも最も有名で、最も神様のことを表している言葉ですが、神様は、ヤコブの民が、立派で、素直で、魅力的だから愛しているのではありません。
思い出していただきたいのですが、冒頭でも言ったように、この言葉は、バビロン帝国に侵略され、捕囚にされた民に対して語られた言葉です。バビロン捕囚は、神様から離れ、偶像礼拝に走った罪に対する神様の裁きです。民は財産や愛する家族を奪われ、焼け出され、奴隷にされてバビロンへ引かれていきました。そんな心身ともにボロボロになり、苦しみと絶望の中にいる民へのいたわりと慰めの言葉なのです。
水の中を過ぎる時も、川を渡る時も、火の中を歩く時もともにおられる神様ですが、愛するがゆえに、裁かざるを得なかった民へのことばなのです。

イエス様のたとえ話に出てくる放蕩息子を迎える時の父と同じです。好き勝手に出て行って、遊び惚けて財産を食いつぶしたことには一言も触れず、一切叱らず、悔いて戻ってきた息子をただただ手放しでいとおしむ父親の愛です。

このことは、神様が、間違いを犯したことを悔いている人には叱責ではなく、また、悲しんでいる人や失意の底にいる人には激励ではなく、いつもそばにいて寄り添い、それでも愛しているよといたわってくださる方であることを表しています。今、困難の中にいる兄弟姉妹、ともにいてくださる神様の愛を受け取りましょう。

2.神は新しいことをされる方

・捕囚からの帰還

神様に裁かれ、捕囚にされたヤコブの民ですが、43:5-7で、神様は、東から、西から、北から、南から、遠くから、地の果てから、ヤコブの民を元の地に連れ戻すと語られます。これは、直前に捕囚にされたバビロンからの帰還のことでもありますが、世界中からの帰還なので、アッシリア捕囚からの帰還でもあり、ローマによって世界中に散らされ、1900年ぶりに祖国に帰ってきている現在のことも表しています。このようなことは歴上例を見ません。神様による全く新しいことです。更に、この民の帰還については、マタイの福音書24章やヨハネの黙示録7章で、世の終わりには、み使いが世界の四隅から選びの民を集めると書かれていますので、終末のことをも表しています。

そして、バビロン捕囚からの帰還については、48章で、神様が解放者(ペルシャのクロス王)を起こし、バビロン帝国を滅ぼし、ヤコブの民を解放すると書かれています。事実、ヤコブの民は、バビロン捕囚から70年後に、預言者によって前もって語られたとおりに、エルサレムへ帰還します。

・神は背負われる方

神様はどのようにして、ヤコブの民を捕囚から解放するのでしょうか。46章には、生き残っている者たちを神様が背負って救い出すと書かれています。

【イザヤ46:3-4】
「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」

神様は、ヤコブの民を生まれる前からご存じで、胎内にいる時から担ってくださり、老いても背負ってくださると書かれています。神様は、苦難の時に背負って救い出してくださる方なのです。この直前の46:1-2には、人間が木や石で作った偽りの神、偶像のことが書かれています。人が造った偶像は、獣や家畜に乗せられ運ばれるが、人や家畜の重荷になるだけで、人や家畜をかがませても、苦難から救い出すことはできない。偶像は人が背負うが、神様は人を背負ってくださるのです。

人を背負ってくださる神様というと、皆さん、あの有名な、マーガレット・パワーズ氏の詩『フットプリント(足跡)』を思い出すのではないでしょうか。イザヤ書46:3-4のみことばをイメージして読んでみましょう。

・フットプリント

「ある夜、わたしは夢を見た
わたしは主と共に、渚を歩いていた
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出される
どの光景にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。

一つはわたし、もう一つは主の足跡
これまでの人生の最後の光景が映し出された
わたしは、砂の上の足跡に目を留めた。

そこに、足跡はひとつしかなかった
わたしの人生でいちばんつらく、悲しいときだった
この事がいつもわたしの心を苦しめた
わたしは主におたずねした

『主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、共に歩み、
わたしと語り合って下さると約束してくださいました。
それなのに、わたしの人生で一番つらかったとき、
足跡はひとつしかありませんでした。
あなたを最も必要としていたとき、あなたは、
なぜ、わたしを一人にされたのですか。』

主はささやかれた。
『わたしの大切な子。
わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみの時に。
足跡が一つだったのを見たのか。
あなたを背負って、わたしは歩いていたのだよ。』

私たちは、日常生活でさまざまな苦難に会い、その時は神頼みをしますが、苦難が去った時には、まるで自分一人で苦難を克服したかのように思ったり、勝手に苦難が通り過ぎたと思いがちです。実は、背後で私たちを支え、脱出へと導いてくださるお方がいるのに気づいていません。神様は、常にともにおられ、私たちが弱い時にこそ、私たちを強めてくださるお方であることを覚えましょう。

・いのちの回復

43:19-20にも新しいことが書かれています。

【イザヤ書43:19-20】
「見よ。わたしは新しいことをする。今、もうそれが起ころうとしている。・・・わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。・・・わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。」

神様は新しいことをする、もう起ころうとしている、と。それは、荒野と荒地の回復。つまり、バビロンに滅ぼされ、荒廃したイスラエルの地を再び水の潤う地にすること。
水とはいのちの象徴です。潤い豊な地とは多くの民が集う国に回復されること。散らされた民が戻ってきて、活気のある国が再建されることを表しています。

・聖霊の約束

更に、44:3 には、次のようにあります。

【イザヤ書44:3】
「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」

これからすぐに起こる、捕囚からの解放、散らされた民の帰還、国の再建だけでなく、将来、民の子孫に、神の霊が祝福として注がれると書かれています。このことは、ヨハネの福音書では、イエス様を信じる者に与えられる御霊(神の霊=聖霊)であると書かれています。

【ヨハネの福音書7:37-39】
 「『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」

イエス様は、秋の祭りである仮庵の祭りの最終日に、渇いている群衆に呼びかけられました。この祭りの時期は、乾季の終わりで、1年で一番乾き切った時ですが、ここで渇いている者とは、肉体の渇きよりも霊的に飢え渇いている者のことを言われたのです。
この中でイエス様が引用された「聖書が言っているとおりに」とは、ここイザヤ書44:3のみことばのことなのです。
そして、このみことばは後に、現実のものとなりました。使徒の働き2:1-4には、五旬節の祭りの日に聖霊が降ったことが記録されています。イエス様を信じる者たちはみな聖霊に満たされました。これも新しいことです。

3.神は贖われる方

3つ目のポイントは、神様は贖われるお方だということです。贖いとは、聖書的には、買い戻す、犠牲を払って取り戻すことであり、囚われの人を身代金を払って解放することです。

・イスラエルの民の贖い

憐れみ深い神様は、神様に背いて裁きを受けたヤコブの民全てを断ち滅ぼすようなことはせず、残りの者を残し、更にその残りの者を神ご自身が贖って(自由にして)くださった。

贖いの代価は、エジプトの産物であり、クシュ(エチオピア、南スーダンのこと)、セバ(イエメンのこと)、他の国民のいのちです。このことは、捕囚から70年後、バビロンを滅ぼしたペルシャのクロス王によって成し遂げられました。神様はクロス王のなすことをことごとく成功させ、エジプト、クシュ、セバを征服し、その戦利品、奴隷等がイスラエルの民を解放する代価ともなったのです。

・すべての人の贖い 

神様はまた、ヤコブの民だけでなく、全ての民が罪から、またその結果である死から贖われることを望んでおられます。私たちは、以前は神様を知らない者でした。神様を否定し、罪のゆえに裁かれて滅びる存在でしたが、全ての人の罪を贖うキリストの十字架によって、罪赦され、生きる者とされました。私たちの贖いの代価は御子のいのちです。イエス様のいのちと引き換えに私たちは罪と罪の結果である死から解放されました。ローマ書には次のように書かれています。

【ローマ人への手紙3:23-24】
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」

イエス様が私たちの罪のために十字架でいのちを捧げてくださったので、私たちは価なしに、つまり自分で犠牲を払うことなしに、罪がゆるされ、義と認められて、永遠のいのちをいただくことができるのです。
イエス様の十字架は信じる全ての人を贖う、ただ一度の完全な贖いです。

結び 

・わたしを仰ぎ見て救われよ

今日は43章を中心に神の民の解放について見てきました。また、イスラエルの解放をとおして、神様は愛される方であり、新しいことをされる方であり、贖いをされる方であると学びました。そして、この贖いについては、神様はイスラエルの民だけではなく、全ての民が贖われることを望んでおられます。

【イザヤ書45:22】
「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」

神様を仰ぎ見るとは、神に助けを求めて顔を上げること、それまで背を向けていた状態から神様に向き直って、神様に顔をむけること。悔い改めと同じことです。

・荒野でモーセがあげた青銅の蛇

民数記21:8-9で、エジプトを脱出したイスラエルの民が荒野で、食物や水のことで神に不平を言ったため、裁きとして多くの者が蛇に咬まれて死ぬという事件がありました。この時、モーセは神様から言われたとおりに、旗竿に青銅の蛇をつけて高く掲げました。そして、その蛇を仰ぎ見た者は死なずに生きた、と書かれています。 これは救いを得る十字架の型です。

荒野でモーセが上げた青銅の蛇のモニュメント

・上げられたキリスト

【ヨハネの福音書3:14-15】
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

これは、イエス様ご自身のことばです。「上げられる」とは、十字架につけられて、高く掲げられることを意味しています。イエス様は、御子を信じるすべての人の罪を贖う代価として、ご自身のいのちをささげると予告され、そして、そのとおりに実行されました。
それは、イエス様を信じる者、つまり十字架を見上げる者がみな、救われて永遠のいのちを持つためです。
神様は、「わたしがあなたを贖った」(イザヤ書43:1)と言われました。御子イエス様のいのちと引き換えに、私たちは贖われたのです。
神様は、すべての者が唯一の救い主であるイエス様を信じ、十字架を仰ぎ見て救われることを望んでおられます。

 

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