罪の赦しはミッション・インポッシブル?

礼拝メッセージ
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聖書個所:マルコの福音書2章1節~12節

2:1 数日たって、イエスがカペナウムにまた来られると、家におられることが知れ渡った。
 2:2 それで多くの人が集まったため、戸口のところまですきまもないほどになった。この人たちに、イエスはみことばを話しておられた。
 2:3 そのとき、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。
 2:4 群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。
 2:5 イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
 2:6 ところが、その場に律法学者が数人すわっていて、心の中で理屈を言った。
 2:7 「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」
 2:8 彼らが心の中でこのように理屈を言っているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて、こう言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんな理屈を言っているのか。
 2:9 中風の人に、『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
 2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、
 2:11 「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。
 2:12 すると彼は起き上がり、すぐに床を取り上げて、みなの見ている前を出て行った。それでみなの者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神をあがめた。


新型コロナウィルスが世界中に蔓延し、中国、欧米ではロックダウンしている都市があちこちにあります。この病は未知の病で、ワクチンもなければ、治療法もよくわかっていません。連日のニュースで、対応に追われる政府や医療関係の方々の働きをみていると、不可能と思えるようなミッションに立ち向かうトム・クルーズ主演の映画ミッション・インポッシブルを思い出しました。今日の聖書個所に出てくる中風の人とその友人たちのとった行動も、なかなかできることではありませんが、何よりイエス様が中風の人の罪を赦した(結果、中風を癒した)ことこそ人間にはミッション・インポッシブルなことでした。ということで、「罪の赦しはミッション・インポッシブル?」と題して、み言葉を分かち合います。

1.イエス様へ近づく信仰

ペテロの姑の家

 中風の友人を癒していただこうと4人はイエス様のところへ行こうとしますが、彼らの目の前には、多くの群衆がいて、イエス様に近づくどころか、家の中に入ることすらできない。そこで、彼らは、そこまでやるかと思われる行動をとりますが、その前に、当時の家の造りを確認しておきます。今回の場面となったペテロの姑の家は、今もカペナウムに家の跡(壁)が遺跡として現存しています。

ペテロの姑の家の遺跡
イエス時代の家の模型 (イエス時代の日常生活より抜粋)

 当時の家は、石を組んで壁を作り、1階の部屋をつくります。各部屋は人の住むところと家畜用の部屋もあり、人と家畜が同居していました。天井には木の枝を渡し、そこに草や粘土で固めて天井をつくります。2階は天井間、つまり屋上となっています。

ワンチームのプレイ

 このような構造になっていたので、彼らは屋上に上がって、1階の天井をはがすことができたわけですが、彼ら4人の行動は、力仕事でありながら、息の合った、まさに“ワンチーム”のスーパープレイでした。彼らの行動には、イエス様も驚かれたと思います。多くの人たちを前に御言葉を教えていたところに、はじめはパラパラと枯草や小枝が落ちてきたと思ったら、突然、天井に穴が開いて、病人を寝かせた寝床が四隅をロープで結ばれて降りてきた。土埃が舞う中、4人は、見事ワンチームのわざで、イエス様の目の前に病人を着地させました。奇想天外でありながら、見事なミッション・インポッシブルな行動です。

必死に求める信仰者

 中風の本人を含め彼らは必死だったと思います。他人様の家の屋根を勝手にはがしてまで、何とかイエス様にたどりつきたいとの思い、それは、“イエス様なら必ずいやしてくださる”との信仰の現れでした。他にも、このように必死にイエス様を求める信仰者が福音書には何人も出てきます。長血の女、ツアラートに侵された人、子犬呼ばわりされたカナン人の女、などなど。皆、必死に求めた信仰者たちです。
 ヤコブの手紙4:8には、「神に近づく者には、神が近づいてくださる 」とあります。熱心な者には神様も応えてくださいます。そして、イエス様は、彼らの乱暴な行動を非難するどころか、歓迎しているようです。そして、彼ら(中風の人と4人)の信仰を見て、言われました。「子よ、あなたの罪は赦されました」と。ここで注目したいのは、「罪は赦されました」ということばです。

2.病(中風)と罪

中風(ちゅうぶ)とは

 中風とは、どういう病気でしょうか?けがでしょうか?辞書を見ると、“脳卒中の後遺症やケガなどで体の一部がマヒした状態”のこと。私は学生の頃、サッカーの試合中に右足を複雑骨折して、手術のため下半身麻酔を受けたことがあります。痛みがわからなくなったのは良いのですが、自分の意志では足を動かせないのです。自分の足なのに、別の物体のようで、何とももどかしい感じだったことを覚えています。体がマヒした中風の人は、本当に不自由で辛い状態だと思います。

イエス様のことば

 その中風の人に対して、イエス様は、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。「癒されなさい」ではありません。中風の人は病を癒してほしくてイエス様のところに来たはずです。癒しのことばが欲しかったはずです。しかし、イエス様のことばは「罪が赦された」でした。
 マルコの福音書1:1には、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」とあります。イエス様は神の子であるとの宣言です。イエス様の宣教のはじめのことばも「神の国が近づいた」でした。イエス様は神の子であり、罪を赦す権威をもっているので、このように「罪は赦された」と言われたのでした。キリストを信じるものは罪赦され、神の国(御国)に入ることができる、キリストのいるところが御国(罪のない国)であり、御国では、罪がないので、罪の結果である苦しみもありません。その御国の生活の前味を体験できるようにと、病を癒されたのでした。

病は罪の結果?

 では、病は罪の結果なのでしょうか?ヨハネの福音書9:2-3には、生まれつきの盲人の話がでてきます。弟子たちをはじめ当時の人々は、盲目というのは罪の結果と思っていました。だから、この人が盲人で生まれたのは、本人(胎児のとき)の罪か、両親の罪かと聞いています。これは因果応報(悪い原因が悪い結果をもたらす)という宗教の考えです。
 これに対してイエス様は、「この人の罪でもなく、両親の罪でもない、神のわざが現れるため」と言われました。盲目イコール罪の結果ではないし、親や先祖の過去の罪の結果でもないと。第Ⅱコリント5:17には、「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」とあります。過去に呪いがあったとしても、全ての呪いは、イエス様を信じた時消え去りました。イエス様を信じる者は、呪いから解放されています。もちろん、罪を犯した結果、病にかかるということもありますが、病がすべて罪の結果、ということではないのです。

親の罪について

 本人の罪ではなく、親の罪ということについてはどうでしょうか。親の罪に関連して、聖書には親の影響についての記述があります。出エジプト記20:5には、「偶像を拝んではならない。・・・わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし・・・」とあります。しかし、これは、父が罪を犯した結果、呪いが子や孫、ひ孫にまで及ぶ、ということではありません。父の悪い行い(偶像礼拝)を見ていた子や孫に、悪い行いの影響が及ぶ(悪い行いをまねる、受け継ぐ)ということです。
 聖書では、罪とは、神様に逆らい、神様に背を向けた状態を言います。悔い改めて、神に立ち返れば、罪は赦されます。だから、イエス様は言われた。「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。

3.罪の赦し

人間には不可能なこと

 罪の赦しは、人間には可能なのでしょうか?結論からいうと、罪の赦しは人間には不可能です。イエス様が中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われましたことに対して、律法学者がこう言っています。「神おひとりのほか、だれも罪を赦すことはできない」と。これは正しいことを言っています。真理です、まさに人間にとってはミッション・インポッシブルです。

どちらがやさしいか?

 そこでイエス様は、ご自身が神の子(つまり神)であるということを信じられない律法学者たちが、自分で悟ることができるように質問されました。自分で答えを出すように導く、カウンセリングの手法です。それは、「罪は赦された(これは見えないこと)」と言うことと、「起きて寝床をたたんで歩け」(これは見えること)と言うことと、どちらが易しいかと。皆さんは、どちらが易しいと思いますか。人間的に見れば、見えることはすぐに結果がわかるから、見えないことのほうが言うのは易しいと思うのではないでしょうか。

罪を赦す権威を持つ方

 この質問に続いて、イエス様は言われました。「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを、あなたがたに知らせるために」と言ってから「起きなさい」と言われました。「罪を赦す」ことは見せることはできないが、人の目にはもっと難しい、目に見えること「起きなさい」と言ってそれを実現させることで、わたしのことばに「罪を赦す」権威があることを示されたのです。しかし、実際には、目に見えない「罪を赦す」ことのほうが断然難しいです。なぜなら、罪を赦すことは人間には不可能で、神様にしかできないことなのですから。

罪を赦す権威とは

 罪を赦す権威とはどういうことでしょう。罪の赦しには罪の償い(贖い)が必要。これは神様の考えでもあります。愛である神様は、同時に義なる神様。罪は必ず罰するお方です。旧約聖書の時代、人は罪を犯す度に、罪のない動物を犠牲に捧げました。皆さんの中にペットを飼っている人はいますか?我が家にも子猫がいます。ペットはとてもかわいいし、愛すべき存在で、家族同然ですよね。先ほどイエス様の時代の家について説明しましたが、当時、牛や羊、ヤギなどの家畜は、財産であると同時に、同じ家に住む仲間、家族同然だったのです。その家族同然の家畜を人の罪の代わりに犠牲に捧げる、それが罪の償いです。皆さん、自分の罪の償いのために、愛するペットを犠牲にできますか?

十字架のミッション

 私たち人間の罪を贖うため、イエス様はすでにご自身の命を犠牲にする(十字架にかかる)と決めておられました。だから、「あなたの罪はゆるされた」と言うことができたのです。ヨハネの福音書10:18には、「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです」とあります。これが、イエス様のミッションでした。人間にはできません、人間にはミッション・インポッシブルです。

神様からの一方的な愛

 そして、この罪の赦しは神様からの一方的な愛の現れでもあります。神様に背を向けた罪ある人間に、神様のほうから愛を示してくれたのです。ローマ人への手紙5:8には、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」とあります。私たちが何か良いことをしたからではなく、罪ある私たちに神様のほうから一方的に罪の贖いを、御子のいのちと引き換えにしてくださったのです。

イエス様の愛

 イエス様も、自ら進んで、十字架にかかってくださった。そして、ご自身のいのちと引き換えに、すべての人の罪の赦しを祈ってくださった。ルカの福音書23:34の「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」のことば。これは、イエス様が、自分を十字架につけようとする人たちのために祈られたことばですが、また同時に、私たち神様から離れていた人たちのために罪の赦しを祈られたことばです。私たちは、ただイエス様の十字架が私のためであったと、イエス様が私の救い主だと受け入れるだけ、それだけで、罪の赦しをいただくのです。なんという恵みでしょうか。

*結び

自分にできること

 「あなたの罪はゆるされました。」ということば、これは、私たちへ語られたことばでもあります。イエス様を信じる私たちは、罪赦され、神様から愛されている者として、神様の愛を回りの人たち、まだ神様を知らない人たちに伝えていきましょう。自分にできることをしていきましょう。自分にできることは、インポッシブルではありません。中風の人を助けた4人のように、神様に希望を置いて、自分にできることをする。福音を伝え、クリスチャンとして良い働きをする。結果はあれこれ考えずに、結果は神様に委ねましょう。

ゴスペルシンガー上原令子氏の証し

 3.11が近づきました。BFPジャパン発行のオリーブライフ3月号にあった、ゴスペルシンガー上原令子氏の証しを紹介します。毎年この時期になると、上原氏は東北地方を訪問し、ミニコンサートを開いて人々を力づけています。
 2011年、東日本大震災の時、彼女は居ても立ってもいられず、被災地に赴きました。避難所や仮設住宅でミニコンサートを開いては、人々に寄り添い、慰め、力づけようとしました。そんな時、ふと思ったそうです。周りはまだ泥片付けも終わっていない、行方が分からない人もたくさんいて、ひどく混乱しているこんな時に、自分は歌なんか歌っていて、はたして何になるのか?と、心の中で葛藤していたとのこと。そんなある日、コンサートが終わった時、後ろのほうで聞いていた一人の男性が声をかけてくれたそうです。「あんたの歌を聞けて良かった。生きようと思った」と。よく見ると、その男性、裸足でした。家を失ったのかもしれない、愛する家族を失ったのかもしれない。どんな辛いことがあったのはわからないが、生きる意欲を失っていたときに、歌を聞いて生きる希望を抱いてくれた。自分には歌を歌うことしかできない。しかし、できることをすることで、あとは神様が最も良いことをしてくださる。結果は神様に委ねて、自分はできることをするだけで良いのだ、と。

私たちへの適用

 私たちも、生活しているそのところが、私たちの遣わされたところです。そこで、自分にできることをしていきましょう。み言葉を語る人はみ言葉を語り、祈る人は祈り、奉仕する人は奉仕して、自分のできることをして、イエス様の弟子としての働きをしていきましょう。あとは神様が最も良い結果にしてくださいます。たとえ、ミッション・インポッシブルなことに思えても、神様が実現してくださいます。

 

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