聖書箇所:イザヤ書2章1節~5節
2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。
2:2 終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
2:3 多くの民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。
2:4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。2:5 来たれ。ヤコブの家よ。私たちも【主】の光に歩もう。
新型コロナによって多くの人が社会活動の自粛を余儀なくされ、ステイホームの結果、それまで幸せだった多くの家庭でDVが発生しました。なぜ?やりたいことができないストレス、家から出られないストレスと、一つ場所に普段は一緒にいない家族がいることで、自分の仕事が、自分のしたいことが家族によって邪魔をされ、それでムカッとして、言葉や行動で傷つけてしまう。普段、良い人であっても、人間の本質は自己中心。自分を第一にするのはアダム以来の罪の性質ですが、コロナストレスで、ますます顕著になり、反対に他人への配慮、愛が冷めていくという、とても暗い世の中になっています。
今日の聖書個所は、イエス様が再びこの世界に来られる(再臨と言います)時の情景を預言者イザヤが幻で見たところですが、イエス様が再臨される直前には、大きな自然災害や疫病が多発し、方々で戦争や戦争の噂がおこり、人々の愛が冷たくなって、ますます暗い世になると聖書に書かれています。
ここ数年毎年起こる大洪水、大地震、コロナパンデミック、そして、人々の愛が冷めている今の時代は、イエス様のご再臨の直前の時代なのでしょうか。
1.終わりの日の主の家
聖なる都が最も高いところに
・冒頭の「終わりの日」とは、イエス様が再臨される日のことです。救い主イエス様を信じない人にとっては、それまでの世界が滅亡する世の終わりであり、イエス様を信じる者には、それまでのサタンの支配する世界から神の支配する世界へ、世の改まる時です。
・イエス様が再臨される直前には、神の裁きである7年の大患難があると聖書に書かれています。この時には、人類が経験したことのない天変地異がおこります。 黙示録6:14には、「天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された」とあります。また、黙示録16:18-20には、「この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもの…あの大きな都(エルサレム)は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れ…島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった」とあります。
・イエス様がオリーブ山にご再臨される時、地球規模の大地殻変動が起こります。
ゼカリヤ書
14:4 その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。
・この結果、現在標高800mのエルサレムは、地上で最も高いところとなります。カレンダーや写真で世界の美しい山々を見ることができますが、おそらくこの時のエルサレムは、それはそれは美しいところになると思います。
・そして、このことは、エルサレムが高められると同時に、他の偶像の山々が裁かれ、滅ぼされることでもあります。偽りの宗教は、人々からあがめられようとして高い所に祭壇を築き、礼拝する場所を作ります。大患難の時には神を信じない多くの人々が神の裁きに会いますが、偶像で汚された山や土地も終わりの日に裁かれるということです。主の日(=終わりの日)は、ノアの日のようにやって来るとイエス様はおっしゃいました。裁きの日は信じない人には突然やって来ます。
全ての民が巡礼に
・この裁きの後、生き残ったすべての民が、聖なる都エルサレムに上って来ます。人々は神への賛美を歌いながら都上りをするのでしょう。
ゼカリヤ14:16 には、全ての民族が万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために毎年、エルサレムへ上ってくる、と書かれています。仮庵の祭りは喜びの祭り、豊かな収穫を祝う祭です。
・世界中の民がエルサレムに上ってきて、歓喜に沸き上がっています。ここにはコロナによる自粛はありません。メシア(救い主)がご支配される神の御国には病は無いからです。
イザヤはこの神の御国を幻で見たのです。
2.主ご自身によるみおしえ
主のことば
・イエス様ご自身が、預言者を通さず、直接みおしえを語ります。かつて12弟子たちに直接語られたように、エルサレムに上ってきた人々に、イエス様が、直接みことばを語られます。今私たちは聖書によって神のことばを読むことができますが、この時には、人々は直接、ライブでイエス様が語ることばを聞くのです。また、様々な通信によって世界中に同時配信されるかもしれません。
みおしえ
イザヤ書
2:3 シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出る
・「みおしえ」とは、神のみこころ、神の善悪の基準です。人間の善悪では、自分の都合の良いものが善で、都合の悪いものが悪、つまり自己中心です。しかし、神の善悪は、人々が皆、平和で安全に暮らすための公正・愛が基準です。旧約聖書の時代、モーセを通して律法(トーラー)が与えられました。律法とは、十戒をはじめとする戒めや、日常生活の中での心得、守るべきことです。戒めは613あると言われていますが、イエス様はこれらの戒めのうち、次の二つの戒めが最も重要だとおっしゃいました。
マルコの福音書 12:30-31
心を尽くし、思いを尽くし、知性をつくし、力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ
あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ
足のともしび、道の光
・神はその「みおしえ」をひとつひとつみことばで語ってくださいます。それは、私たちへの教えであり、さとしであり、戒めであり、私たちの人生を正しい道へ導くものです。
・詩篇の著者は、神からのみことばによって、知恵、自制心、励ましを受けていると、詩篇119:97-104で書いています。
詩篇
119:97 どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。
119:98 あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。それはとこしえに、私のものだからです。
119:99 私は私のすべての師よりも悟りがあります。それはあなたのさとしが私の思いだからです。
119:100 私は老人よりもわきまえがあります。それは、私があなたの戒めを守っているからです。
119:101 私はあらゆる悪の道から私の足を引き止めました。あなたのことばを守るためです。
119:102 私はあなたの定めから離れませんでした。それは、あなたが私を教えられたからです。
119:103 あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。
119:104 私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。
・このようにみことばは、健全な生活をするためのガイドラインのようなもので、みことばを実践することで、日々の生活でつまづくこともなく、道に迷うこともないと語っています。
詩篇
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、 私の道の光です。
主の道
・この「みおしえ」を守る生活が主の道です。人生のさまざまな場面で、知恵をいただき、自制心をいただき、時には励ましをいただくことで、暗く、辛い世にあっても平安な日々を生きる力となっていきます。その結果、ダビデが、詩篇23編で「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来る」と謳ったように、神の祝福を得ることになります。
・しかし、このすばらしい御国に入る前には、王なるメシアの裁きがあるのです。
3.王の裁き
終わりの日の裁き
・2:4で、「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す」とあります。どのような裁きをされるのか、マタイの福音書25:31-40で、イエス様ご自身が語っています。
マタイの福音書
25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
・人の子とは、メシアを指すことばで、人となって来られた神の御子イエス様のことです。イエス様が2000年前に最初に来られた時は、救い主として来られ、私たちの罪の身代わりに十字架でご自身のいのちを捧げられました。死んで墓に葬られ、3日目によみがえられたイエス様は、多くの弟子たちの見ている前で天に昇られました。そして、今日の聖書のところでは、すべてのみ使いを伴って、栄光の王として、天から降って来られます。しかし、その時は救い主としてではなく、全ての民に判決を下す裁き主としてです。
羊と山羊
・裁きの方法は、羊と山羊に分けることです。全知の神であるイエス様は、一人ひとりの人生を、それまで行ってきたこと全てをご存じで、その行いに応じて羊と山羊に分けます。
・基準は、主の最も小さい兄弟への愛です。主の兄弟とは直接には、主の民、イスラエルの民のことですが、主を信じる私たちクリスチャンも、神の子とされ、イスラエルの民に接ぎ木されている(ローマ書11章を参照)ので、私たちクリスチャンのことをも指します。
・これらの人々への、しかも、最も小さい者への愛が基準です。先ほどのみおしえにあった、「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」、この隣人愛の実践です。食物であれ、水であれ、宿、着る者、見舞いであれ、どんな小さな行いでも、愛から出た行いは、報いから漏れることはないというのです。反対に、どんなに立派な慈善行為をしたとしても、それが名誉心や他人からの賞賛を得るために出たことなら、そのような偽善は全てイエス様はお見通しで、罪に定められます。
武器を農具に
・この救い主であり、裁き主であるイエス様が直接裁くことで、真の平和がもたらされます。
・「剣を鋤に、槍を鎌に」とあり、武器が不要な世界になったことがわかります。このことは単に、人々が武器を放棄したということだけではありません。命を奪い、社会を破壊する武器を、いのちを育む食物を生産する器具に作り直すというのは、死から命への転換の象徴であり、自分勝手な生き方から愛し合う関係への回復でもあります。
まことの平和
・神を信じ、神の「みおしえ」を守る正しい者だけが、神の御国に入ります。その御国では、神が自然界を含め、すべてを治めておられるので自然災害もなく、また、全ての者が隣人を愛する生活をするので争いがありません。自己中心な考えで高ぶる者はおらず、すべての民が、互いにへりくだり、愛し合い、助け合う、平和の楽園となります。失われたたエデンの園が回復されるのです。そこで、全ての人々は神と共に平安と喜びに満ちた生活を送ることになります。神の統治による、まことの平和が実現するのです。これが神のご計画です。
・イザヤは、神が統治するまことの平和を幻で見て、人々が剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すと預言したのです。
国連本部にあるイザヤの壁
・アメリカ、ニューヨークに国連の本部があります。その国連本部ビルの前の広場に「イザヤの壁」があります。
そこにはこう刻まれています。
THEY SHALL BEAT THEIR SWORDS INTO
PLOWSHARES. AND THEIR SPEARS INTO
PRUNING HOOKS. NATION SHALL NOT LIFT
UP SWORD AGAINST NATION. NEITHER
SHALL THEY LEARN WAR ANY MORE.
ISAIAH
彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、
国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない
(イザヤ)
・今日読んだ、イザヤ書2章4節のみことばです。
国連は、第2次世界大戦後、2度の世界大戦を経験した反省から、世界の平和と安定を目指して結成された世界機関です。もう戦争を起こしてはならないと、その精神をイザヤの壁で謳っているのですが、現実には、国連軍による武力で解決がなされることもあります。残念ながら、み言葉とは違う結果になっています。
・このみことばが実現するのは、イエス様がご再臨され、神の御国がこの地に現れた時になります。
結び
御国に入ることは、全ての人への招き
イザヤ書
2:5 来たれ。ヤコブの家よ。
私たちも主の光に(光のうちを)歩もう。
・この2行は神からの預言ではなく、イザヤの内心の表れです。イザヤは、輝かしい神の栄光を幻で見て、あるいは御国のまばゆい光の世界を幻で見て、同胞であるイスラエルの民に向かって、共に神の光に歩もうと語り掛けています。
この時の幻の中では、神の都エルサレムに世界中から異邦人が来て礼拝しているのに、そこには、同胞のイスラエルの民がいないのを見て、素直に妬みの気持ちを吐露しているのです。
・当時偶像礼拝に走っていたヤコブの家(イスラエルの民)は後になり、先に異邦人が御国に入っているのでしょうか。イエス様が言われたように、先の者が後になり、後の者が先になっています。
・このことばは、当時の神から離れたイスラエルの民への招きです。と同時に、神から離れている現代のすべての人への招きでもあります。イザヤの口をとおして、神ご自身が憐れみを示しているのではないでしょうか。
・御国はまことの平和の国。戦争や争いがないだけではなく、一人ひとりが神の愛をいただいて、隣人を自分のように愛する者たちの国。愛に満ちた国です。私たちはイエス様を信じて救われて、それで終わり、ではありません。御国に入り、御国で神を礼拝し、御国で神と共に歩む、そこがゴールです。
エデンで失われたアダムの祝福を回復させるのがゴールです。その御国で神と共に住む、それが神様のご計画だからです。
・イザヤはこの神のご計画を幻で見たのです。
希望の光
・先日、洪水で多くの人が被災したニュースを見ました。ある人は、避難所から自宅に戻り、変わり果てた家を見て、失われたものを思って呆然としていました。絶望のあまり、何も手につかない状態でした。しかし、しばらくしてボランティアが来て、黙々と後片付けを始めると、少しだけど泥が取り除かれ、元の姿が見えてきたその時、一瞬希望の光が灯り、もう一度再建しようという気持ちが沸き上がってきたそうです。
将来に対する希望の光が差し込むと、今の困難を乗り越えようとする力が与えられるのですね。
・ほんの少しの希望が人を奮い立たせるのなら、ましてや、イザヤが見た栄光の御国、私たちに約束されている栄光の御国は、どれほど私たちに勇気と力を与えてくれるでしょうか。
暗いコロナ禍の中にあっても、光の子として歩む
・今、コロナ禍の中で不安の中にいる人、人生に希望が見いだせない人にも、神様は、全ての人に、平和で喜びに満ちた御国での生活を用意されています。この御国の福音が私たちの大きな希望です。まだ主イエスを受け入れていない人へこの神様の希望のご計画を伝えていきましょう。
エペソ人への手紙
5:8-10 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。─光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです─そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
・このみことばにあるように、私たちキリストを信じる者は、光の子です。光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実、とあります。一言でいえば愛です。神を愛し、隣人を自分のように愛すること、それが主のみこころです。今はコロナ禍で、暗く辛い世ですが、主に喜ばれることが何であるかを見分けて、日々の生活を送っていきましょう。私たちには、御国という素晴らしい約束が与えられているのですから。
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