ラザロと金持ちのたとえ話① 金を愛するパリサイ人への警告

その教えは聖書的?
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ルカの福音書16章でイエス様は「ラザロと金持ち」のたとえ話をされました。このたとえ話から、「死後の世界」がどうなっているか推測する人は多いのではないでしょうか。

けれどもこの物語の目的は、死者の世界について教えることではありません。たとえ話はどのような状況、どのような流れの中で、だれに対して語られているか、文脈の中で理解することが大切です。

イエス様はこのたとえ話を通して、金を愛し富に仕える者は、神の律法と預言を退け、その結果、救い主を拒絶することにつながると警告しておられるのです。

ルカ16:19~31
16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、
16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

1.5つのたとえ話の目的と対象

このたとえ話は、誰に何の目的で語られたのでしょうか。

イエス様は取税人や罪人たちを受け入れて教えをし、食事を共にされていましたが、パリサイ人や律法学者たちはそのことを批判していました。イエス様は、ルカ15章で3つのたとえ話を用いて神の御心を示され、16章では、4つ目のたとえ話をされて神に喜ばれる信仰の行いについて教えられました。その後でパリサイ人たちに向けて語られたのが「ラザロと金持ち」のたとえ話でした。ですから、「ラザロと金持ち」のたとえ話は、その流れの中で理解する必要があります。

イエス様はまず15章で3つのたとえを話されました。

ルカ15:4~7・・・いなくなった1匹の羊を探し、見つけ出して大喜びする人
ルカ15:8~10・・・失くした1枚の銀貨を念入りに探し出し、大喜びする女性
ルカ15:11~32・・・帰ってきた放蕩息子を大喜びで迎え入れる父親

3つのたとえ話はすべて、「失われている人を探し出し、罪人の悔い改めを喜ぶ神」を表しています。パリサイ人から罪人として蔑まれていた取税人や遊女たちが悔い改める時、イエス様は大変喜んでおられたのです。

2.金好きの偽善的な宗教家たちに語られた「不正な管理人」

① 神に喜ばれる信仰の実践

4つ目の「不正な管理人(ルカ16:1~8)」のたとえ話は、悔い改めて神のもとに帰るとはどういうことか、信仰の実践について教えるためのものです。つまり、永遠の御国に入るために、この世の富を神に喜ばれる方法で用いることについての教えです。

このたとえ話の中で、主人の財産を乱用したことが見つかってしまった管理人は、自分が解雇されることを予測し、将来の生活を確保するため、自分の立場を利用して味方を作ろうとしました。

債務者の負債には、貸主である主人の受ける利息と管理人の受ける手数料が加えられており、おそらくこの管理人は、不当な手数料を取っていたと思われます。管理人は主人の財産には損失を与えないようにしながら、主人の利益分と自分の手数料分を操作して負債を減額し、債務者たちに便宜を図って恩を売り、結果的に感謝されるようにしたのでしょう。

このように、他人の財産を利用して自分の将来のために備えをした悪賢い不正な管理人を、主人は褒めたとあります。

イエス様は弟子たちに向かってこのように教えられました。

ルカ16:9、13
「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。・・・・しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

イエス様が強調されたのは、「不正の富で、永遠の住まいに迎えてくれる友をつくる」こと、そして「神と富の両方に仕えることはできない」ということです。

「不正の富」とは不正に蓄えた富のことで、「永遠の住まい」は永遠の御国を表しています。「富に仕える」とは「マモン」という金儲けの神に仕えることで、神を愛するなら、真の神とこの世の神に同時に仕えることはできません。

貧しい者に施しをすることは、モーセの律法に定められていたイスラエル社会のルールでした。自分の欲のままに財産を独り占めにする(富に仕える)のか、神と人を愛し、律法に従って自分の財産を人のために用いて神の御心を行う(神に仕える)のか。
このたとえ話の要点は、財産を正しく使い、永遠の御国で豊かな報いを受けるようにというものです。イエス様は永遠の住まいに備え、神の御心を行って天に宝を積む(マタイ6:19~20、19:21、ルカ12:15~34)ことを勧められたのです。

② 神の教えを退けるパリサイ人

「不正な管理人」の教えを聞いて、金好きのパリサイ人たちはあざ笑いました(ルカ16:14)。彼らは「金持ちは神に愛され、祝福されている、貧乏人は神に憎まれ、呪われている」と考えており、「自分は律法を守っている(正しい)から神に愛され、祝福されて富んでいるのだ」と誇っていたのです。しかし実際は妻を離別するなど、律法を守っていたわけではありませんでした(ルカ16:18、マルコ10:2~9)。

金の好きなパリサイ人たちは、自分のために相当な財産(おそらく不正な富)を蓄えていながら、彼らが罪人と蔑む貧しい人々に施すことはしなかったのでしょう。彼らは人の前で自分を義としていましたが、神は彼らの心をご存じでした(ルカ16:15)。

Ⅰヨハネ3:17
世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。

彼らは神と民とに仕えるのではなく、自分の欲に仕え、宗教的な身分を金もうけのために利用していたのです。

③ 教えを実行したザアカイ、諦めた金持ち

後に、このたとえ話通りに実践したのは、取税人の頭で罪人と蔑まれ、嫌われていた金持ちのザアカイでした(ルカ19:2~10)。彼はイエス様を喜んで自宅に迎え、悔い改めの表明として、不正に蓄えた富を貧しい人に分け与えることを宣言しました。

ルカ19:8~10
ザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

一方、イエス様に「永遠のいのちを受けるために何をしたら良いか」と質問し、自分の持ち物を売り払って貧しい人に与えるように言われ、悲しみながら立ち去った金持ちがいました(マルコ10:17~23)。

ですから不正な管理人のたとえ話は、パリサイ人のように神ではなく富に仕えている人に、悔い改めるチャンスを与えるために語られたのです。

ルカ12:33~34
持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。
あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。

3.モーセと預言者たちの教えに耳を傾けないパリサイ人

イエス様は、自分たちの罪に気付かず、イエス様の教えを侮っていたパリサイ人たちに向けて、「ラザロと金持ち」のたとえ話を通して警告されました。

この物語に出てくる金持ちは、不正な管理人と同様に、神よりも金を愛する人物でした。毎日贅沢に遊び暮らし、食卓には有り余るほどの食物があり、食べ残しのパンをナプキン代わりにして口を拭って捨てるほど豊かでしたが、毎日家の前で施しを求めている病気のラザロを目にしても、哀れみの心を持たず、分け与えることはありませんでした。神の戒めと命令を無視していたのです。

金持ちは炎の中で苦しんでいました。ラザロはアブラハムのふところで慰めを受けていました。そこで金持ちは、ラザロを自分の兄弟たちのところに送って、この苦しみの場所に来ることのないように言い聞かせてほしいと頼みます(ルカ16:27、28

このたとえ話の結論は、物語中でアブラハムが最後に金持ちに語った言葉に表されています。

ルカ16:29、31
「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。・・・もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」

「モーセと預言者の教えに耳を傾けない」ということは、律法と預言書に書いてあることを信じていない、神の御心も神の御計画も真剣に受け止めてはいないということです。だから死人がよみがえり、モーセと預言者たちが書いていたことが目の前で実現しているのを見ても、それを信じようとはしないでしょう。それがアブラハムの答えでした。

ユダヤ人たち(ユダヤ地方に住む宗教的指導者たち)は、イエス様が安息日に病人を癒やし、神を自分の父と呼ばれたことを非難しました。その彼らにイエス様はこう言われました。

ヨハネ5:39、46~47
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。・・・・もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。」

律法や預言を民に教える立場にあった律法学者やパリサイ人たちが、実は、モーセの書いたことも預言者たちの預言したことも信じてはいませんでした。口伝律法を守り、宗教的に見せかけていても、そもそも神と聖書に対する信仰がなかったのです。

ですから、このたとえ話の中の金持ちは、彼ら貪欲な宗教家たちのことを指しています。

4.ラザロの復活とパリサイ人たちの反応

イエス様は、マルタとマリヤの兄弟ラザロを死後4日目に生き返らせました。
目撃した多くの人がイエス様をメシアと信じました(ヨハネ11:45)が、それを聞いた祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して、イエス様を殺すための計画を立てました(ヨハネ11:53)。また、よみがえったラザロを見に大勢の人々がやって来たので、祭司長たちはラザロをも殺そうと相談しました(ヨハネ12:10)。

イエス様はたとえ話の登場人物と同名のラザロをよみがえらせ、ご自身がメシアであると証明されましたが、祭司長やパリサイ人たちは、よみがえったラザロを殺して、よみがえりの事実が無かったことにしようと、証拠隠滅を企みました。ラザロがよみがえらなければ、イエス様がメシアであることを否定できると思ったのでしょう。

たとえ話の中の金持ちの願いにあったように、イエス様が死んでいたラザロをよみがえらせてパリサイ人に遣わしたにも関わらず、彼らは、イエス様が聖書に約束されていた救い主であるということを認めようとはしませんでした。「ラザロと金持ち」のたとえ話は、ラザロのよみがえりを見てもイエス様を信じようとしないパリサイ人に対する、預言的なたとえ話でした。

5.イエス様の十字架と復活を否定する者への預言

イエス様が復活された時、墓の番をしていた番兵たちは、すぐ都に行き、祭司長たちに報告しました。すると祭司長たちは長老たちを集めて協議し、番兵に多額の金を与えて言いました。

マタイ28:13~14
「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。もし、このことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」

彼らは兵士たちの証言を握り潰し、事実を隠蔽して偽りを言い広めさせました。彼らはモーセと預言者たちがあらかじめ語っていたメシアの死と復活が実現しても、その事実を受け入れませんでした。モーセと預言者の言うことを信じていなかったので、悔い改めて神に立ち返ることがなかったのです。

まとめ

イエス様はルカ15章で、神は失われた民を探しており、悔い改めた罪人が神のもとに戻って来ることを大いに喜ばれると、3つのたとえ話を通して教えられました。

16章では「不正な管理人」のたとえ話から、「不正に蓄えた富を永遠の御国のために用いる」ように勧め、「神と富の両方に仕えることはできない」と忠告されました。それは、神の御心に従って富を貧しい者に分け与え、永遠のいのちのために天に宝を積むようにとの勧めでした。

そして、それをあざ笑っていたパリサイ人たちに、「ラザロと金持ち」のたとえ話を通して、モーセの律法に聞き従わず、神よりも金を愛する者は、本当は神を信じてはいないことを示されました。「モーセと預言者の言葉を信じないなら、たとえ死人がよみがえっても、その人の言うことを信じない」、つまり、イエス様の復活を見ても悔い改めて救われることがないので、最終的には神の刑罰を受けると、たとえ話を通してあらかじめ警告されたのでした。

パリサイ人や祭司長たちは、現実にイエス様がラザロをよみがえらせたことを見聞きしても、イエス様が復活されたという証言を聞いても、受け入れようとせず、その事実を知りつつ、あえて拒否しました。彼らは、モーセと預言者たちが預言していた救い主・イエス様を拒絶しただけでなく、民衆からも救いの道を閉ざそうとしたのでした。

イエス様は、彼らがこのたとえ話を聞いて悔い改め、モーセや預言者の言うことを信じ、イエス様の復活を見て救われることを願っておられたのではないでしょうか。

ヨハネ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。