今日の御言葉箇所は、ルカの福音書の最後のところ、復活されたイエス様が天に上げられる直前に弟子たちに語った場面です。イエス様は、地上生涯の最後で、弟子たちに使命を託しました。人間で言えば、遺言にあたるのでしょうか。旧約時代のモーセも、新約では使徒パウロも、最後の別れの時には、それまでともに歩んできた者たちへ遺言説教を行って、最も大事なことを話し、それを使命として託しました。イエス様は、人としては一度死なれていますが、復活され、永遠に生きておられる方なので、遺言ではなく命令ですが、やはり最後に、最も大事なことを教えられ、それを弟子たちに託されました。それは・・・。
聖書箇所 ルカによる福音書24章44節~49節
24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらのことの証人です。
24:49 さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
1.弟子たちへのミッション
メシアの受難の予告
ルカ24:42 「わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
モーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることとは、どういうことでしょう。
モーセの律法といえば、レビ記に、犯した罪を赦してもらう為には、罪のない動物を犠牲にし、その命と引き換えに罪を赦してもらう、つまり贖いが必要と書かれています。アダム以来、全ての人は罪あるものとして生まれ、罪が赦される唯一の方法が贖いなのだとモーセの律法は教えています。出エジプト記では、小羊をほふり(いのちを犠牲にし)、その血を家の門柱と鴨居に塗ることによって、神の裁きがその家を過越し、その家の中の民は裁きから逃れたことが書かれています。これはイエス様の十字架の予型(事前の予告)で、罪の裁きから逃れること、贖いを表しています。
預言者の代表イザヤ書には、苦難のしもべとしての救い主が書かれています。「私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」(53:5)と。また「主は私たちのすべての咎を彼に負わせた」(53:6)と。メシア、救い主は、私たちすべての人の罪のかわりに犠牲になると預言され、このことはイエス様の十字架で実現したのです。
世の罪を取り除く神の小羊
バプテスマのヨハネは、自分の方にやってくるイエス様を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と民に宣言しました。まだイエス様が宣教活動を始める前です。この時、既にヨハネは、イエス様がこの世に来られた目的を悟っていたことがわかります。ヨハネはイエス様を見た時、レビ記にある「人の罪のために犠牲にされるいけにえの小羊」を見たのです。出エジプト記にある「神の裁きが過ぎ越すために屠られる小羊」を、イザヤ書にある「ほふり場に引かれて行く小羊」をイエス様に見たのです。イエス様が世の罪の代価として、犠牲のいけにえとなる啓示を聖霊によって受けたのです。そして、そのとおりにイエス様は、神様に受け入れられる供え物としてご自身を十字架でささげられました。
さらに詩篇の22編には、「骨々ははずれ」、「かわききり」、「手足は引き裂かれ」、「私の一つの着物をくじ引きに」すると書かれていますが、まさしくこのことがイエス様の十字架で起こりました。また、16編には、「私のたましいをよみに捨ておかず」と復活についても書かれていますが、今日の聖書箇所のところで、弟子たちの前に復活の御体を現わしています。
これら以外にもメシアに関する数々の預言がされていますが、全てがイエス様を指し示しているのです。
ミッションはメシアの受難と復活を伝えること
しかし、直前に主の十字架、復活を目撃した弟子たちには、モーセの律法、預言者、詩篇に書いてあることと言われても、それが即十字架、復活のことだとは、すぐにはピンと来なかったようです。そこで45節にあるように、イエス様は聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、「キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり」とはっきりと説明されました。
つまり、メシアは十字架の苦しみを受け(受難)、そして三日目に復活すること、これは旧約聖書(モーセの律法、預言者、詩篇)に預言されていたことであり、それは、わたし(イエス)のことなのだと。そして、どうしても、このことを弟子たちに理解させ、弟子たちが述べ伝えることができるようにする必要があったのです。
ミッションを果たすための力
メシアが、十字架にかかり、つまり木につるされた呪われたものになり、さらに死んで葬られて3日目に復活したなど、およそ人間の知性、理性を超えた話です。人間の限られた理解力ではとうてい受け入れられるものではありません。聖霊の啓示なくしては、受け入れることはできません。しかし、これらはすべて旧約聖書に預言されていたことであり、主イエスによってことごとく現実となった事実です。そしてまた、主の再臨と御国の到来もはっきりと預言されていて、この後、確実に起こることです。これこそが福音の中心、神髄であり、この荒唐無稽と思えること、とても信じられないようなことを人々へ伝えることが弟子たちへの(そして私たちへの)ミッションなのです。
イエス様を信じたら経済が祝福される、何でも問題が解決するといった、今流行りの繁栄神学やご利益誘導が福音なのではありません。御子イエスの尊い十字架の御業と復活のゆえに、私たちの救いがある。そして主はまもなく再臨され、その時、救われた私たちは御国に入り、救いが完成する。これが福音です。しかし、この福音を人々に伝え、人々に受け入れてもらうためには、上からの知恵が、力が必要です。だから、このミッションを果たすために、約束のものを受けるまで都にとどまっていなさいと命じられまた。「ステイホーム」ならぬ「ステイ都」です。
この約束のものについては、ヨハネの福音書に具体的に書かれています。
ヨハネ14:26 「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」
聖霊は助け主、真理の御霊です。私たちがキリストの教えを理解し、蓄えるのを助けてくださり、必要な時に思い起こさせてくださるのです。
2.福音を伝える原動力はキリストのパッション
イエス様の事実を証しする
47節~48節 「その名によって、罪の赦しを得させる悔改めが始まる。あなた方はこれらのことの証人です。」とあります。これらのこととは、
- キリスト、すなわちメシアご自身が十字架に架かってくださったこと、葬られたこと
- 3日目によみがえり、多くの弟子たちの前にあらわれたこと
ここまでは、既に起こったことです。つまり、起こったことを伝える証人、伝道者となるという任命です。
- さらに、その名によって罪の赦しを得させる悔改め(つまり救い)が、エルサレムから始まって、異邦人も含めてあらゆる国の人々にもたらされること。
これは、これから起こることです。つまり、彼らの伝道で多くの者が救われるその証人となるとの預言です。
「その名によって」の「その名」自体に力があります。「その名」とは、もちろん「イエス」のことで、ヘブライ語で「イェシュア」、「主は救う」の意味です。
使徒4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」
私たちの罪を贖うために死んで、そして、死から復活した方はこの方以外にはいないからです。
証しの原動力はパッション
この「イエスの名」を述べ伝えるには力が必要です。旧約の御言葉を紐解いてメシアであるイエス様を証しする知恵と、御言葉を語る力が必要です。しかし、その原動力となるのは、ユダヤ人をはじめ、異邦人を含めたすべての人を救いたいという情熱、これは父なる神の御心そのものでもありますが、この情熱、パッションが必要なのです。
何年も前ですが、メル・ギブソンが映画パッションを作りました。パッションには「情熱」という意味と、「主イエスの受難」という二つの意味があり、十字架の受難を通して、全ての人を救いたいという主イエスの情熱を表現しました。私たち全ての人を愛し、救いたいとの強烈な情熱のゆえに、十字架の苦しみ、辱めをものともせず、死にまで従われた主イエスのパッションです。
人々に福音を述べ伝えるには、滅びに向かっている人々を救いたいという、このキリストのパッションを自分のパッションにする必要があります。単なる義務感や使命感だけでできるものではありません。だから、約束のもの、いと高き所からの力、聖霊を受けるまで待ちなさい、とイエス様は言われたのです。聖霊は主イエスの御霊です。主のパッションそのものなのです。
3.行い(アクション)の伴う信仰
いと高き所からの力
49節に約束のものが語られています。「さあ、わたしは、父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられます。」証人に任命された弟子たちは、「いと高き所からの力」を着せられます。この力については、ペンテコステの日に降った聖霊の力、聖霊の賜物のことだとわかります。
マタイ3:11では、「あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」とバプテスマのヨハネが預言しています。
聖霊と火とのバプテスマ
バプテスマのヨハネが人々に授けたのは「水のバプテスマ」でしたが、イエス様が授けるのは、聖霊と火とのバプテスマだというのです。水のバプテスマが悔い改めを表すのに対して、聖霊のバプテスマとはイエス様を信じる者の救いのことで、火のバプテスマとは信じない者への裁きだと言われます。蔵に収める麦(救い)と火に焼かれる毒麦(裁き)にたとえられ、また、主の日に羊として取り分けられて御国に入る者(救い)と、山羊として取り分けられて永遠の火に投げ込まれる者(裁き)にたとえられます。
これは、救い主として来られたイエス様が、次には裁き主として再臨されることを表しているのですが、イエス様の十字架を通して見た時、もう一つの意味があるのです。聖霊と火とのバプテスマ。「聖霊」と「火」とが一緒です。
旧約の時代には、罪を贖うために、小羊が全焼のいけにえとして神にささげられました。火によって罪が焼き尽くされました。バプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とイエス様のことを宣言しました。イエス様は全人類の罪を取り除くため、犠牲の小羊としてご自身のいのちをささげられました。自分自身をいわば「全焼のいけにえ」として父なる神にささげたのです。聖霊は、聖い主イエスの御霊です。私たちは、聖霊によって、神様を信じる者とされましたが、それは、聖霊によって、きよめられると同時に神様へ受け入れられるささげもの(献身)とされることでもあります。聖霊と火とのバプテスマは、きよめと神への全き献身ということも表しているのです。全き献身とは、自己中心的な考えを否定し、神のみ心を第一に求め、神に従っていくことです。
聖霊を求める祈り
聖霊のバプテスマと聞くと、聖霊を受けたこと、その結果として異言を語ることとされています。教会によっては、「聖霊の満たし」と同じ意味に使われることもあり、聖霊を求める祈りが重視されます。それ自体は大変すばらしいことですが、いつのまにか聖霊を求めることが目的になっていることがあります。神である主の御顔を慕い求め、主との交わりを求めるあまり、その心地よさに浸るためだけの祈りになってしまい、祈りが目的になってしまっている場合があります。祈りは、神との交わりですが、自分の願いを一方的に求めることだけではなく、神のみこころは何かを求め、示されたことを祈り、更にそれを実行するための心備えでもあります。時には、自分のしたくないことを示されることもあるでしょう。
神のみこころを行う
イエス様は、ゲッセマネで祈られました。
ルカ22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
血のしたたる祈りは、御自身の願いではなく、父なる神のみこころを成し遂げるための祈りでした。この祈りは十字架に向かうための力となりました。父なる神への全き従順として、イエス様は自ら十字架についたのです。祈りは行動を、アクションを引き出すのです。
マルコの福音書では、イエス様が弟子たちにこう語っています。
マルコ8:34 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」
聖霊と火とのバプテスマを受けて、自分中心の思いを焼き尽くしていただき、イエス様に従いましょう。全き従順は、全き献身です。聖霊は行いの伴う信仰へと踏み出させてくださいます。神のみこころを行うアクションです。
全き従順
話は変わりますが、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産となりました。そこは、400年前に日本最初のリバイバルが起こった地です。
長崎の西坂の丘に、26聖人の
ハイレリーフがあります。
京都、大阪で逮捕された26人の信者は、片耳を切り落とされ、長崎まで徒歩で引き回されました。数か月に及ぶ、600kmにわたる十字架への行進、ビア・ドロローサです。しかしこれが多くの人々への証しになりました。そして、西坂の丘(日本のゴルゴタ)で十字架刑に処せられました。
この中で最年少は12歳の男子。
棄教すれば(信仰を捨てれば)命を助けてやるとの刑吏の誘いにも「なぜイエス様のみもとにいくのに邪魔するのですか」と断り、「私の十字架!」と自分の十字架に走り寄ったとのこと。この少年はイエス様への全き従順を貫きました。
このレリーフの中心には、次の御言葉が刻まれています。「人若し我に従はんと欲せば、己を捨て、十字架をとりて我に従ふべし」。マルコ8:34の御言葉(文語訳)です。
結び ミッションの継承
今日は、ルカの福音書24章から、「われらのミッション」と題してメッセージいたしました。
今日の聖書箇所の場面から10日後、五旬節の日(ギリシャ語でペンテコステ)、あるいは、7週の祭りの日(ヘブル語でシャブオット)に、約束の聖霊が、ペテロはじめ弟子たちの上に降りました。ペテロは聖霊の力を受け、世界中からエルサレムに巡礼に来ていたユダヤ人や改宗者たちに、キリストの十字架と復活を、旧約聖書の預言、詩篇を引用して、力強く証ししました。
ガリラヤの漁師だった無学な男が、聖霊からの知恵をいただき、旧約聖書からイエス様が約束のメシアであったと証しし、悔い改めを説いたのです。ペテロの説教を聞いた人々は心を刺され、悔い改めて、イエス様を救い主として受け入れ、一日で3000人が信仰へと入りました。教会の誕生です。この日以来、教会はユダヤ人をはじめ、神に召されたすべての人に福音を伝えてきました。
この延長線上に私たちがいます。ペテロたち12使徒から始まって、パウロが伝え、そして、名の知れぬ多くの信仰者が伝え、時代を超え、場所を超えて、延々と福音が伝えられてきた上に私たちはいます。今日、このメッセージを読んでいる人はすべて神によって召された一人ひとりです。私たちは誰かから福音を聞きました。誰か語る人、伝える人がいたから、私たちは福音を聞き、信仰を持ったのです。親や配偶者かもしれません。友人かもしれません。会社の同僚や地域の人かもしれません。しかし、誰かが私たちに福音を伝えてくれたのです。そして、この務めは今、私たちに託されています。神に召された人で、まだ福音を受け入れていない人たちがたくさんいます。
福音(メシアの十字架と復活、そして再臨と御国の到来)を伝えるミッションは、私たち救われた者へ受け継がれています。弟子たちのミッションは、今は私たちのミッションです。このミッションを行う原動力は、滅びに向かっている人を救いたいとの、キリストのパッションです。イエス・キリストの御霊、聖霊によってキリストのパッションをいただいて、力をいただいて、福音を伝えましょう。ミッションを確認して、パッションを抱いて、アクションを起こしましょう。
ペンテコステの日以来、信じるすべての者に約束の聖霊が注がれています。
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