終末的視点で祈る主の祈り(2)「御名をあがめさせたまえ」

祈り
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1.主の祈りとは

主の祈りは「山上の教え」の中でイエス様が教えられた、御国を受け継ぐ民の祈りの課題(マタイ6:5~15、ルカ11:1~4)です。

前半は父の御心の実現を祈る祈りです。「父なる神の御名があがめられ、神の御国が地上に到来し、御心が地で行われるように」、つまり、神様が御計画されていた世界が実現し、全ての被造物が真の神を礼拝し、全地において神の正義がなされ、平和と祝福がもたらされることを求める祈りです。

後半は信仰者の必要のための祈りです。主が再臨され、救いが完成される日まで、神に従う民に「日ごとの糧が与えられ、日々罪からきよめられ、悪の誘惑から救い出される」ことを祈ります。つまり、主の日まで信仰者が守られ、最終的に悪の支配から解放され、永遠のいのちを得て神の国を相続することを求める祈りです。

 イエス様が祈りを教えられた背景には、イスラエルの民が祈っていた「カデシュ(聖別)の祈り」があります。彼らは、神の御旨によって造られたこの世界で神の偉大な御名が崇められること、神の国がイスラエル民族の日々の生活と、イスラエルの家に属するすべての人々の生涯に速やかに訪れるようにと祈っていました。

イエス様は、父なる神様は子供たちの必要をすでに知っておられるので、異教徒のように、自分の願いを聞いてもらおうと、同じ言葉をただ繰り返してはいけないと言われました。

主の祈りも、同じ文言をそっくりそのまま決まり文句的に繰り返し、唱えれば良いということではありません。イエス様が「こう祈りなさい」と言われたのは、「このような内容のことを、繰り返し、習慣的に祈りなさい」という意味です。

主の祈りは、「御国を受け継ぐ幸いな人」についての教えに続けて語られました。ですからその文脈の中で、「父なる神の御心」を知り、「御国」の到来を願って、「御国の民」の視点で祈ることが重要です。

2.天におられる私たちの父よ

優先順位第一の祈りは「天の父の御名が聖なるものとされること」つまり、「御名が崇められる」ことです。

マタイ6:9
 こう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。」

聖書の神は人格的な神です。イスラエル民族は民族の父である神を「主権者なる主」「宇宙の王なる方」「全能の神」「イスラエルの聖なる方」「万軍の主」「我らの父」と呼んで崇めてきました。

イエス様はそれまでのユダヤ教の祈りとは異なり、「アバ、父よ」と個人的に、親しみを込めて呼びかけられました。主の祈りは、人格を持つ創造主と被造物である人間との人格的交わり、霊的な親子としての祈りです。

① 祈る対象は天におられる私たちの父

天にいます
父なる神は、人間界とは隔絶された天に住まわれる、主権・尊厳・栄光に輝く、いと高き神です。

私たちの
 天地の創造主である神が、被造物にすぎない私たちを選んでくださいました。聖書の神を唯一真の神と信じる私たちは、同じ神を父と呼ぶ神の家族です。この祈りは、信仰の家族が共同体として捧げる祈りです。

父(アバ)
ヘブライ文化では、父親は神と配偶者とともに、神の似姿である新しい人の創造に関わり、教え、訓練し、必要を満たし、また懲らしめ、養育する存在とされています。

子どもはアバからヘブライ語、律法、仕事を学び、アバから聖書の物語を聞き、一緒に祈り、シナゴーグへ通います。そして安息日やユダヤの祝祭には、アバが家庭で祈りや儀式を導き、子は父を尊敬し、従順します。アバは「パパ」という意味で、イスラエル民族の父子関係にはユダヤ教を中心に他民族とは異なる特別な親密さがあります。この親子関係の体験が基礎となり、ユダヤ人は「父なる神と神の民」の信頼関係に入って行くことができるそうです。

② 父なる神に御霊によって祈る

主はいつでも、愛の絆で結ばれた御父と御子との親密な信頼関係の中で祈られました。

マルコ1:11 「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

御子に対する御父の無限の愛は、御子の血によって贖われた私たちにも注がれています。私たちはキリストの贖いによって、創造主とのあるべき関係に回復され、「神の子」とされました。私たちはすでに父なる神の無限の愛を受け、親密な交わりに招き入れられているのです。

ガラテヤ4:6
 あなたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。

ローマ8:14~17
 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

ローマ8:26~27
 ・・・私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。

全能の創造主は、肉の父親以上に私たちを愛し、励まし、教え、養い、守ってくださる信頼すべき父です。そして私たちは地上にいながら、内住の聖霊によって天におられる父に呼び掛け、御霊の助けによって父なる神に祈ることができるのです。

3.御名が聖なるものとされますように

① 御名が聖なるものとされるとは

聖書の神の名前は「ヤハウェ(わたしはある)」ですが、聖なる神の御名を口に出すことは畏れ多いので、イスラエル民族は、「御名」を神の代名詞的に使っていました。

神の御名」は神ご自身を指し、神の本性権威立場など、あらゆる面を含めた神の全存在を表し、性格と特徴の全てを意味しています。イエス様が父なる神様に祈りの中で、「わたしは・・・あなたの御名を明らかにしましたヨハネ17:6)」と言われた時、父なる神様のご性質栄光やその他あらゆる特徴を明らかにされたことを意味していました。
私たちが神の本性と属性を知っているなら、神に信頼することができます。

詩編9:10~11 御名を知る者はあなたにより頼みます。

御名を聖なるものとする」とは、「御名を崇める」「御名を聖別する(神のために選び分ける)」という意味です。神ご自身が特別な存在として全被造物から区別され(聖とされ)、神が神として崇められることを表します。

ユダヤ教の祈りには幾つもの「ベラカー(賛美)の祈り」があり、ユダヤ人は、日常生活のあらゆる場面で神の御名を崇め、聖なるものとします。

「ほむべきかな、我らの主なる神。我らの父達の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、偉大な、力強き、崇められるべき神、いと高き神にして愛と慈しみを与えたもう神、万物の支配者…」
「ほむべきかな、主なる神、全宇宙の神…」

「御名を聖なるものとして崇める」ことは、神の御心に完全に服従することも意味しています。

② 父の第一の御心は、神の御名が全世界で崇められること

万物の創造主である真の神は、全ての被造物から崇められ、全ての栄光を受けるべき方です。にもかかわらず、アダムの罪と反抗と堕落のため、全ての人類が神から離れ、神を見失い、かえって神に反旗を翻す者となってしまいました。

神の栄光を奪おうとする悪魔の策略によってたくさんの偽宗教が作られ、偽の神々が生み出されました。多くの人々は聖書の神と真理を知らないがゆえに、悪魔に惑わされ、それらの偽宗教、偽教祖、偽の神々を崇めることで、聖なる神の御名を侮り、創造主の御心を損なっているのです。

御名を崇めるようになる前に、創造主(父なる神)と被造物(人間)との関係回復が必要です。

信仰は、まず自分が罪人であることを認め、悔い改めることから始まります。キリストを通して父なる神の前に出て、真の神から離れていた罪を悔い改め、キリストの聖い血潮によってきよめられます。信仰と恵みによって義とされ、神と和解した者は、創造主と被造物とのあるべき関係に入り、救いの完成に向けて信仰の歩みを始めます。救いの喜びに溢れるなら、神の御名を崇め、神の偉大さを心からほめたたえるようになります。

ですから、御名が崇められるように祈ることは、創造主を知らなかった人が自分の造り主を知り、霊的父親のもとに帰って来ること、不信者が救われ、神の民が増え広がることに関係しているのです。

イエス様は弟子たちに、神を知らない人々が御名をあがめるようになることを祈りなさいと命じられたのです。主が願っておられるのは、全ての被造物が創造主に立ち返り、神を愛し、神の御心に従って正しく歩み、神の祝福といのちを受けるようになることなのです。

主の祈りの最優先の課題は「御名が聖とされる」こと
・創造主なる神が、全ての被造物から唯一の真の神として崇められるようになること
・罪人が聖書の神に立ち返って神の子とされ、栄光と感謝と賛美を捧げるようになることです。

③ どのようにすれば御名が聖とされる(崇められる)のか

人々は自分の信じたいものを信じ、聞きたくない真実を退けるものです。理性的に、論理的に、御言葉から真理を語っても、かえって反発されるかもしれません。

マタイ5:16 あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

大規模な自然災害が起こると、日本中からも世界中からも復興ボランティアが集まり、企業や宗教団体からも支援者が訪れ、物資を届け、医療活動を行い、復興のために様々な働きを提供します。被災地域にある教会やキリスト教の施設にも、全国各地の教会やキリスト教の団体から、多くのクリスチャン・ボランティアが奉仕に駆け付け、炊き出しや修理や献品やあらゆる必要な奉仕をします。

時間が経ち、ボランティアが減っていく中で、クリスチャンは現地の教会やキリスト教の災害支援センターを拠点とし、教団・教派の垣根を超え、祈り、捧げ、継続的に支援を続けます。多くの良い働きを行い、コンサート、スポーツなどを通して人々を励まし、また人々の心に寄り添って話に耳を傾けます。

そのような被災地で、あまりにも大勢のボランティアが入れ代わり奉仕してくれたので、被災者は誰が何をしてくれたのか、教会名や個人名を覚えられないそうで、「○○先生や○○教会や○○さんがしてくれた」ではなく、「キリストさんがしてくれた」と言って感謝するという証を聞きました。

「クリスチャン」とは「小さなキリスト」、「キリストに似た者」、「キリストに倣う者」、「キリストに属する者」という意味で使われるあだ名です。

クリスチャンが正義を行い、愛とあわれみを示し、良い行いを通して神のご性質と恵みを表していく時、未信者の人々は「イエス・キリスト」や「キリスト教」に好意を抱くようになります。「クリスチャン」の働きを通して「キリストさん」に感謝が捧げられ、キリスト教の神に関心を持つようになります。そしてクリスチャンの生き方を見て天におられる真の神を知り、キリストの父なる神が崇められるようになるのです。

エペソ2:10
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

教会はキリストのからだです。人々は教会の行いを見てキリストに心を開き、父なる神をほめたたえるようになります。ですから、祈るだけではなく、どのように行動するかも重要です。世の光として地の塩として、御名が崇められるように生きること。祈る人には行動する責任も伴うのです。

4.神の御名をめぐる霊的戦い

① 御名に敵対する罪

出エジプト記3:14~15
 神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」・・・「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。

聖書の神の呼び名は、永遠に「アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神」です。つまり「イスラエルの神」であり、イスラエル民族の子孫として生まれた「イエス・キリストの父なる神」です。

イスラエル民族は、約束されていた救い主がイエス様であることを知らなくても、天地の創造主を崇め、メシア来臨と神の国の到来を待ち望んでいます。クリスチャンはキリストを通してイスラエルの神につながり、アブラハム・イサク・ヤコブの子孫と同じ約束を受け取る民とされました。イスラエル民族とクリスチャンは、神の御名を崇め、神の栄光を現すために、神によって造られた選びの民です。

一方、悪魔は選びから外れた民族を使って、聖書の神に敵対する人々を起こしました。それはイスラム教徒やアラブ人です。イサクの腹違いの兄・イシュマエルの子孫、ヤコブの双子の兄・エサウの子孫、アブラハムの甥・ロトの子孫は、血縁関係を結んでアラブ民族となりました。彼らはイスラム教を信奉し、聖書の教えに反対してユダヤ教徒とキリスト教徒を激しく迫害しています。

その霊的背景として、彼らには、アブラハムの親族でありながら選ばれず、神に拒絶されたという不満と怒りがあり、それを利用して選びの民を憎ませるという悪魔の策略があるからだと思われます。

「イスラエルの神」に敵対することは、全地の創造主に敵対することです。イスラエルとキリスト教会を非難・攻撃することは、イスラエルの神でありクリスチャンの神である方を非難・攻撃することになります。そしてイスラエルをけなすことは、神の御名をけなすことになります。御名を汚すことは恐ろしい結果をもたらします。

レビ記24:16  主の御名を冒涜するものは必ず殺されなければならない。
出エジプト20:7  主は、御名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。

イスラム教のように明らかに反聖書的な宗教を信じていなくても、神ではないもの(堕天使や被造物)を拝む偶像礼拝者たち、無神論者たちは、世界を創造された神を神として崇めないのですから、意図的ではなくても、神の御名をけなしていることになります。

私たちの天の父は罪人が死ぬことを喜ばれず、全ての人が真理を知り、神に立ち返ることを願っておられます。ですから主は、神から離れ、神に敵対している人類が創造主に立ち返り、御名を崇める民になる(救われる)ように、先に恵みを受けた私たちクリスチャンが取り成し祈ることを願っておられるのです。

② 御名を崇める時、霊的戦いがある

主の御名を呼び求める者はみな救われます(ローマ10:13)。闇の世界から光の世界へ移され、サタンの支配から解放されて、神の支配下に取り戻されます。

悪魔は、クリスチャンが教会で神を賛美しているだけなら、ダメージを受けることはありません。もちろん、自分が「いと高き方」に成り代わって崇められたいのですから、激しく嫉妬し、憎しみに燃えているでしょう。
けれどもこの世の神である悪魔は、自分の支配下にいる者、偽の神々を崇める人々、無神論者が真の神を知り、御名を崇めるようになることに対しては、激しく怒り、何としてでも阻止しようとします。ですから御名が崇められる時、激しい霊的な戦いがあるのです。

ニネベにおける霊的戦い

神の御名をめぐる戦いの一例として、ニネベの出来事を考えてみましょう。

ニネベはニムロデ(バベルの塔の首謀者、最初の反逆者)が建てた町(創世記10:11~12)で、ティグリス川東岸にありました。現在も北イラクに「ニネベ州」として名前を残しています。

南ユダのウジヤ王、北イスラエルのヤロブアム2世の治世に、預言者ヨナは、イスラエルの敵であるアッシリヤを悔い改めさせるために、主によってニネベに遣わされました。ヨナが「ニネベは悪と暴虐のため神に滅ぼされる」と宣告すると、王も国民も主を畏れ、断食して悔い改め、悪の道から立ち返ろうと努力したので、主が思い直され、滅ぼすことを思いとどまられたという記録があります。

Ⅱ列王記18~19章に、ヨナの時代から約70年後、セナケリブ王がユダの町を攻め取り(BC701)、将軍のラブ・シャケを遣わして主を冒涜させたという出来事が書かれています。この時、ヒゼキヤ王が主に祈ると、主の使いがアッシリヤ軍185,000人を打ち殺し、セナケリブはアッシリヤの首都であったニネベに帰ります。そしてイザヤが預言した通り、自分の神の宮にいた時、自分の息子たちによって暗殺されてしまいました。

ゼパニヤ2:13には、「主は手を北にさしのべ、アッシリヤを滅ぼし、ニネベを荒れ果てた地とし、荒野のようにし、砂漠とする」という預言があります。ニネベの人々はヨナの説教によって一度は悔い改めたものの、完全な悔い改めに至らず、その後BC612年にニネベはバビロンによって滅ぼされ、BC605年にアッシリヤ帝国は滅亡しました。

聖書は、ニネベの人々の悔い改めを見てイスラエルの神が彼らの罪を赦されたこと、またセナケリブ王はイスラエルの神を冒涜した罪のために殺され、ニネベとアッシリヤはイスラエルの預言者が語った通りに滅ぼされたことを記録しています。

古代の国々の戦いは神同士の戦いと考えられていました。聖書には、イスラエルの神はアッシリヤの神より強く偉大であることが記されているのです。

聖書の記録を消そうとしたイスラム国

ニネベには2つの遺跡がありました。「多くの羊の土山」と呼ばれる城壁のある町の遺跡と、ヨナの墓がある「預言者ヨナ」という名前の村です。後者には最近まで人が住んでいました。

2014年、このニネベの遺跡とヨナの墓が、IS(イスラム国)によって破壊されました。
ISは、トルコ、シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルを含む地域(古代アッシリヤ領土)に、スンニ派大イスラム帝国の樹立を宣言し、ニネベの遺跡を破壊して、聖書に記録されている不名誉な歴史の証拠を消そうとしたのです。

ティグリス川沿いのニネベの対岸に、モスルという都市があります。モスルには、1600年間の歴史を持つ、世界最古のクリスチャン社会がありました。ISはクリスチャンの子供たちを斬首し、女性たちをレイプして殺し、クリスチャン大虐殺を行いました。4つのクリスチャンの町と6つの教会が破壊され、家や財産を奪われた人々は避難し、6万人のクリスチャンが住むクリスチャン社会が消滅したのです。

最終的に、ISによってイラクの14万人のクリスチャンが追放され、破壊された家屋は13,000軒、教会施設263軒、公共施設1400軒にのぼり、教会墓地も破壊されました。

信仰と愛と希望に満ちたイラクのクリスチャン

やがてモスルが解放され、避難していたクリスチャン8800世帯以上が帰還し、再建を始めました。彼らは、「クリスチャンが故郷に戻らなければ、イラクからキリスト教が消滅してしまう」と懸念し、イラクの人々にキリストによる希望と救いを伝えたいと、命の危険を冒して戻って来たのです。

ISに協力し、クリスチャンの家屋を破壊したイスラム教徒たちも、ISの支配下で壮絶な苦しみを体験していました。故郷に戻ったクリスチャンたちは、自分たちを攻撃し、家や財産を奪った隣人イスラム教徒たちを赦し、再会を喜び、互いに平和に暮らそうと提案して町の再建を始めました。

牧師たちは、「教会の建物は守れなかったが、私たちの信仰は破壊されなかった。3年間の苦しい避難生活を乗り越えた信仰が、周囲の人々を赦す力となっている。赦しこそ最大の力、平和を築き、人々の心を変える鍵である」と語り、神に感謝を捧げたそうです。

同じような証しは、米軍が撤退した後のアフガニスタンでも伝えられています。奇跡的に脱出することのできたクリスチャンたちが多くいる一方で、アフガニスタンのノンクリスチャンに伝道するために、死を覚悟であえて残った牧師たちもいます。

このようなクリスチャンを通して、多くのイスラム教徒たちが福音を聞き、悔い改めに導かれることでしょう。聖書の神とイスラムの神、どちらが真の神であるのか、神の御名をめぐる戦いは続いています。クリスチャンの愛と正しい行いを見る時、世の人々はキリストが真の神であると知り、天の父を崇めるようになるのです。

③ 御名が崇められるための具体的祈り

・教会が行いを通してキリストの愛を示すことにより、御名を崇める人々が起こされるように。
・迫害下のクリスチャンの信仰が守られ、彼らの信仰と愛を見て、真の神を知る人々が起こされるように。
・主に敵対する民、アラブ人やイスラム教徒が悔い改めて救われ、御名を崇める民となるように。
・神の御名がつけられたイスラエル民族が、神の教えを実践して神の栄光を現し、それを通してイスラエルの神の御名が崇められるように。

キリスト教の神はユダヤ教の神でもあります。イスラエル民族(ユダヤ人)やイスラエル国家が他民族、諸国民からけなされることは、「クリスチャンの神」がけなされることにつながります。神の栄光を現す民として神ご自身が造られたイスラエル民族が、聖なる民として神の御心を実践し、国際社会で模範となり、イスラエルの神の栄光を現すなら、神の御名が聖とされることにつながります。

悪魔は聖書の神を否定するために、ユダヤ人とイスラエルを悪者に仕立て、諸国民に憎ませ、結果的に諸国民が聖書の神を信じて救われることのないように画策しています。クリスチャンが反イスラエル・反ユダヤとなるなら、イスラエルを軸にした神の人類救済計画に反対することになり、悪魔を喜ばせてしまいます。

ですから、イスラエル国家についての偽りの報道が取り除かれて真実が伝えられるように、イスラエルに対する正しい理解がなされ、世界が聖書の神を正しく知ることができるように祈ることも必要です。私たちには、祈りと行いを通して真の神を伝える使命が与えられているのです。

ガラテヤ6:9、10
 善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。

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