このシリーズでは、「天の御国を相続する信仰者の祈り」として主の祈りを学んでいます。今回の祈りの課題は、「人の罪を赦し、自分自身も父から赦しを受け取る」ことです。
1.御国の到来と、御国の民の完成を祈る「主の祈り」
初めに、主の祈りの本質と、前回学んだ「日ごとの糧を求める」ことについて簡単にまとめます。
①「主の祈り」とは
・神を天の父と呼ぶ信仰の家族の祈り。キリストによって贖われ、選び出された信仰共同体の祈り。
・天の御国が地上に到来し、神の御心と神のご計画が完全に実現することを祈る。
・御国の民が神の子として完成し、御国を相続するための祈り。
②「日ごとの糧」を求める目的
「みことば=霊的ないのちの糧」で養われ、永遠の御国に備えること
イエス様は、人間にとって霊的な食物を求めることが重要であり、神の国と神の義を第一に求めるなら、衣食の必要は添えて与えられると言われました。
・イエス様は「神のことば」であり、全てのものはこの方によって造られた(ヨハネ1:1~3)。
・人は、「神の口から出る一つ一つのことば」で生きる霊的存在(マタイ4:4)。
・いのちを与えるのは御霊。「主のことば」は霊であり、いのちである(ヨハネ1:4、6:63)。
・永遠の存在である主は、永遠のいのちに至る食物のために働くように命じられた(ヨハネ6:27)。
・イエス様は、天から下って来て世にいのちを与える「いのちのパン」。主のもとに来るものは決して飢えることがなく、主を信じる者は決して渇くことがない(6:33~35)。主の肉(パン、みことば)を食べ、主の血を飲む(血によって贖われ、聖められる)者は、永遠に生きることができる(6:51~58)。
・聖書は知恵を与えて、信仰による救いを受けさせることができ、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益(Ⅱテモテ3:15~17)。
・主のみことばを聞いてそれを行う人は賢い人、行わない人は愚かな人(マタイ7:24~27)。
・みことばが聖徒たちを育成し、御国を継がせることができる(使徒20:32)。
神の民は、みことばと御霊の助けによって神の国(神の国の王、義と聖、神の国での生き方)について学び、みことばを実践することで永遠の御国に相応しい者へと作り変えられていきます。
2.人の罪を赦さなければ、自分の罪も許されない
それでは、天の御国を相続するためになぜ人を赦すことが重要なのかを学びましょう。
人を赦すことと、自分が神から赦されることは関連しています。
マタイ6:12~15
「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。」
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦して下さいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。ルカ11:4
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。
① 罪/負い目とは
マタイの福音書では、人の「負い目」と「過ち」を赦す者は、天の父から自分の「負い目」と「過ち」が赦され、人を赦さない者は、自分も天の父から赦されないことが示されています。ルカの福音書では、人の「負い目」を赦すなら自分の「罪」が赦されることが示されています。
原語では「罪」にはいくつかの種類があります。
罪・・・的(目標)を外すこと、神が人に定められた道を踏み外すこと、神の律法との不一致
背き・・・神への反逆
過ち・・・誤って犯した罪、人の弱さから来る誤った行為
負い目・・・経済的な負債、借金、金銭上のトラブル / 神に対する負い目、道徳的罪
咎・・・曲げること、悪の行為
・罪の始まり
罪は、被造物でありながら人間の分を超えて創造主のようになりたいと思うことから始まった。「神のように善悪を知る者になりたい」という願望の根底には、神に対する罪がある。
・神に対する罪
不従順、不信、反抗、反逆、神からの自立願望、神を無視して自我に生きることなど。
・罪を赦す方法
旧約時代は罪の無い動物の血によって罪が覆われたが、故意の罪は動物犠牲でも赦されなかった。
キリストの罪の無い血は、悔い改めた全ての罪、背き、過ち、負い目、咎を赦すことができる。
・最も大きな罪
神の用意された救いの方法と救い主とを受け入れないこと。
私たちは神に対する「罪」と「背き」を悔い改めて、キリストの血によって赦され、神のものとされました。しかしクリスチャンでも、みことばと御霊の導きに従って歩まないなら、罪の支配下に売られている「肉」には罪と死の原理(法則)が働き、種々の罪を犯すことがあります。そのような時でも、キリストのもとに来て真に悔い改めるなら、神の無限の愛と恵みにより赦していただくことができます。
② 主の御心は互いに赦し合うこと
神に対する「罪」「背き」「咎」を赦すことができるのはイエス様だけです。私たちには、人間関係における「過ち」と「負い目」を赦すことが求められています。
コロサイ3:13
互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
エペソ4:32
互いに親切にし、優しい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです。
私たちは神のあわれみとキリストの恩寵により、無条件に一切の罪が赦されました。ですから神の赦しを受けた者として、自分に罪を犯した人が悔い改める時、その人の罪を赦さなければなりません。
ルカ17:3~4
あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」
主はペテロに「7回を70倍するまで」赦すように言われました(マタイ18:21~22)。相手が悔い改める(自分の非を認めて謝罪する)なら、無限に赦すようにと言われたのです。
③ 王と家来たちとの負債の清算
イエス様は、人のすべての罪を赦してくださったあわれみ深い天の父に倣い、私たちも自分に負い目のある兄弟にあわれみ深く接するべきであると、たとえ話で教えられました。
マタイ18:23~35
ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。
信仰者一人一人に対する神の裁きが、王と家来たちとの清算にたとえられています。仲間の小さな負債に対してあわれみのない態度を取る者は、自分の大きな負債を返すまで、獄吏たちに引き渡されてしまいます。その意味することは、主の許可の中で試練を通り、苦しみながら、悔い改めることことになるということではないでしょうか。天の御国を相続する前に、私たち一人一人が自分の考え方、態度、行動を悔い改め、御心に適う神の子として造り変えられることになるのです。
私たちはやがて、「キリストの裁きの座」の前で自分の行い・生き方について主と清算することになります。
ヤコブ2:13
あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。
④ 「私たちの負債を清算する日」が来る
イエス様が再臨されるなら、それぞれが行いに応じて主から報いを受け取ることになります。
マタイ16:27
人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。黙示録22:12~15
「見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る。・・・」自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。
報いには2種類あることがわかります。門を通って都(新しいエルサレム)に入り、いのちの木の実を食べることのできる人がおり、一方、都の外にとどめられる人がいます。
自分に罪を犯した人が悔い改めるなら赦し、人の負債に対してあわれみ深く対応する人は幸いです。主に責められない人(一切の負債を免除された人)は、完成された神の子として天の御国を相続し(新しいエルサレムに入り)、永遠に神と共に住むことができます。
「人を殺す者」は都に入れず、外にとどめられます。肉体的に殺さなくても、人を赦さず、憎み、罵ることも「殺す」ことです。
Ⅰヨハネ3:15、4:20
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。・・・神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。マタイ5:21~22
昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
自分の兄弟(同じ神を信じる信仰の家族)を憎んでいる人は、まだ闇の中にいて、自分がどこへ行くのか知りません(Ⅰヨハネ2:9、11)。兄弟の過ちを赦さないなら、自分自身の永遠の過ごし方に重大な損失をもたらすことになります。主は私たちの心の中をご存じです。そして主の裁きは正しく、一人一人に相応しい報いが与えられるのです。
3.罪赦されるための悔い改めの祈りとは
主から永遠の報いを受ける(永遠の御国を相続する)ためには、人の罪を赦すだけでなく、私たち自身の心と思いが変えられる必要があります。
① 神は謙遜な人の祈りを聞かれる
イエス様は、自分を義と自認し、他の人々を見下している人々に、たとえ話を通して警告されました(ルカ18:10~14)。
パリサイ人と取税人が祈るために宮に行きます。パリサイ人は、「自分は十分の一を捧げ、断食し、他の人たち、特に取税人のような罪人ではないことを感謝します」と言って祈ります。取税人は目を天に向けようともせず、自分の胸をたたき、「罪人の私をあわれんでください」と祈りました。自分を高くしたパリサイ人の祈りは神に受け入れられず、自分を低くした取税人は、祈りが聞かれて義と認められました。
パリサイ人も取税人も聖書と真の神を信じる「主の選民」です。その中に、自己義を主張する高慢な人と、自分の罪深さを認めて遜る人がいます。クリスチャンも高慢にならないように気をつける必要があります。
ヤコブ4:6、10
神は、高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。・・主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます。
Ⅰペテロ5:5
・・・みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。
大祭司キリストの血の力と執り成しの祈りを信じるクリスチャンが、自分の罪を告白し、悔い改めるなら、神はその祈りを聞き、罪を赦して下さいます。自分は罪を犯したことがないと言うなら、神を偽り者とすることになります(Ⅰヨハネ1:10)。
自分に過ちや罪がないかを吟味しましょう。そして、キリストを信じる者に与えられる神のあわれみと赦しを受け取り、遜って神の恵みにとどまり続けましょう。
② 人をさばかず、罪に定めない
マタイ12:36には、「人は、口にするあらゆる無益な言葉について、さばきの日に申し開きをしなければならない」と書かれています。人を赦さず、罵倒し、侮辱し、傲慢に語るなら、その日、主から咎められることになります。
マタイ7:1~2
さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。ルカ6:36~37
あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも赦されます。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。
人にあわれみ深く接し、裁かず、不義に定めず、赦すこと。それが天の父からあわれみを受け、赦されるための条件です。
③ 兄弟を愛する人の祈りは答えられる
マルコ11: 25
また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。
祈る前に、人を恨んでいることを悔い改める必要があります。人を赦すなら自分も赦され、神はその人の祈りを聞いて下さいます。
Ⅰヨハネ3:18~22
子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。・・・愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。
祈りが答えられることは、兄弟を愛することに関係しています。
神の命令(互いに愛し合うこと3:23)を守り、兄弟を行いと真実をもって愛するなら、神の御前に心安らかに確信を持って祈ることができ、求めるものは何でも神からいただくことができます。
兄弟を赦し、自分の心にやましさや罪責感がなければ、神に赦された者として、平安と喜びと確信をもって、大胆に神の恵みと祝福を祈り求めることができるのです。
4. 終末時代のイスラエルの悔い改め
イエス様が王として治める新しい時代が始まる前に、イスラエルによる究極の悔い改めが起こります。イスラエルが最終的に赦されるべき罪とは何でしょうか。そして、イスラエルが最終的に赦すべき相手と赦すべき罪とは何でしょうか。
① イスラエルの悔い改めと主の再臨の関係
ホセア5:15
わたしは自分のところに戻っていよう。彼らが罰を受け(自分の罪を認め)、わたしの顔を慕い求めるまで。彼らは苦しみながら、わたしを探し求める。
イスラエル民族の最大の罪は、約束されていた救い主であるイエス様を拒否したことです。そのために彼らは約束の地から出され、世界に散らされて、苦難を受け続けてきました。
大艱難時代には「不法の者(獣)」が自分を神として神殿に立ち、イスラエル民族を滅亡させて主の再臨を阻止しようとします。その時イエス様が天から来られ、全ての敵を滅ぼしてイスラエル民族を救い出し、ご自分こそ約束されたメシアであると証明されます。
黙示録1:7
見よ、その方は雲とともに来られる。すべての目が彼を見る。彼を突き刺した者たちさえも。地のすべての部族は彼のゆえに胸をたたいて悲しむ。ゼカリヤ12:9~10
その日、わたしはエルサレムに攻めて来るすべての国々を根絶やしにしよう。わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。
主がイスラエルの全ての敵から民を救い出された時、彼らの究極の悔い改めが起こります。イスラエル民族は、先祖たちが十字架につけて殺したイエスこそ「ダビデの子・メシア」であったと悟って、号泣するのです。
主は、十字架で死なれる前、ご自分に敵対する当時の宗教指導者たちに言われました。
マタイ23:39
わたしはおまえたちに言う。今から後、『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』とおまえたちが言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。
再臨された主を見て初めて、イスラエルの宗教指導者たちはイエス様がメシアであると悟ります。当時の宗教家の子孫にあたる正統派のラビたちも、先祖たちの罪を認め、自分たちの不信仰を悔い改めて、イエス様こそ待ち望んでいたイスラエルの救い主であったと告白します。
そして主が全地の王として神殿に入場される時、イスラエル民族は『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』と言ってイエス様をお迎えするのです。
② 人類救済計画におけるイスラエルの悔い改め
イスラエル民族の悔い改めるべき罪とは何でしょうか。
・イエス様がなさった数々のしるしと不思議が「イエス=メシア」であると示していることを知りつつ、聖書に約束されていたメシアを拒否し、十字架にかけて殺したこと。これが「赦されない罪」です。
・預言者たちを通して語られた神のご計画と民族の召命に従わなかったこと。神の民としての正しい道(生き方)を知りながら、従わなかったこと。そして罪を赦す神の方法を退けたこと。
・福音宣教に耳を傾けず、使徒たちや初代教会を迫害し、その後もキリスト教会と主を信じる同胞たちの宣教を妨害し、迫害し、新約聖書を拒否し続けたこと。
大艱難時代を通って、ようやくイスラエルが最終的・民族的に悔い改めることになります。
ゼカリヤ13: 8~9
全地はこうなる──主のことば──。その三分の二は断たれ、死に絶え、三分の一がそこに残る。わたしはその三分の一を火の中に入れ、銀を錬るように彼らを錬り、金を試すように彼らを試す。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『主は私の神』と言う。」
神は人類救済計画のフィナーレとして、イスラエル民族を最後に救ってくださいます。全ての民族に救いのチャンスを与えるため、神は「後の者(異邦人)を先に、先の者(イスラエル民族)を後に」されるのです。
ローマ11:25~27
兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。
主は真実な方でアブラハム・イサク・ヤコブとの契約を守り、ご自分の選びの民の救いを完成させてくださいます。そしてご自分が王となって治める「天の御国」を地上に実現し、悔い改めて義とされた人々に永遠の御国を相続させてくださいます。
その時、イスラエルの神こそ唯一真の全能の神であることが全世界に知れ渡るのです。
③ イスラエルが赦すべき人々と赦すべき罪
イスラエルほど歴史を通して世界から憎まれ、嫌われ、迫害された民族はいません。エジプトの奴隷時代に始まり、アッシリア帝国、バビロン帝国による支配、セレウコス朝シリアの時代の聖書信仰に対する迫害と大虐殺、ローマ帝国による圧政と大虐殺、AD70年に世界離散してからは、ユダヤ人であるというだけで、行く先々で迫害されました。
イスラム教徒をはじめ、諸国民がイスラエルに対して罪を犯しましたが、最も深刻な罪を犯したのはキリスト教会です。
中世カトリック教会はユダヤ人に「キリスト殺し」の汚名を着せ、キリスト教への強制改宗、異端審問、魔女狩りによって激しく迫害しました。十字軍の目的はイスラム教徒から聖都を奪還することでしたが、イエスの御名と十字架の旗印のもとに、行く先々でユダヤ人から財産を奪い、彼らを焼き殺したのです。
プロテスタント教国の中にも、「ユダヤ人は悪魔の子、人間ではない、家畜以下である」と彼らを排除し、下等市民として扱った国々がありました。キリスト教国が引き起こしたホロコーストは、ユダヤ人問題の最終的解決(ユダヤ人全滅)を目論んだものでした。
このような歴史を体験してきたユダヤ人たちは、イエス・キリスト、新約聖書、キリスト教に対する大きな傷と拒否感を持っています。
「新約聖書はユダヤ人抹殺計画書である」「イエスはサタンの使いである」「キリストを信じる者は裏切り者である」・・・そのような恐怖感からユダヤ人は福音に耳を閉ざしたのです。
イスラエルのつまずき・かたくなさ、不信仰の最大の原因は、実にキリスト教会にあるのです。
イスラエルは最終的に、自分たちに対して罪を犯した者たち、自分たちを苦しめ、迫害した者たちを赦す祈りをします。主はその祈りを聞いてイスラエル自身の罪を赦し、聖めて下さるのです。
ゼカリヤ13:1~2
その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。その日──万軍の主のことば──わたしはもろもろの偶像の名を、この地から絶ち滅ぼす。それらの名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く。
キリスト教会は、イスラエルを迫害し、福音から遠ざけた過去のクリスチャンたちの罪を謝罪しなければなりません。また私たち自身のイスラエルに対する無関心と、イスラエルは捨てられて異邦人教会がイスラエルに取って代わったとする間違った神学と、高ぶりとを悔い改めなければなりません。そして私たちクリスチャンには、イスラエル民族がイエス様を救い主と信じ、不信仰を悔い改めて救われるように祈る責務があるのです。
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