終末的視点で祈る「主の祈り」(6)試みと悪からの最終的救いを祈る

祈り
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前回は、人の罪を赦し、自分も神から赦しを受け取ることについて学びました。主の再臨時には、一人一人が行いに応じて主から報いを受け取ること、人の罪を裁かず、赦し、人の負い目に対してあわれみを示した者を、主もあわれみ、赦してくださることを学びました。

さらに、大艱難時代を通ってイスラエルが不信仰と背信を悔い改め、イエス様をメシアとしてお迎えするようになること、イスラエル民族がイエス様を信じない原因はキリスト教会にもあること、私たちも悔い改めてイスラエルの救いのために祈る必要があることを学びました。最終的には、イスラエルとクリスチャン双方が悔い改め、赦し合い、同じ信仰を持つ神の民として完成し、新しい時代を迎えるのです。

今回は「試みから守られ、悪から救い出されること」について学びます。

マタイ6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
ルカ11:4 私たちを試みに会わせないでください。

最初に「試み」と「悪」の意味について確認します。その後、「試み」に会いながらも使徒として立ち上がったペテロと、「悪」に屈して自滅してしまったイスカリオテのユダを取り上げ、終末時代に生きる私たちの教訓としたいと思います。

1.「試験」と「誘惑」という試み

試み:ペイラスモス」という言葉には、「試験」と「誘惑」という異なる意味があります。
試験神による試みで、良い目的のために用いられます。誘惑は、信仰者を神から引き離そうとする悪い者による試みです。
主の祈りの「試みに会わせないでください」は「誘惑に会わせないでください」であると考えられます。まず、二つの試みの違いについて詳しく知り、どのように祈ったらよいか考えてみましょう。

① 「試験」:試練をとおして信仰をテストする

 神様は私たちの信仰を試み(試験、テストし)、清め、訓練する道具として試練を用いられます。それは、罪から離れさせ、主の御心を教え、永遠の御国に相応しい神の子として成長させるためです。

キリスト信仰は、アブラハムへの試みから始まりました。

へブル11:17
 アブラハムは試みを受けたときにイサクを捧げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。

アブラハムは神の約束と全能の力(死者を復活させ、約束の地を相続させてくださること)を信じ、命令に従って跡取りを捧げました。その結果、彼は信仰の父として全世界の祝福の基となり、彼の子孫から全人類を救うメシアが生まれました。

申命記8:2
 主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。

誰でも病気や仕事上の問題、人間関係でのトラブル、経済的困難などに直面し、長い試練の期間を通らされることがあります。自分の過ちや罪のために困難に陥ることがあるかもしれませんし、時には時代的要因のために、あるいは人の過失や罪や悪意によって、突然、問題に巻き込まれたりするかもしれません。

ヤコブ1:2、12
 私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。・・・試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。

試練はなるべく避けたいですが、訓練のために必要な場合もあります。

へブル12:11
 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

主は、試練の中でもご自分に信頼し、期待する人々に、将来と希望を与え、助けの手を差し伸べて、主のご計画された最善の解決へと導いて下さいます。

Ⅰコリント10:13
 あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

初代教会の信徒たちは、イエスを信じる信仰のゆえに激しく迫害されていました。ペテロは、信仰の試みに合格した人々には、キリストから栄誉が与えられると語りました。

Ⅰペテロ1:6~7
 ・・・今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価でありイエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉をもたらします

Ⅰペテロ4:12~13
 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。

試練の時には、主が約束してくださった永遠のいのち永遠の御国の希望を告白しましょう。主は、試練を通らせることで私たちの品性を整え、信仰を完成させて下さいます。

ローマ5:2~5
 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

試練を通して、信仰者は全知全能の神の愛と力を体験し、希望に満ちて主の御心の中を歩むことができます。試練を通って練られた品性は、恵みとなってあふれ出し、人々を潤し、癒やし、救う力となります。

Ⅱコリント8:2
 彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。

イエス様はやがて戻って来られ、私たちを永遠の神の国に招き入れ、喜びと祝福で満たしてくださいます。
試練の中にある時には、この試み(試験、テスト)に合格し、神に喜ばれる信仰者として成長できるように祈りましょう。試練の中で信仰を失ったり、間違った対処をして悪い状態に陥ったりしないように、主が守り、救い出してくださるように祈りましょう。主の十字架の御業を感謝し、主の助けを信じて、主の平安の中に留まり続けましょう。

② 「誘惑」:神から引き離し、罪に引き込もうとする悪い者の策略

 誘惑悪い者(悪魔)から来ます。そして私たちの「」に働きかけ、罪を犯させ、堕落させ、神に対する信仰を失わせようとします

ヤコブ1:13~16
 だれでも誘惑されている時、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に惹かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。

アダムとエバは偽りのことばを信じ神のことばを退け、神の命令に背いて罪を犯しました。知識の木の実が目に麗しく、おいしそうで、賢くすると聞き、どうしても食べたいという肉の欲に駆られたのです。

御言葉と御霊の導きから離れ、肉の欲求に従うなら、自ら誘惑されて罪を犯すようになります。

<金銭欲、貪欲>

Ⅰテモテ6:9~10
 金持ちになりたがる人たちは、誘惑と、また人を滅びと破壊に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を負い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。

マタイ6:24
 だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたはとに仕えることはできません。

<プライドと自己愛>

プライドが高いと、世からの評価(地位・名誉・名声)を求め、世と妥協します。

Ⅰヨハネ2:16
 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲目の欲暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。

この世と調子を合わせず(世の哲学、価値観、信念に飲み込まれたり、世と妥協してこの世の型にはめられたりせず)、神の国と神の義を第一に求めることが大事です。

 ヨハネ12:25
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

世の要求に合わせて信仰を偽り、迫害を避けるためにイエス様を否定して「いのちの君」から離れるなら、永遠のいのちを失うことになります。

<不信仰と低い自己像>

神の完全な善や愛を信じられず、「主に見捨てられた」と拒絶感を抱いたり、イエス様の血の力を過小評価し、「自分は主に赦されていない、受け入れられていない」と、否定的な思いに捕らわれたりすることがあるかもしれません。

また、問題が思うように解決しない時、神に委ね、忍耐して神の解決を待つ代わりに、自力救済しようとして肉で動き回り、イエス様以外のものに解決を求めようとすることがあるかもしれません。

 私たちは誘惑に陥らないように心を守り、罪を犯さないように目を覚まして祈る必要があります(タイ26:41、マルコ14:38、ルカ22:40、46)。

2.「悪魔」と「悪事」から救い出される

」は「悪い者、悪魔」と「悪事、悪行」の両方を指していると考えられます。

① 悪魔

 誘惑は私たちの敵である悪魔から来ます。
悪魔は「試みる者(誘惑者)」と呼ばれています(マタイ4:3Ⅰテサロニケ3:5)。

アダムとエバを誘惑した蛇の背後には悪魔がいました。悪魔は神を中傷し、神のことばを捻じ曲げ、エバの欲望を刺激して巧みに誘導しました。アダムとエバは欲に惹かれ、神の主権と支配から抜け出し、悪魔の誘惑と偽りのことばに自分を委ねてしまいました。

私たちの敵は世を支配している霊的存在です。

Ⅰペテロ5:8~9
身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。

エペソ6:12
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。

霊的勝利の前提として、まず私たちがに従順することが必要です。

Ⅱコリント10:3~6
 私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。また、あなたがたの従順が完全になったとき、あらゆる不従順を罰する用意ができています。

私たちが神の子として完成する時には、御使いをも裁く者となります。今の時代、誘惑者・偽り者である悪魔・悪霊に対抗するために、神の武具が備えられています。

 エペソ6:10~18 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。そして、堅く立ちなさい。
腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。

イエス様が荒野で悪魔を退けられたように、神のみことばによって悪魔の偽りと誘惑を退けます。そのためには、いつも御霊によって祈ることが大切です。

② 悪事、悪行

 肉のわざは、「淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興ガラテヤ5:19~21)」などです。

新しいエルサレムの外に出されてしまう人々は、「臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者、汚れた者、忌まわしいことや偽りを行う者(黙示録21:8、27、22:15)」です。

ユダヤ教では日常的に、悪い者と悪い行いからの守り――悪しき人間(高慢な人々、悪しき仲間、悪しき隣人)との接触や、悪い行い(罪、咎、過ち、悪の衝動など)――から守られるように祈るそうです。

悪魔の策略に乗って悪行に誘導されることがないように祈る必要があります。

③ 怒りに正しく対処する

エペソ4:26~27
怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。

カインは、弟の捧げものが神に受け入れられ、自分の捧げ物が受け入れられなかったために激しく怒りました。神はカインに「戸口で罪が待ち伏せているから、それを治めなければならない」と言われました。彼はその忠告を無視し、怒りの矛先を弟に向け、殺してしまったのです。

人を赦さず、怒りを持ち続けるなら、悪魔に機会を与えることになります。私たちは、自分の感情に正しく対処すべきです。

Ⅰペテロ5:10
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

主を信頼し、悪魔の誘惑と罪から守られ、霊的ないのちを保ち続けることができるように、また全ての試験に合格して最終的な滅びから救い出され、勝利を得ることができるように祈りましょう

3.ペテロとユダの会った試みとその結末 

では、試みに勝利したペテロと、敗北したイスカリオテのユダについて詳しく見ましょう。

最後の晩餐の夜、12弟子全員がサタンによって麦のように震われルカ22:31)、試みに会いました。ユダは銀貨30枚で主を売り、新しい契約が結ばれる前に、主に見切りをつけて出て行きました。ゲッセマネの園で主が捕らえられた時、11人の弟子たちのうち9人は主を見捨てて逃げ去りました。そして大祭司の邸宅までついて行った2人のうち、ペテロは主と自分との関係を3度も否定したのです。

ペテロとユダの受けた試みの結末は、いのちという正反対のものとなりました。ペテロは信仰の試験に会いながらも勝利することができ、ユダは誘惑されて悪に打ち負かされてしまったのです。

この二人の行動と結末から、「試みに会わせないで、悪からお救い下さい」と祈る重要性について考えてみましょう(ヨハネ13:21~30、マタイ26:20~25)。

① 試験に合格したペテロ

最後の晩餐の後、イエス様は11人の弟子たちに、「今夜、皆わたしにつまずく。わたしはよみがえった後、先にガリラヤへ行く」と言われます。一番弟子を自認していたペテロは、「自分だけは決してつまずかない。主を知らないとは決して言わない」と豪語しました。

イエス様は、自信満々のペテロがご自分を裏切り、否認することをご存じでした。

ルカ22:32
「しかし、わたしはあなたのために 信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

弟子たちは、園で主が祈られている間、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われます。けれども彼らは睡魔に襲われ、祈りませんでした。
その結果、イエス様が捕らえられた時、弟子たちは逃げ出し、ペテロは主が予告された通りに、自分の身を守るため、3度も主を知らないと否認しました。彼は自信過剰で高ぶっていたため、悪魔につまずかされたのです。

ペテロの否認

けれども彼は主に祈られていたので、信仰を失うことなく他の弟子たちと一緒に留まりました。
贖いを成し遂げて復活された主は、ガリラヤ湖で漁に出たペテロに、「あなたはわたしを愛しますか? わたしの羊を飼いなさい」と3度語り掛け、ペテロを赦し、回復させ、人を捕る漁師として立ち上がらせてくださったのです。

主は福音宣教の働きのためにペテロを選んでおられました。ペテロはイエス様の愛と祈りに支えられて立ち直り、新しい使命をいただき、弟子たちのリーダーとなって聖霊の力に満たされて伝道しました。彼は信仰の「試験」に合格したのです。そして死に至るまで忠実に、主の復活と神の国の福音を宣べ伝えました。彼は「いのちと祝福」を受けることができました。

② 誘惑に敗北したユダ

イスカリオテのユダは日ごろ、預かっていた財布から金を盗んでいました。そして、イエス様の弟子であることを自分の利得――メシア王国で高い地位に就き、権力と富を得ること――の手段と考えていました。

主がご自分の来られた目的は「全ての人の罪のために死ぬこと」であると明言されたため、ユダはイエス様に見切りをつけたのでしょう。彼は過ぎ越しの祭りの始まる前すでに悪魔の誘惑に乗り、祭司長たちと銀貨30枚でイエス様を売り渡す取引をしていました

ユダは食事の席で、イエス様を売ろうとしていることを主に言い当てられ、人の子を裏切るなら自分の身に災いを招くことを指摘されます。「人の子を裏切るような者は生まれて来なかった方がよい」とは、主を捨てる罪がどれほど恐ろしい結果を招くかの警告です。主は厳しい言葉で、ユダに裏切りを思いとどまらせ、滅びから救うために最後のチャンスを与えたのです。

しかし彼はサタンの思いを受け取り、計画通りに主を引き渡すことを決意して部屋を出て行き、11人の弟子たちとも袂を分かちました。ユダは悪魔のいくつもの「誘惑」に屈し、主を拒絶したのです。

③ 主はユダを愛し、救おうとされた

 弟子たちは、誰がイエス様の左右に座るか競い合っていました。最後の晩餐の食卓で、ユダはイエス様の隣の主賓席に座っていました。主はご自身がしもべのようになって弟子たちの足を洗われました。主賓であるユダの足を最初に洗われたのです。

最後の晩餐

ユダはイエス様の弟子として3年半の間、寝食を共にし、主が人類を罪から救うために来られたことを教えられていました。にもかかわらず、「罪からの救い主」「いのちの君」を売り渡し、主と縁を切って完全に関係を断つなら、もはや救いの可能性はありません。救い主を拒否するなら、神に呪われ、滅びてしまうのです。

 晩餐会の主催者は、危険が迫った時には、自分の身を挺して主賓を守ります。主人であるイエス様が12弟子の中で最優先で救いたい人物、真っ先に罪を清め、命がけで守りたい相手はユダでした。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのですルカ19:10)。主はユダを最も大切な客として迎え、最後まで愛されたヨハネ13:1)のでした

④ ユダの裏切りの理由と結末

・ユダは金銭欲が強く、盗みという罪を犯し続けながら、自分に救い主が必要であることを認めていませんでした。欲のために良心が麻痺していたのでしょう。

・彼は自分にとって都合良いメシア、自分の野心・願望(地位・権力・富)を満たすメシアを求めていました。ユダにとって、十字架で死なれるイエス様は利用価値がありませんでした。ですからこれ以上、主に従う意味はないと見限り、金を受け取って離れようと考えたのでしょう。

・彼は主の教えを聞いていても、神の御心・ご計画を理解せず、受け入れませんでした茨の中に蒔かれた種のように、みことばを聞いても、富の誘惑や自分の思いがみことばをふさぎ、実を結ばなかったマタイ13:22)のです。

・彼は、自分が裏切ることを主が知り、警告しておられることを承知で、心を頑なにし、パンを受け取りましたその瞬間、サタンがユダに入り、彼は引き返せない一歩を踏み出してしまいました。サタンは晩餐の最中、ずっとそこにいて、ユダの心に働きかけ、超えてはいけない一線を越えさせたのです。

・ユダは新しい契約に与らないうちに主を見捨てて出て行きました。そして口づけで主を敵に売り渡したのです。

・彼は後になってから「罪の無い人の血を売った」と後悔し、金を返しましたが、主の復活を待たずに、自ら「木にかけられて呪われた者」として命を絶ってしまいました。彼は罪を犯した自分を始末し、赦されるために、贖いを成し遂げた主のもとに来ることはありませんでした

彼は救い主と罪の赦しを拒否し、報いとして「死と呪い」を受け取ったのです

4.試みに勝利する新しい契約の力

イエス様は最後の晩餐の席で、弟子たちとパンとぶどう酒による新しい契約を結ばれました。それは婚約のしきたりに基づいていました。

婚約式では、女性が男性の口をつけた杯からぶどう酒を飲むと、プロポーズを受けたことになり、それによって婚約が成立します。弟子たちは主の杯から分け合って飲みました。そのことから、新しい契約は婚約であり、イエス様が花婿、弟子たちは花嫁であるという理解につながります。

婚約が成立すると、花婿は花嫁の父に花嫁料を払い住居を備えることを約束して去って行きます。

花嫁料は女性が結婚の準備をするために必要な資金で、花婿側から花嫁の父に支払われます。主が支払われた花嫁料はご自身の血でした。キリストの花嫁の準備は、罪から清められてしみも傷もない者となることです。そのために、主ご自身が花嫁料として贖いの代価を父なる神に捧げられたのです

婚約が成立したその夜、主は逮捕され、11人の弟子たちは試みに会い、主を見捨てて逃げ去りました。主は、ご自分を裏切った花嫁のために血を流されました
ぶどう酒による婚約が成立し、十字架で血が流され、花嫁料が支払われました

主と婚約した者は、たとえ試みにあって罪を犯しても、取り返しがつかないということはありません。主の汚れのない聖い血には罪を赦す力があり主のもとに来て悔い改めるなら、きよめていただくことができます

弟子たちは、復活された主から赦しを受け取り、新しいいのちと新しい使命に生きる者となりました。花嫁の裏切りによっても婚約関係は破棄されませんでした

まとめ

・新しい契約を結んだ一番弟子のペテロでさえ、試みにあいました。クリスチャンは、悪魔の餌食とならないように、「試み(誘惑)に会わせず、悪より救ってください」と祈ることが必要です。

・イエス様は、私たちが試みに会っても信仰を失わず、立ち直ることができるように祈っていて下さいます。

・たとえ誘惑にあって罪を犯しても、主のもとに来て悔い改めるなら、主の血潮が全ての罪からきよめてくださいます。

・イエス様がご自身の尊い血で買い取った花嫁を見放すことは決してありません。

へブル4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同乗できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、全ての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

へブル2:18 イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。

主は永遠の住まいを備えるために天に帰られましたが、やがて戻って来られます。その時、キリストの花嫁は主が建設された新しい都に迎えられ、主とともに永遠に住むことができるのです。

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