今のこの時代を見分ける

礼拝メッセージ
ガリラヤ湖のにわか雨
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イエス様はこれまでに、盲人や耳の聞こえない者を癒し、ツァラート(重い皮膚病)の人をきよめ、死人を生き返らせるなど、メシア(油注がれた者⇒救い主)にしかできない様々な奇跡を行いました。しかし、それらを見てもイエス様をメシアとして受け入れない宗教指導者たちに向かって、イエス様は言われました。12:56「・・・あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか」と。彼らはメシアを民に紹介する立場にありながら、今、まさに聖書に約束されたメシアが来ていること、今がメシアの時(時代)だということを見分けられませんでした。メシアは、次に来るときには、火によって世界を裁くことが定められています。今日はこの「今のこの時代を見分ける」ということの意味について分かち合います。

聖書箇所: ルカによる福音書12章49節~57節

12:49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
12:50 しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。
12:51 あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
12:52 今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
12:53 父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」
12:54 群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ』と言い、事実そのとおりになります。
12:55 また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ』と言い、事実そのとおりになります。
12:56 偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。
12:57 また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。

1.時のしるし

御国が近づいた

イエス様が宣教を開始された時、最初に言われたことばは、「時が満ち、天の御国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。 (マルコ1:15) それまで、大工のせがれとして人生を歩んでこられたイエス様。およそ30歳のときです。人々に御言葉を教え、病を癒し、悪霊を追い出しました。今日の聖書箇所の直前の11章では、口をきけなくする悪霊を追い出したことが書かれていますが、ここでイエス様は面白い表現をしています。

【ルカ11:20】 「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出してるのなら、もう神の国はあなた方のところに来ているのです。」

悪霊どもを追い出したのが、“神の指”によってだというのです。非常に複雑で、難しい手術をされる心臓外科医や脳外科医で、“神の手”の異名を持つ先生がいます。手術の時の手の技が人間業とは思えない、まさに“神技”ということでこのような表現をしていますが、イエス様が口をきけなくする悪霊を追い出したのは、“神の指”によって行ったというのです。神の指とは何なのでしょう。イエス様は出エジプト記の御言葉から引用されたのでした。

神の指

出エジプト記8:19には、モーセとアロンがエジプトの呪法師たちと対決する場面があります。モーセとアロンが神の力によってナイル川の水を血に変えると、呪法師たちも呪法、つまり悪魔・悪霊の力によって同じことをしました。次に、モーセとアロンが神の力によってナイル川からおびただしい数のカエルを這い上がらせると、呪法師たちも同じことをしました。しかし、今度はモーセとアロンが神の力によって地のちりから大量のぶよを発生させると、呪法師たちはこれを行うことができませんでした。その時、呪法師たちがパロに釈明したことばが「これは神の指です。」でした。つまり、“神の指”とは、人間の呪術、悪霊の力ではできない、神にしかできないわざのことなのです。因みに、神は地上のすべての生き物を地のちりから造られました(創世記1:28)。悪魔は、盗み、滅ぼしますが、神はいのちを与えます。

神のわざか悪霊のかしらのわざか

このようにイエス様は、口をきけなくする悪霊を追い出したのは、神の指、つまり神にしかできないわざであり、ご自身がメシアであることを示されたのです。しかし、パリサイ人たちは、悪霊どものかしらベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのだと言いました。ベルゼブルとは、ヘブル語ではバアル・ゼブブで、「蝿の王」という意味です。より強い悪霊の力で悪霊を追い出しているというのです。イエス様をどうしてもメシアとして認めたくないパリサイ人たちは、神の業(メシアの証拠としての奇跡)を、こともあろうに悪霊のかしらの業にしてしまいました。パリサイ人たちは、目の前にメシアがいるのにそれに気づけなかったのです。

メシアの到来

7:22で、バプテスマのヨハネから遣わされた弟子たちから、待ち望むメシアはあなたですかと問われた時、イエス様は、それまでになされた数々の奇跡によってご自身がメシアであることを示されました。

【ルカ7:22-23】 「・・・目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」

また、バビロン捕囚の時(BC6世紀)に書かれたダニエル書には、イスラエルの民と都エルサレムについての預言がありますが、その中で、エルサレム再建命令が出てから69週(1週は7年)の後、すなわち483年の後に、油注がれた者(メシア)が来るが、断たれる(殺される)ことが預言されています(ダニエル書9:25-26)。このダニエル書の預言からすると、イエス様の時代は、時が満ちて、メシア到来の時期になっていたことがわかります。

2.地に火を投げ込む

“地に火を投げ込む”とは

さて、今日の聖書箇所ですが、イエス様は“わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。”(12:49)とおっしゃいました。救い主イエス様が人間の姿を取ってこの地に来られた目的が、地に火を投げ込むためだというのです。柔和で優しいイエス様のイメージからは考えられないショッキングな言葉です。この言葉はどのような意味なのでしょうか。文脈を見ると、直前にはパリサイ人たちとの「ベルゼブル(悪霊のかしら)論争」があり、その後群衆の一人から遺産相続の調停依頼を受けて、金持ちのたとえ話から、財産に心を奪われるのではなく、神の国に入ること、永遠のいのちを求めることを説かれました。そして、その神の国に入るための心備えとして、主人の帰りを待つ忠実なしもべのたとえを話され、その解き明かしをペテロら弟子たちに語られました。主人とは“人の子”・裁き主のことであり、思いがけない時に来るから、常に用心しなさい(12:40)とのことでした。その解き明かしに続いて、この言葉を述べられました。この言葉は群衆にではなく、ペテロら弟子たちに語られたことばです。

罪のきよめ

火は、物を焼くと同時に殺菌する、きよめる働きもあります。園芸や農業では病気になった植物は焼却して除菌しますし、ハサミの刃を火で焼いて殺菌することがあります。旧約時代、モーセの律法が与えられ、罪を犯したときには動物が犠牲に捧げられましたが、その動物は火で焼かれました。人々の罪を取り除くために身代わりの動物が火で焼かれ、焼き尽くされた(全焼のいけにえ)のです。このように火は罪のきよめ、裁きを象徴しています。

御国の前には罪の裁きがある

イエス様は救い主でありますが、また、裁き主でもあります。2000年前には人々を救うため来られ、十字架にかかり人々の罪を贖ってくださいましたが、それで救いは完成したわけではありません。(3日目に復活され、今は神の右に座しておられますが、)最終的な目的は、御国をこの地にもたらし、罪贖われた者をすべて御国に招き入れることです。救い主としての到来は救いの始まりです。次に裁き主としてこの地に来られるとき、御国がこの地に実現し、そこに贖われたすべての人が入り、救いが完成するのです。しかし、その前には、全人類をはじめ、アダムの罪のよって呪われてしまった地上全てをきよめるために裁きを行われます。そのとき、イエス様は地に火を投げ込まれるのです。

【Ⅱペテロ3:7】 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。

このことをペテロら弟子たちに解き明かしをされたのです。

イエス様がもたらす分裂

さらに、12:51で、イエス様は弟子たちに深刻な話をされます。「わたしが来たのは、地に平和をもたらすためではない、むしろ分裂です」と。一家に5人いれば、2人が3人に対抗する、父と子が、母と娘が、嫁と姑が対抗するようになるというのです。イエス様は、永遠のいのちをもたらす救い主としてこの世に来てくださいましたが、世はイエス様を受け入れません。人々はイエス様を受けいれるか、受け入れないかで2分されます。唯一の救いであるイエス様を受け入れるか、受け入れないかは各自の自由意思に委ねられているからです。

心へりくだって神を求める者(心の貧しい者)は御国を相続し、この世の富、権力、快楽に心を奪われ、神に背を向け、おごり高ぶる者は、御国から締め出されることになります。これは避けられないことなのです。

3.キリストのバプテスマ

イエス様は、「地に火を投げ込むために来た」とおっしゃった後、12:50で、「しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」といわれました。イエス様がこれから受けるバプテスマとはどういうことでしょう。

バプテスマについて

ルカ3:16-17で、バプテスマのヨハネは、人々に悔い改めて神に立ち帰れと説き、水でバプテスマを授けました。水のバプテスマは悔い改めを表します。(私たちもイエス様を信じた時、神から離れていたことを悔い改めて水のバプテスマを受けました。)また、ヨハネは、イエス様のことを“あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります”と紹介しています。聖霊と火とのバプテスマとは、聖霊のバプテスマと火のバプテスマがあるということです。聖霊は救いを表し、火は裁きを表します。イエス様は救いをもたらす方であり、裁きをもたらす方でもあります。イエス様は、悔い改める必要のないお方でしたが、公の働きを始めるにあたり、ヨハネから水のバプテスマを受けられたのでした。

しかし、今日の聖書箇所の12:50では、「わたしには受けるバプテスマがある」というのです。これから更に受けるバプテスマとは何のことでしょう。

受けるバプテスマ

バプテスマのヨハネはイエス様のことを「世の罪を取り除く神の小羊」と呼びました。まさにこれからエルサレムに上り、過越しの祭りに入ろうとする時です。これから受けることと言えば、過越しの犠牲の小羊として十字架にかかることです。十字架の前には夜通しの裁判があり、ローマのむち打ちによって全身がずたずたにされます。そして十字架です。頭にはいばらの冠、手足は釘で打ちぬかれ、十字架上でいのちを注ぎ出されます。この受難のことを予見し、“受けるバプテスマ”があると言われたのでしょうか。

授けるバプテスマ

しかし、このように受けるバプテスマを十字架の受難と考えると、実は文脈がつながらないのです。直前の12:49「わたしがきたのは地に火を投げ込むためです。」の後に、「しかし、わたしには受けるバプテスマがある。それが成し遂げられるまでどんなにか苦しむか」とあり、その直後の12:51-52で「わたしが来たのは地に平和をもたらすためではない、分裂です」となっており、どうも話がつながりません。

神学校の時、死海写本を研究されている北浜先生から、この箇所のヘブル語聖書の訳をお聞きしたことがあります。
ルカはギリシア語で福音書を書いていて、この箇所を「受けるバプテスマがある」と記録していますが、このとき、イエス様はヘブル語(またはアラム語)で語っていますが、「受けるバプテスマがある」ではなく、「授けるバプテスマがある」と語ったのではないかというのです。日本語の「今、行くよ」という言葉を英語にすると、“I‘m comming”となります。同じ状態のことを言っているのに、言語が違うと「行く」と「come」というように逆の意味のことばで表現することがあります。12:49-50は、ヘブル語聖書では、以下のようになっているそうです。

【ヘブル語聖書訳 ルカ12:49-50】 「わたしの任務は裁くこと。地上は燃えている。いつの日か最後の審判が来る。しかし、わたしはそれを望まない。わたしは地上をバプテスマする(裁く)ように命じられている。しかし、しばらくの間、苦しまなければならないが。」

イエス様がこの地にこられたのは、裁きのため、地に火を投げ込むためで、地はもう燃えている。いつか最後の審判の日がくるが、イエス様はその日が来てほしくないというのです。その日イエス様は、裁き主としてこの地に火をもたらします。地に火のバプテスマを授ける、神に反抗するものを裁くのです。そして、この時は、裁きの時で、もう救いの時ではない。救われる時は過ぎてしまった。だからその時まで、どんなに苦しまなければならないかという意味になります。

イエス様の苦しみ

イエス様は救い主であり、裁き主でもあります。裁きを行う前に、十字架による救いの御業をなされました。ご自身の命を犠牲にしてまで人類を救いたいとの愛の現れです。イエス様はすべての人が福音を受け入れて救われるよう願っていますが、福音を聞いても人々は分裂し、すべての人が救われるというわけではありません。一家に5人いると、2人が3人に対抗するように、福音を受ける者と反発する者に分裂します。アダムの背きの罪以来、神から離れ、自分に都合のよいことを善とする自己中心の人には、素直にイエス様の十字架を受け入れられないのです。

しかし、イエス様は、ひとり息子を失ったやもめに対して、はらわた(内臓)がひっくり返るほど心の底から悲しみ、憐れんだお方です(ルカ7:13)。99匹の羊を置いておいても、失われた羊1匹を探しに行かれる良い羊飼いです(ルカ15:4)。一人でも滅びることを望んでおられません。イエス様は、そのようにあわれみ深い救い主でありながら、また同時に裁き主でもあるのです。裁きの日には、神に反抗する多くの者を裁かざるを得ないのです。ですから、イエス様は、裁きの日がすぐには来てほしくないのです。

【Ⅱペテロ3:9】 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

神様は一人でも滅んでほしくないのです。すべての人が救い主を信じて救われるようにと、忍耐して待っておられます。

結び 御言葉によって時を正しく判断する

今日はルカの福音書から、「今のこの時代を見分ける」というタイトルでメッセージしてきました。イエス様がなされたわざによって、イエス様が聖書に約束され、長らく民が待ち望んでいたメシア・救い主であることがわかるのに、民の指導者らはそれを悟ることができなかった。つまり今がメシアの時代であると見分けられなかったことを分かち合いました。また、イエス様は裁き主でもあり、終わりの時には火によってこの地を裁き、きよめるお方であること、しかし、神様は人々の救いのために、その時を忍耐深く待っておられるということを分かち合いました。最後に時代、時を正しく見分けた人を紹介します。

今の時代(時)を見分けた人、クレオパ

ルカの福音書24章に、十字架から3日目、エルサレムからエマオという村に下って行った二人の弟子に、よみがえったイエス様が現れた話がありますが、その時の一人がクレオパという弟子でした。この約40年後のことですが、エルサレム教会のリーダーであった主イエスの兄弟ヤコブが殉教すると、クレオパがエルサレム教会のリーダーを継ぎます。そして、西暦70年頃、ユダヤ戦争でローマ軍によってエルサレムが破壊される直前、一瞬エルサレムの包囲が解かれた隙に、都にいた信徒らを東の山(ヨルダン)へ脱出させたのです。“エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たら滅亡が近づいたことを知りなさい。そのときにはユダヤにいる人は山へ逃げなさい・・・。”(ルカ21:20-21)とイエス様が前もって言われたことを実践し、多くの信徒の命を救いました。
時を正しく見分け、御言葉を実行したのです。

時を正しく判断する

イエス様は言われました。

【ルカ 12:56】 ・・・あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。

これはイエス様が、群衆や宗教指導者たちに言われたことばです。西に雲が起こるとにわか雨になり、南風が吹くと暑い日になる(日本での言い伝えでは、朝焼けの後は雨、夕焼けの後は晴れ)というように気象現象によって天気を見分けることをしていながら、彼らはイエス様がなされた数々の御業(メシアの証拠としての奇蹟)を見ても、イエス様をメシアと認めず、今がメシア到来の時だと見分けることができませんでした。

同じように、私たちも、今の世の状況を見て、今がどのような時なのか見分けているでしょうか。
メシアであるイエス様が次にこの地に来られる(再臨)ときは、裁き主として来られます。その日は、私たちイエス様を信じる者には御国に入る救いの完成の日ですが、神に敵対し、イエス様を拒否する者たちにとっては裁かれる世の終わりの日です。その終わりの日の前兆として、民族は民族に、国は国に敵対し、大地震、疫病、飢きん、恐ろしい現象(大災害)などが起こると聖書(ルカ21章)に記されています。

一方、今の世界の状況を見ると、中東での紛争、米中の対立、イナゴ害による食料危機、日本はじめ各国での大地震、頻発する百年に一度の豪雨水害、そして、新型コロナパンデミック。時のしるしが現れています。

私たちは今の世の状況がどのようなものなのか聖書から読み取らなくてはなりません。今は終わりの日が近い時代であると見分けなければなりません。残された時間はあまり残っていないかもしれません。その日が来る前に人々に福音を伝えていきましょう。イエス様は一人でも滅びることを望んでおられません。

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