変貌山のモーセとエリヤが啓示したキリストの死と復活

福音と人類救済計画
変貌山のイエスとモーセとエリヤ Carl Bloch 1834-1890
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イエス様がペテロとヨハネとヤコブを連れて高い山(変貌山)に登った時、エリヤとモーセが現れてイエス様と語り合っていたという記事が、3つの福音書に記されています。

この出来事の目的の一つは、神の子・メシアの初臨の目的について弟子たちの目を開かせることでした。もう一つは、メシアの再臨と義人の復活と神の国の到来について確信させることです(参照:変貌山で見た神の国の幻)。今回は、メシア初臨についての啓示を学びましょう。

① 雲の中から聞こえた声は何を意味しているか。
② モーセとエリヤが現れたことは何を意味するか。
③ この出来事は弟子たちをどのように変えたか。

では、マタイの福音書から読んでいきましょう。

マタイ17:1~13 (マルコ9:2~13、ルカ9:28~36)
17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
17:3 しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。
17:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という声がした。
17:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
17:7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。
17:8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。
17:9 彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない」と命じられた。
17:10 そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」
17:11 イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。
17:12 しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」
17:13 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。

1.父なる神の声:イエスは神の子である

ペテロ、ヨハネ、ヤコブは、高い山でイエス様が光り輝き、モーセとエリヤが現れるのを見ました。そして光り輝く雲がイエス様とモーセとエリヤを包み、雲の中から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」という父なる神の声を聞きました。

イエス様が洗礼を受けて水から上がられた時、天が開け、神の御霊が鳩の様に下り、天から声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。(マタイ3:16~17)」

わたしの愛する子」は神の子を指しています。「わたしの子」については、詩編に預言されていました。

詩編2:7~9
「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」

ここには二人の「わたし」がいます。主である「わたし」が子どもの「わたし」を生み、国々を所有として与え、裁きをさせます。その意味は、父なる神が子なる神を生み出し、全世界を支配させるということです。

マタイ12:17~18
これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべわたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。」

父なる神様がイエス様をしもべとして遣わし、聖霊によって公義を宣べ伝えさせます。

イエス様がバプテスマを受けた時に聞こえた声も、聖霊が注がれたことも、変貌山で雲の中から聞こえた声も、イエス様が「神の子」であることを証言していました。

2.モーセとエリヤが啓示したメシアの死

ルカ9:30~31
 ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。

栄光のうちに現れたモーセとエリヤが話し合っていたのは、イエス様のご最期――――についてでした。

この出来事の前、ペテロはイエス様を神の子キリストであると告白しました。それを受けて主は、ご自分がエルサレムで殺され、三日後によみがえることをはっきりと語られました。しかしペテロは、そんなことがあってはならないと、主をいさめました。

弟子たちはイエス様をメシアと考えてはいましたが、メシア来臨の目的(贖罪の死)と復活と再臨について、正しく理解していたわけではありませんでした。当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にあり、民衆は、イスラエルをローマ帝国から解放してくれる力強い「ダビデの子」の現れを待ち望んでいました。弟子たちも当時のメシア観に影響されていたので、イエス様の死は受け入れがたいことでした。

イエス様は、実際に死から復活され、弟子たちに姿を現された時、こう言われました。

ルカ24:44
「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

モーセは律法を表し、エリヤは預言者を代表しています。

律法には、罪の赦しのためには罪のないものの血を流さなければならないこと(贖い)が定められていました。動物犠牲制度は完全な罪の贖いを実現するものではありませんでしたが、将来、メシアによって完全な贖いがなされることを予表していました。神の小羊・イエス様が十字架で死なれ、全人類の罪が完全に贖われる時が来るのです。

預言者と詩編は、メシアの生涯について記し、来るべき救い主(贖い主)の死と復活について預言していました。旧約聖書には、救い主の死と復活が何度も預言されていました。

モーセとエリヤがイエス様のご最期について語り合っていたのは、主が旧約聖書に預言されている通り、十字架で死んでよみがえられることを暗示していると考えられます。

父なる神は、ご自分に背いて悪魔の支配下に陥り、呪われて滅びなければならない人類をあわれみ、御子を地上に送られました。人の罪の身代わりに神の子を殺して罪の代価を支払わせ、人の罪を赦し、もう一度神の元に取り戻すためです。メシアは死ぬために来られたのでした。

主がご自分の死と復活について予告されても、弟子たちはそれを受け止めることができませんでした。それが実際に起こるまでは、弟子たちの目はふさがれていて、イエス様の初臨の目的を理解できなかったのです。

3.マラキ預言の成就:預言者エリヤとして登場したバプテスマのヨハネ

父なる神の声を聞いた3人の弟子たちは恐れてひれ伏し、次に目を開けると、そこにいたのはイエス様だけでした。

マタイ17:9~10
彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない」と命じられた。そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。「すると、律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どうしてでしょうか。」

エリヤとモーセがともにいるのを見た弟子たちは、おそらくマラキ書の預言を思い出したことでしょう。

マラキ4:4~6
あなたがたはわたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。

マラキ書は旧約聖書最後の書物です。「主の大いなる恐ろしい日」とは、神である主が地上を裁くために天から来られる日の事です。その日、悪人・罪人は主に滅ぼされ、義人はこの罪の世界から救い出されて報いが与えられます。

主はイスラエルの民に、モーセを通して与えた律法(おきてと定め)を守るように命じられました。そして、ご自分の来臨の日に人類が全滅しないように、預言者エリヤを遣わすと約束されました。エリヤの働きとは、主の来臨に備えて、堕落した民を悔い改めさせることでした。

この預言を最後に、400年間にわたって神からの言葉は途絶えてしまいました。イスラエルの民はマラキの預言を頼りに、メシアの先駆者としてエリヤが来ることを待っていました。弟子たちは、変貌山にエリヤとモーセが現れたのを見て、なぜエリヤはイエス様の後から来たのか疑問に思ったことでしょう。

マタイ17:11~13
イエスは答えて言われた。「エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。」そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。

エリヤの働きをするために遣わされたのは、バプテスマのヨハネでした。ヨハネがまだ母親の胎内に宿る前、父ザカリヤに御使いが現れ、このように預言しました。

ルカ1:16~17
「イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそエリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

バプテスマのヨハネは主の先駆者として、エリヤの霊と力を受けて遣わされたのでした。

マタイ3:1~2 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

マルコ1:2~4 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

山上に現れたエリヤとモーセは、マラキの預言が成就したことを暗示していました。

4.モーセとエリヤが天から来たのではない

変貌山の出来事から、天国にいたモーセとエリヤの霊が、神様に遣わされて山に下って来たと考える方がいるかもしれません。

以下の理由から、その可能性はないと言えます。

・イエス様は、直接神様から教えられる神の御子です。

父なる神様は、律法と預言書と詩編を通してすでに御計画を語っておられ、御子は御父に絶えず祈り、父の御心と御計画を受け取っておられました。人間がメッセンジャーとなって、御子が知らない知識や情報を伝える必要はありませんでした。

・モーセもエリヤも御子の血潮によって聖められていません。

人間は「原罪」を持つ「肉なる者」であり、神の恵みによる罪の聖めが必要です。罪を贖って義とし、神のもとに立ち返ることができるように、イエス様が十字架で身代わりに死なれたのです。
エリヤもモーセも、キリストの血によって贖われていませんでした。罪ある人が天に昇って神と共に住むことも、天から降って来て御子に御父のメッセージを伝えることもありません。

・神が死人を派遣することはありません。

申命記18:10~11
 あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。

申命記を書かれた神様が、死人をイエス様に遣わすことはしないでしょう。

・死者は復活するまで「よみ」にいます。天に人間は誰もいません。

人間が天に上り、神を見ることはできません。

ヨハネ3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

ヨハネ6:46 だれも神を見た者はいません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。

神を見た方は初めから天におられたイエス様だけです。そしてイエス様だけが死からよみがえり、天に上られ(戻られ)ました。モーセとエリヤは天に上ったことはなく、天から下って来たのでもありません。エリヤは生きたまま天国に行ったという教えがありますが、エリヤやモーセや死んだ義人が天にいるわけではありません(参考:「エリヤは生きて天国に行ったという教えの問題」)。神は生きた者の神であり、死んだ者の神ではないので(ルカ20:38)、死者は神と関係を持つことができません。

死者が天国にいるという教えは異教から来た教えです。全ての人は死ぬとよみに下り、復活の時を待ちます。メシアが再臨されると、義人は朽ちないからだと永遠のいのちを受けて神の国を相続し、神と共に永遠に生きることができるようになります(参照:たましいのよみがえり、死に勝利した神の子の完成)。

5.幻を悟るには時がある

マルコ9:9~10 さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。

弟子たちはイエス様の死についてだけでなく、復活についても理解できませんでした。

マタイ17:9
彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たをだれにも話してはならない」と命じられた。

新改訳聖書第3版では、これはだったと書かれています(英語の聖書ではvision)。エリヤ本人とモーセ本人が実際に山にいたのではありません。ペテロとヤコブとヨハネが見たのは、栄光の姿に輝くイエス様と、栄光のうちに現れたモーセとエリヤの幻でした。

神様は夢や幻によって将来起こる事を教えてくださいますが、人がそれを正しく理解できるとは限りません。イエス様がその幻をだれにも話してはならないと口止めされたのは、主の死と復活を受け止められない弟子たちにとって、さらにその後に起こる出来事を理解することはできないからです。

イエス様はこれから全人類の罪の身代わりに死のうとされていました。万物の創造主・所有者・支配者である神ご自身が、被造物のためにいのちを指し出し、罪の無い尊い血を流して、人類を罪と呪いから贖われるのです。主が復活されるまで、弟子たちにはあの幻の持つもう一つの意味は理解できなかったのです(参照:変貌山で見た神の国の幻)。

6.キリストの証人に変えられた弟子たち

霊的な啓示を悟るには時があります。ペテロとヤコブとヨハネの霊の目が開かれたのは、イエス様の死と復活と昇天を目撃してからでした。五旬節に聖霊が注がれ、120人の弟子たちは力を受けました。異言を聞いて集まった人々に、ペテロはダビデの詩編を引用してイエス様の復活について力強く証し、イエスがメシアであると説きました(使徒2章)。

使徒の働き3章には、ペテロとヨハネが「美しの門」で生まれつき歩けなかった人を癒やしたという出来事が記録されています。驚いて集まって来た人々に、ペテロは、預言されていたキリストの受難が実現し、イエスは十字架で死なれたが、よみがえられたこと、そしてその人はイエスの名により癒やされたことを証し、聴衆に悔い改めを迫りました(参照:聖霊に満ちたペテロ、ダビデの子イエスを証しする)。

使徒3:22~23
「モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。その預言者に聞き従わない者はだれでも、民の中から滅ぼし絶やされる。』」

ペテロは、モーセが書いていたのはイエス様のことであり、イエス様は神の子であると証言しました。

Ⅱペテロ1:17~18
キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。

復活された主とお会いした弟子たちは、イエス様がメシア初臨の目的を成し遂げられたことを悟りました。主は天に帰られましたが、やがて戻って来られます。変貌山で主の栄光の姿と、栄光のうちに現れたモーセとエリヤの幻を見た弟子たちは、主の再臨と義人の復活を確信しました。そして主イエスの死と復活の証人として民に悔い改めを迫り、やがて主が再臨されて神の国が到来するなら、義人が復活して永遠の御国を相続することができると、力強く宣べ伝えたのです。

まとめ

変貌山の出来事が教えていたのは次のことです。

・イエス様は詩編・律法・預言者が記していた神の子である。
・イエス様は預言されていた通りに十字架で贖いの死を遂げ、よみがえられる。
・バプテスマのヨハネは、マラキ書で預言されたエリヤとして主の前に道を備えた。
・やがて栄光の主が戻って来られ、義人は栄光のからだによみがえる。

イエス様は罪のない「神の小羊」として人類の罪の贖いを完成されました。イエス様が今度来られる時は、マラキが預言した「主の大いなる恐ろしい日」です。それは、罪赦された者が復活し、救いが完成する時であると同時に、悔い改めない者が裁かれる時でもあります。

滅びから救われ、永遠の御国を相続するために、聖書から神の御計画を学んで下さい。主の御心を知り、熱心に仕えるためにも御言葉を学んでください。主が私たちの霊の目を開き、御言葉を悟らせてくださいますように。