愛する一人子イサクを神に献げたアブラハムの信仰については、すでに多く教えられています。一方、献げられた側のイサクの信仰については、あまり語られることがありません。この記事では、息子を生贄として献げるという父の信仰を受け入れ、父の信じる神に自分を献げたイサクの信仰について考察します。
1.全焼の生贄とされることを知る
イサクは神が告げられたとおり、父アブラハムが百歳の時に生まれた息子で、神が約束された全ての祝福を受け継ぐ契約の継承者です。父アブラハムは、その愛するひとり子を全焼の生贄として献げるため、イサクには何も言わず、山に連れて行きました。
・イサクは犠牲動物を焼くための大量の薪を背負って歩きながら、羊を連れて行かないことを不審に思いました。父はただ、「神が備えてくださる」と答えただけでした。
・山上に着いた時、イサクは生贄として献げられるのは自分であることを知りました。彼は自分を焼くための薪を運ばされたのでした。
・イサクは大量の薪を背負うことができるほど成長していたので、高齢の父を殴り倒して逃げることもできたでしょうが、抵抗することなく縛られ、焼かれるために身体を指し出しました。
泣き叫ぶ小さな子供を無理やり押さえつけ、ナイフを振りかざす老人の姿を思い浮かべるかもしれませんが、イサクはこの時、理解力・思考力・判断力・決断力のある青年になっていて、自分が献げられる理由を理解し、納得していたと考えられます。
もし幼い子供であったなら、自分が殺されることと神の契約にどんな関係があるのか理解できないでしょう。自分を殺そうとする父も、自分を殺せと命じた神も恐ろしい存在でしかなく、その記憶はトラウマとなり、その恐怖体験から神を愛することも、神に従うことも、神との信頼関係を築くこともできないでしょう。
アブラハムの信仰の継承者は、強制されてではなく、自らの意思で自分を捨て、神に従うことを選び取らなければなりません。そして父の信仰を理解し、父を信じ、父の信じる神を信じ、その意志に従順するためには、知的にも精神的にも信仰的にも成長していなければなりません。
2.父の信仰を自分の信仰としたイサク
アブラハムは無数の家畜を所有する大牧羊家、大勢のしもべを使う大実業家でした。イサクはアブラハムの正妻サラの子、アブラハムの家業の後継者、全財産の相続人ですが、死んでしまうなら、彼は父親の事業と全財産、自分自身の夢と希望、これから受けるだろう人生の祝福を全て失うことになります。
またイサクは、神がアブラハムに約束された祝福――子孫を海の砂・空の星のように増やし、カナンの地をアブラハムとその子孫たちに永遠の相続地として与える――を実現するための契約の継承者です。アブラハムが祝福を受け取るためには、イサクが息子を生み、その子孫たちが増え広がらなければなりません。
さらに神はアブラハムに、「あなたの子孫を通して全ての民族を祝福する」と約束されました。その子孫とは、創世記で「蛇の頭を踏み砕く」と預言されたメシアで、アブラハムとイサクの子孫として生まれるのです。
イサク抜きにアブラハムへの約束は実現せず、イサク抜きに神の人類救済計画も実現しません。ところが、神の約束(子孫繁栄、相続地、全ての民族を祝福する)実現のカギとなるイサクが死ななければならないのです。
それでは神はイサクが死んだ後、どのようにしてアブラハムとの契約を実現されるのでしょうか? もし神の計画に失敗がなく、神が契約を守られるのであれば、イサクは死んで終わりではなく、再びいのちを得るはずです。火で焼き尽くされ、灰と化しても、神は灰の中からイサクを復活させてくださるはずです。そうでなければイサクの子孫は生まれず、アブラハムの子孫たちから約束のメシアは誕生しません。
ヘブル人への手紙11:17~19
信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。神はアブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」と言われましたが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。
アブラハムが、神は契約を守るためにイサクをよみがえらせてくださると信じたように、イサクも、神は必ず契約を守り、自分を死からよみがえらせてくださると信じたことでしょう。
イサクは、全能の神に我が子を献げようとする父の信仰を信じ、父の信じる神を信じました。そして自分の子孫たちの中からメシアが生まれることを信じ、自分の子孫によってアブラハムの子孫と全ての民族が祝福されることを信じ、自らの意思によって死を選び取ったことでしょう。
こうしてイサクはアブラハムの信仰の継承者となったと考えられます。
3.イサクの死とよみがえり
イサクが死を覚悟して父に身を委ね、アブラハムが息子を屠るために刃を振りかざしたその時、天からの声がそれを止めました。神は、屠られるために薪の上に自身を横たえたイサクの信仰と、本気で息子を切り裂こうとしたアブラハムの信仰とをご覧になりました。二人が目に見える行動を取った時、神がそれを良しとされ、全能の神とその約束に対する二人の信仰が認められたのです。
アブラハムはその時、藪に角をひっかけている雄羊に気が付きます。息子を縛っていた縄を解き、代わりに雄羊を屠り、薪に載せて火をつけます。
イサクは、自分の代わりに羊が殺され、焼かれるのを見ました。さっきまで自分が横たわっていた薪の上で、殺された羊が炎に包まれていきます。自分が焼かれるはずだったのに、自分の身代わりに焼かれている羊。激しく炎が燃え上がり、煙が天に立ち上り、羊は焼き尽くされ、灰と化しました。イサクには、雄羊の死が自分自身の死に思われたことでしょう。焼き尽くされた雄羊の姿はイサク自身の姿を暗示していました。
その時、イサクは死からのよみがえりを味わったのです。
・焼き尽くされていたはずの自分が生きている! 死んでいたはずの自分にいのちがある!
・今生きているこのいのちは、自分の力で生み出したものではない。神から新しく与えられたいのち!
・これからの人生は神から与えられた新しい人生。それはもはや自分のものではない。自分の計画、願望を自分の能力、方法で成し遂げる人生ではなく、神の目的のために、神のいのち、神の力によって生きる人生。
へブル人への手紙11:19は、別訳ではアブラハムがイサクを取り戻したことは「型」であると書かれています。イサクは実際に死んでよみがえったのではありませんが、死者のよみがえりを示す型であるのです。比喩的に言うなら、イサクは肉において死に、霊においてよみがえりました。この世のいのちに死に、神の国のいのちによみがえったのです。
4.キリストの死とよみがえりの型:死がもたらすいのち
アブラハムとイサクの信仰は神の計画を前進させることになりました。
創世記22:15~18
主の使いは再び天からアブラハムを呼んで、こう言われた。「わたしは自分にかけて誓う──主のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」
アブラハムは自分の思いを捨てて神に聞き従い、イサクも自分のいのちを死に明け渡しました。その結果、アブラハムとイサクの子孫から敵の門を勝ち取る子孫が生まれ、諸国民を祝福するという約束が確証されました。
イサクは死から取り戻され、新しいいのちを与えられた者として、父の信じた神を自分自身の神とし、契約の後継者として歩むことになりました。
イサクが37歳の時に母サラが死にました。神はイサクのために妻を備えておられ、イサクは40歳で妻リベカを迎え、新しい生活が始まりました。神はイサクを祝福され、イサクを通して多くの子孫が生まれ、その中から約束されていた人類の救い主が生まれたのです。
全焼の生贄として自分を献げたイサクは、人類を救うためにご自分を献げられた御子イエス様を予表しています。
マルコ10:45
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。ヨハネ12:24
・・・一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。ヨハネ10:17、18
わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。
イエス様は御父の命令に従い、ご自分を張り付けにするための十字架を背負ってゴルゴダの丘に行き、全人類の身代わりに父なる神に裁かれて死なれました。そして義と認められて死からよみがえり、今も生きておられます。
誰でも、イエス様を救い主と信じ、その犠牲の死が自分のためであったと信じるなら、神の子として新しく生まれることができます。イエス様がご自分を死に明け渡されたので、罪人たちの罪が贖われ、義と認められて、新しいいのちを受け取ることができるのです。
・アブラハムがイサクを全焼の生贄として献げた行為は、父なる神様が御子イエス様を贖いの小羊として献げる行為のひな型であると考えられます。
・諸国民を祝福する子孫を生み出すために自分を死に明け渡したイサクは、全人類の救いのためにご自分のいのちを与えられた御子イエス様のひな型なのです。
5.十字架を自分のものとする
マルコ8:34~35
・・・「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。ルカ14:26:27
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
クレネ人シモンはローマ兵に無理やり十字架を背負わされ、人々のあざけりや罵声の中、イエス様とともにゴルゴダの丘まで歩かされました(マルコ:15:21)。ゲッセマネの園で血の汗を流して祈り、激しく鞭打たれ、歩くことのできないイエス様のために、罪人が自分で背負うべき十字架を身代わりに背負わされたのです。
彼は使徒13:1に出て来る「ニゲルと呼ばれるシメオン」であると考えられています。彼は嫌々ながら十字架を担いだかもしれませんが、後になって主の復活と十字架の意味を知って回心したのでしょう。そしてイエス様が自分の罪の身代わりに死なれたことを信じた時、あの十字架は実際に自分が担ぐべき十字架だった、自分が釘付けにされて死ぬべき十字架だったと悟ったことでしょう。
クリスチャンは、古い人としてはキリストとともに裁かれて死に、キリストの復活とともに新しい人として生まれた存在です。
人は自分の意思で自分の生命を断つことはできますが、自分の意思で自分の計画通りに生まれることはできません。それは神だけがなせる業です。罪ゆえに滅ぼされるべき人に、神から新しいいのちと人生が与えられたのであるなら、自分の好き勝手な生き方を主張することはできません。
クリスチャンの人生には、神の計画、神から与えられる使命と目的があるのです。
6.キリストとともに死に、キリストのいのちに生きる
Ⅱコリント5:15
キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。
神に用いられる働き人は、キリストの死と復活に同一化した人、肉の命に死に、霊のいのちによって生きる人です。パウロの宣教活動はいつも死と隣り合わせでした。彼の宣教生涯は、死を覚悟すると同時に、神のいのちを体験し続ける人生でした。
Ⅱコリント1:8~9
・・・私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです。Ⅱコリント4:10~11
私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。
パウロは主に仕えるためにいつも自分のいのちを死に渡しつつ、主のいのちによって生きました。
ガラテヤ2:20
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
罪人であった古い自分が死に、新しく神の子として生まれたことを信じる者は、神のいのちによって生かされています。その人は自分自身のためではなく、神のご計画の中で神の目的のために生きているのです。
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