神の国到来の幻:十字架を背負う弟子へと変貌させた変貌山での体験

クリスチャンの成長
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ペテロとヤコブとヨハネはイエス様の死と復活の予告を理解せず、主の弟子であることを誇って互いに競い合っていました。彼らがいのちを捨てて主に従う者へと変えられるためには、特別な体験が必要でした。それが変貌山で見た幻です。この記事では、マルコの福音書8章、9章を中心に、ペテロ・ヤコブ・ヨハネがどのように変えられていったのか見ていきます。

1 神のご計画を受け入れられない弟子たち

ガリラヤ伝道を終え、イエス様の心はエルサレムに向けられていました。アダムの離反によって堕落した人類を罪と滅びから救うため、神の御子が身代わりに十字架にかかるのです。

マルコ8:29~33
8:29 するとイエスは、彼らにお尋ねになった。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロがイエスに答えた。「あなたはキリストです。」
8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた。
8:31 それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
8:32 イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
8:33 しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

主はペテロの信仰告白に応えて、ご自分の死と復活をはっきりと予告されました。ところが弟子たちは、メシアが通らなければならない十字架の死を受け入れられませんでした。彼らは、もうすぐイエス様がエルサレムで王になり、イスラエルをローマ帝国の支配から解放してくださると期待していたので、主が捨てられ、殺されるなど、あってはならないことでした。
主をいさめようとしたペテロは、厳しい言葉で叱られてしまいました。人間的には善意であっても、神のご計画に反対することは、サタンの入れ知恵です。

2 弟子とは「自分を捨て、十字架を負って主に従う者」

主が贖いを成し遂げて天に帰られた後、福音宣教は弟子たちに委ねられます。その時に備えて、イエス様は弟子の生き方について最も本質的で重要な教えをされました。

マルコ8:34~38

8:34 それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
8:35 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。
8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
8:37 自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。
8:38 だれでも、このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるなら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき、その人を恥じます。」

主の弟子とは、自分を捨て、自分の十字架を負って主に従う者です。

自分のいのちを救おうと思う者はそれを失う
 迫害や死を免れるためにイエス様を否定し、信仰を捨てる人は、永遠のいのちを失うことになる。

わたしと福音のためにいのちを失う者はそれを救う
 イエスの御名と福音のためにいのちを捨てる人は、たとえ殉教しても、主が再臨されるなら復活して永遠のいのちを得ることができる。

わたしとわたしのことばを恥じる
 自分のいのちを救おうとして主のことばや主に対する信仰、主との関係を否定する

人の子が父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来る時、その人を恥じる
主との関係を否定した人は、主が再臨された時、主に関係を否定される。

イエス様が戻って来られる時、義人の救いが完成し、神の国が始まります。イエス様と福音のためにいのちを失っても、復活して神の国を相続することができます自分のいのちを惜しんで主を否定した人は、永遠のいのちを失い、神の国に入ることができません

3 神の国の到来を見るまで死を味わわない人

イエス様は、キリストの弟子道についての教えを不思議な言葉で締めくくられました。

マルコ9:1
またイエスは彼らに云われた。「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

神の国が到来しているのを見る
神の国(天の御国)とは義なる神が力を持って支配される国です。イエス様が戻って来られて神の国が地上に到来すると、義人は栄光のからだに復活し、永遠に主とともに生きることができます。神の国が力をもって到来するなら、そこには栄光に輝くイエス様と栄光の姿に変えられた義人たちがいます。

世の終わり救いの完成の時であると同時に、罪人にとっては裁きの時(神の御怒りの日)です。神に反逆したアダムの子孫は、神の愛・恵み・祝福・繁栄・奇跡などは求めても、罪・裁き・滅び・悔い改めなどの言葉は聞きたくありません。自分を罪人と認め、遜って神の赦しを乞うなどしたくないのです。

福音とは、「イエス様は神の子であるのに罪人の身代わりに裁かれたことを信じ、イエス様は罪人である自分を贖ってくださった救い主であると信じる者は、神の御怒りと滅びから救われ、永遠の神の国を受け継ぐことができる」という良き知らせです。

福音宣教とは、イエス様の贖いの死と世の終わりの裁き(救いと滅び)を伝え罪を悔い改めてイエス様を救い主と信じ、神の赦しと和解を受け取るように教え諭すことです。

キリストの弟子とは、この福音宣教のために自分を捨て、自分の十字架を負い、主に忠実に従い、主の御心を行う者です。

罪を指摘して悔い改めを迫る、人に媚びないストレートな福音は、罪人を怒らせます。真実な福音を宣べ伝えるキリストの弟子は、憎まれ、迫害され、キリストと福音のために死ぬような体験をして「死を味わう」のです。

イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネが「自分を捨て、自分の十字架を負って主に従う(死を味わう)弟子」となるように、「神の国の到来を見るという特別な体験をさせてくださったのだと考えられます。それが変貌山の幻です。

4 高い山の上で見た「神の国到来」の幻  

マルコ9:2~4
それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でその御姿が変わった。その衣は非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないほどの白さであった。また、エリヤがモーセとともに彼らの前に現れ、イエスと語り合っていた。

イエス様が祈っておられると、顔は太陽にように輝き、衣は光りのように白くなりました(マタイ17:2)。そしてモーセとエリヤが栄光のうちに現れて、イエス様の最期について話していました(ルカ9:31)。

この幻が示していたことは二つあります。

一つは、イエス様の死を理解できない弟子たちに対し、神の子でありキリストであるイエス様の初臨の目的を悟らせることです。雲の中から聞こえた父の声は、イエス様が神の子であると証言していました。そしてモーセ(律法)とエリヤ(預言者代表)はキリストの贖罪の死を預言していました(変貌山のモーセとエリヤが啓示したキリスト参照)。

もう一つは、イエス様の再臨がもたらす「義人の復活と神の国到来」を悟らせることです。

光輝くイエス様: 再臨された神の御子の栄光に輝く姿
主は人類を贖うために神としての栄光を捨て、人の姿をとって地上に来られました。そして全人類の罪を背負って打ちたたかれ、引き裂かれて十字架で死なれ、葬られました。復活・昇天された後、主は神の子の本来の栄光を取り戻し、やがて天の雲に乗って光り輝きながら戻って来られます。ですから、変貌山で光り輝くイエス様の姿は、再臨された主の姿を表していました。

栄光のうちに現れたモーセとエリヤ: 復活した義人たち
主が再臨される時、義人は復活し、主と同じような朽ちない栄光のからだに変えられます。変貌山で栄光のうちに現れたモーセとエリヤは、将来の義人の復活を表しています。

ペテロとヤコブとヨハネが変貌山で見たものは、「御国の王イエス様と復活した義人たちの幻」でした。人の子が父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来る時、神の国が到来し、死んでいた義人がよみがえり、生きている義人も身体が変えられて栄光の姿で現れるのです。
神様は、聖書に預言されていたキリストの死と復活さえ理解できない弟子たちに、イエス様は将来、御国の王として再臨され、神の国をもたらすと幻で見せてくださったのです。

弟子たちはキリストの死と復活という神のご計画を理解していませんでした
彼らはまだ、自分を捨て、十字架を負って主に従う覚悟ができていませんでした。
・ペテロとヤコブとヨハネの霊の目は閉じていて、山で見た神の国到来の幻を理解できませんでした

そこでイエス様は弟子たちに、「人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない」と命じられたのでした。

5 悪霊を追い出せなかった弟子たち

イエス様と3人が山から戻って来ると、残されていた弟子たちと大勢の群衆がもめていました。

悪霊に苦しめられ、口がきけなくなって発作を起こす子供
弟子たちは以前、病を癒し、悪霊を追い出す力と権威を与えられ、イエスの御名によって人々を解放した経験がありました。けれどもこの時、誰も子供から悪霊を追い出すことができませんでした。

弟子たちと議論する律法学者たち
悪霊を追い出せないのだから、イエスの名には権威がない、イエスはキリストではないと非難していたのかもしれません。

群衆
多くのしるし(キリストの証拠としての奇跡)を目にしながらも、イエス様を否定する宗教指導者たちに惑わされて、イエス様をメシアと信じることができずにいました。

イエス様はその状況をご覧になり、苛立たれました。

マルコ9:19
「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」

イエス様にとって、この時代は姦淫と罪の時代(マルコ8:38)です。イエス様がキリストであるしるしを何度も目にしながら、救い主を拒否する不信仰な曲がった時代(マタイ17:17、ルカ9:41)です。神様は罪人たちの傲慢と反抗を長い間、見逃しておられましたが、神の忍耐が終わる時が来ます。それが主の大いなる恐るべき日、主の御怒りの日、つまり神の裁きの日です。

弟子たちが悪霊を追い出せなかったのはなぜか? 

 マルコ9:29の脚注には「祈りと断食によらなければ」追い出せないとあり、マタイ17:20には「あなたがたの信仰が薄いから」とあります。悪霊を追い出すカギは祈りと断食と信仰にあるようです。

Ⅱコリント10:3~6
10:3 私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
10:4 私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。
10:5 私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます
10:6 また、あなたがたの従順が完全になったとき、あらゆる不従順を罰する用意ができています

悪霊追い出しはイエス様の御名の権威と神の力によります神は主権を持って働かれ、神の力遜った弟子を通して現れます神は、ご自分に完全により頼む、謙遜で従順なしもべを通して御業をなさるのです。人間的な理論や知識やはかりごとは霊的戦いにおいて役に立ちません。

御子の完全な従順に倣う

イエス様は父なる神のご意志とご計画に従順されました。創造主である神の御子が、神としての在り方を捨て、しもべの姿を取り、遜り、自らを低くして、人類を罪と滅びから贖うためにいのちを捨て、十字架の死にまで忠実に従われました

主は父なる神に対する信仰、従順・遜りのゆえに、全ての権威、権力の上に高く上げられ、全ての名に勝る名を与えられました。そしてイエスの御名に権威と力があるゆえ、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものはすべて主に跪くのです(ピリピ2:6~11)。

私たちが神の前に断食して祈り、自分の心を探っていただく時、高ぶりと不従順という罪に気が付くかもしれません。もし私たち自身が神に不従順であるなら、悪霊を罰することはできません。

キリストの弟子にとって必要なことは「神に対する信仰・遜り・従順」です。自分の思い・高ぶり・肉の働きを取り除くため、つまり、自分を捨て、自分の十字架を負って主に従うために祈りと断食が必要なのです。   

6 変貌山での霊的体験によって高ぶった3人の弟子たち 

十字架を目指してエルサレムに向かうイエス様とは対照的に、弟子たちは苦しみを通らずに高い地位に着くことを期待していました。

仲間うちの権力争い

弟子たちは道々、自分たちの中で誰が1番偉いか議論しました(マルコ9:34)。変貌山で特別な体験をしたペテロ・ヤコブ・ヨハネは、自分は他の弟子たちより偉いと自惚れたことでしょう。
主は、「先頭に立ちたいと思う者は皆の後になり、皆に仕える者になりなさい(9:35)」とたしなめ、「皆の中で一番小さい者が、一番偉い(ルカ9:48)」と教えられました。

ところが、ヤコブとヨハネは、主の右と左に座ることを願い出て、他の弟子たちを怒らせます。主は、「偉くなりたいなら、仕える者になりなさい、先頭に立ちたいものは皆のしもべになりなさい」と言われ(マルコ10:37~44)、世の指導者のように権力をふるうのではなく、上に立つ者ほど遜って仕えるべきであることを再度、教えようとされました。

自分たちの権威付け 

またヤコブとヨハネは、「あなたの名前で悪霊追い出しをしていた人がいたが、私たちに従って来なかったので、それをやめさせました」と主に言います。自分たちは12使徒だから権威があって大きな働きができるが、自分たちの配下にいなければ悪霊を追い出す資格も権威もないと侮ったのでしょう。まるで、イエス様に向かって「何の権威によって宮で教えているのか」となじったパリサイ人のようです。
主はそれに対し、キリスト者に水一杯飲ませてくれる人にも報いがあると言われ、主の御心を行う全ての人は主に喜ばれ、覚えられていることを示されました。

一行はサマリヤを通ってエルサレムに向かいます。イエス様の思いがエルサレムに向けられていたので、サマリヤ人はイエス様を受け入れませんでした。ヤコブとヨハネは腹を立て、「私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と意気込みます(ルカ9:54)。

この兄弟は「ボアネルゲ:雷の子」と呼ばれていた(マルコ3:17)ので、よほど気性の激しい人たちだったのでしょう。あるいは、自分たちも変貌山で見たエリヤのような存在だと考えたのでしょうか。彼らは世の権力者同様、自分たちには人を裁く権威があると錯覚し、神ご自身が人類の罪のために死なれるという最高の遜りと最高の愛を理解していなかったのです。

7 神の国に入るための心構え 

イエス様はその後、神の国に入るための厳しい心構えを教えられました。

マルコ9:43~50
9:43 もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。
9:45 もし、あなたの足があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両足がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片足でいのちに入るほうがよいのです。
9:47 もし、あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出しなさい。両目がそろっていてゲヘナに投げ込まれるより、片目で神の国に入るほうがよいのです。
9:48 ゲヘナでは、彼らを食らううじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。
9:49 人はみな、火によって塩気をつけられます。
9:50 塩は良いものです。しかし、塩に塩気がなくなったら、あなたがたは何によってそれに味をつけるでしょうか。あなたがたは自分自身のうちに塩気を保ち互いに平和に過ごしなさい。」

つまずきを与えるものを取り除く 

両手、両足、両目が揃っていてゲヘナの火に投げ込まれるより、つまずかせる手足を切り捨て、つまずかせる目をえぐり出し、片手、片足、片目になってでも、いのち(神の国)に入るべきです。

箴言6:16~19には、主ご自身が忌み嫌うものは、高ぶる目偽りの舌咎なき者の血を流す手邪悪な計画をめぐらす心悪へと急ぎ走る足まやかしを吹聴する偽りの証人兄弟の間に争いを引き起こす者であると書かれています。主が憎まれ、忌み嫌われるものを取り除き、何としてもゲヘナの火から逃れなければなりません!

自分自身の内に塩気を保つ  

塩には防腐作用があります。塩気のある弟子は、人々に真理を教え、人生の目的と永遠の希望を悟らせ、悪と腐敗から守ります。塩気をなくした弟子は、曲がった悪い時代の権力争いや金儲けに巻き込まれ、神の国の大使としての使命を忘れてしまいます。

マタイ5:13
あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。

主の弟子は火によって塩気をつけられます。塩気を失って神の国の外に投げ出されてしまわないように、火のような試練や迫害を通って訓練され、永遠の御国に相応しい者へと整えられていくのかもしれません。

互いに平和に過ごす 

神は混乱の神ではなく、平和の神です(Ⅰコリント14:33)。私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めローマ14:19)、同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにし、利己的な思いや虚栄心に囚われず、へりくだって仕え合うべきです(ピリピ2:2~3)。

クリスチャンが内輪もめしていたら、教会は立ち行きません。競い合うのではなく、互いに愛しあい、平和に過ごすことで、神の家族として世に証しできます。身内で地位、権力、名誉を競い合うのは愚かなことです。主にある兄弟姉妹が平和を保つとき、愛と平和の神がとともにいてくださいますⅡコリント13:11)。

8 ペテロのつまずきと回復

それでも弟子たちはイエス様の教えを理解せず、ご自分を犠牲にして人類を救おうとされる主の深い愛を悟ることができませんでした。

主を否認したペテロ 

最後の晩餐の後、オリーブ山でイエス様は弟子たちに、「あなたがたは皆つまずきます」と言われました。するとペテロは「たとえ皆がつまずいても私はつまずきません」と答えます。イエス様が「あなたは鶏が鳴く前に3度わたしを知らないと言う」と予告されると、ペテロは「たとえご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と主張します(マルコ14:26~31)。

イエス様が逮捕された後、ペテロはどうしたでしょうか?

大祭司の庭で素知らぬ顔で火にあたっていたペテロは、「あなたもあの人の仲間だ。確かに見た」と迫られ、「イエスなど知らない、イエスの仲間ではない。もし嘘をついているなら呪われても良い」と、3度も主を否みました14:66~72)。ペテロは、イエス様の弟子として自分も逮捕されることを恐れ、自分を守るために主との関係を否定したのです。

鶏が鳴いて主と目が合った時、ペテロはかつて主が語られたことばを思い出したことでしょう。「自分のいのちを救おうとする者はそれを失うわたしとわたしのことばを恥じるなら…わたしもその人を恥じる。

自分を主の一番弟子と誇り、主のためには死をも恐れないと豪語したペテロでしたが、自分の弱さ・罪深さを思い知らされ、自分は主を見捨てた傲慢な偽善者であると悟って号泣しました。彼の高ぶりはすっかり砕かれてしまいました。

ペテロの回復

復活された主にお会いしたペテロは、主に3度「あなたはわたしを愛していますか?」と質問され、「わたしの羊を飼いなさい」と命じられます(ヨハネ21:15~19)。彼は主に赦され、新しい召命を受け、再出発することができました。主はペテロが裏切る前から、立ち直ることができるように祈っていてくださったのです。ペテロを回復させたのは主の愛と祈りと、主を否認した罪さえ赦す十字架の恵みでした。

9.ペテロを変えた変貌山の幻

イエス様は40日間、弟子たちに現れて神の国について教えられた後、天に帰って行かれました。天を見上げている弟子たちに、御使いが主は再び来られると予告します(使徒1:9~11)。

栄光に輝く王が戻って来られる! その時、ペテロとヨハネとヤコブの脳裏には、変貌山で見たあの幻がよみがえったことでしょう。光り輝くイエス様と、栄光のうちに現れたモーセとエリヤ! 将来の主イエスの栄光ある再臨と義人の復活! 神の国が力を持って到来する!  

Ⅱペテロ1:16~18
1:16 私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。
1:17 この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
1:18 私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。

ペテロは御使いの予告とあの幻によって、主の再臨と神の国の到来を確信しました。

御国の王に献身する

 弟子たちは当初、主の死と復活という神のご計画を受け入れず、弟子として自分を捨てて主に従うことも理解せず、高ぶり、競い合っていました。そして主が捕らえられた後、彼らは皆、主を見捨てて逃げ去り、ペテロは主との関係を3度も否定してしまいました。
主はそのような弟子たちのために、変貌山での幻を見せて備えてくださいました。そしてその体験は、どんな迫害にも屈しない福音伝道の原動力となったのです。

 変貌山での体験は、ペテロとヤコブとヨハネを死に至るまで忠実な弟子たちへと変貌させました。そこで見た光り輝くイエス様とエリヤとモーセの幻は、神の国到来――キリスト・イエスの再臨と義人の復活――を表していました。永遠の神の国の到来がイエス様によって実現すると悟ったペテロは、十字架を負い、いのちを捨てて主に従う者に変えられました。彼は、主と福音宣教のために死を味わう者になったのです。

イエス様は、神の国の到来を確信し、主の再臨と義人の復活に希望をもって福音を伝え続けるようにと、私たちをも召してくださいました。

パウロはイエス様と神の国のために自分を捨て、自分の十字架を負って主に従い、死を味わい続けました。そしてエペソの信者たちのためにこのように祈りました。それは私たちのための祈りでもあります。

エペソ1:17~19
どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

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