キリスト教とユダヤ教は同じ神を信じ、同じ旧約聖書を持っていますが、信仰についての考え方や礼拝方法は異なり、別々の宗教として発展しました。この記事では、本来の聖書信仰・キリスト信仰とはどのようなものかについて考えます。
1.ヘレニズム的聖書理解からへブル的聖書理解へ
キリスト教とユダヤ教の分離の原因は何でしょうか? 生まれた時から聖書の教えを聞いて育つユダヤ人とは異なり、クリスチャンは、多くの宗教や思想に取り囲まれています。哲学、ヒューマニズム、合理主義、二元論、無神論、進化論、神秘主義、アニミズムなど。また、欧米諸国の価値観や思想はヘレニズム(ギリシャ思想、文化)に基づいています。
ヘレニズムは古代ギリシャ哲学に根差した人間中心主義・合理主義で、人間の理性や論理性、科学的思考や多様性を重視します。ですから霊的な体験や超自然的な現象に対しても、神の存在に対しても、人間の知性で理解できる枠の中にとどめようとします。ギリシャ神話の神々は、人間をモデルにし、人間的な生き方をする存在として描かれています。
これに対し、聖書はヘブライズム(ユダヤ思想、文化)に基づく書物です。ヘブライズムは神中心主義で、人間の知恵や思想ではなく、神の意思・計画・教え(律法)、啓示(預言)を重視します。
ヘブライズムでは、聖書の本当の著者は神ご自身であり、世界は神によって造られ、人間の歴史は神によって導かれると信じています。神によって目的を持って創造された人間が、神との契約関係の中で御心に従って生きるなら、祝福され、人間本来の栄光を現すことができると信じ、そのためには神の教えに聞き従うことが重要であると考えます。そして、神は人間の知性を遥かに超えた偉大な方であるので、その教えや計画も人の思いをはるかに超えており、神からの啓示によらなければ理解することはできないのです。
旧約聖書の原典はヘブライ語で書かれました。新約聖書の原典は失われ、ギリシャ語写本しか残されていませんが、ルカ以外の著者は、ヘブライズム世界観を持つユダヤ人です。イエス様はユダヤ人として生まれ、律法に従うユダヤ人として生活されました。使徒たちもユダヤ人、初期のクリスチャンもユダヤ人、初代教会はユダヤ教の分派と受け止められていました。ですから、聖書もキリスト信仰も、ヘブライズムに基づいているのです。
神の子とされることも、栄光も、契約も、律法の授与も、礼拝も、約束も、初めはイスラエル人に与えられたものでした(ローマ9:4)。異邦人クリスチャンはキリストを通してアブラハムの子孫、約束による相続人となりました(エペソ3:6、ガラテヤ3:29)。信仰によって神と契約関係に入り、神の家族、同じ神の国の民となったのです(エペソ2:18~19)。また、クリスチャンは、イスラエルという栽培種のオリーブの木に接木された野生種のオリーブの枝(ローマ11:16~24)と説明されています。つまり、キリスト教のルーツ(根)はへブル的なのです。
自由主義神学というものがありますが、ヘブル的聖書をヘレニズム的に読み、人間的・合理的に解釈し直すことは、御霊で始まったものを肉によって完成させるようなものです。
クリスチャンはヘブル的な聖書の読み方と解釈を学ぶ必要があります。旧約聖書はもちろんですが、新約聖書も旧約聖書のへブル的土台の上で理解する必要があります。
2.聖書は人類史を導かれる神の計画書
歴史(History)は、His Storyと言われるように、神が見通し、導かれる人類の歴史です。聖書には、神による人類の創造から完成まで、人類史の全貌が書き記されています。創世記で始まった人類救済物語は、イスラエルの歴史を通して進展し、教会時代を経て全世界に拡大し、黙示録で完結します。創世記で人の失敗から始まった人類の歴史は、黙示録では、神の御子によって逆転勝利で完成するのです。
旧約聖書には、人類の罪とその結果を無効にする神の恵み、人類にとっての希望が啓示されています。
人類は、神が造られた祝福に満ちた世界で、神の愛を受け、永遠に神と共に生きるべき存在として造られました。罪によって神との関係が壊されなければ、人は悪や汚れや呪いのない祝福された世界で、神とともに喜び、楽しむことができ、人の働きと営みは世界に祝福をもたらすはずでした。
創造主である神は、罪を犯して神から離反し、堕落した人類を、ご自分の元に取り戻し、もう一度人に祝福と栄光を与えるために、壮大な人類救済計画に着手されました。
旧約聖書には、堕落した人類を回復するための救いの計画とその過程が記され、メシアによる贖いが預言されています。罪を贖い、義人をよみがえらせて神の国に住まわせ、本来の使命を果たさせるという神の目的と計画、それを実現させるための方策が、イスラエルを中心に展開されていきます。
預言者たちは、神の子であるメシアの来臨(初臨と死、再臨と勝利)、世の終わりの裁き、永遠の神の国の到来について預言し、人類の通る戦いと、誤った道に進もうとする民に対する警告も語りました。
神の義と聖さ、人類の堕落と罪、信仰と恵みによる救い、神の選びの愛、契約、祭司、メシア、永遠の王、永遠の神の王国、永遠の滅びと永遠のいのち・・・それらはすでに旧約聖書で教えられています。
旧約聖書に記録されている人類の罪の歴史を知らなければ、私たちを永遠の御国に招くために、御子を十字架に付けてくださった神の愛の広さ・長さ・高さ・深さが実感できないかもしれません。また、私たちを死から復活させてくださる神の偉大な力と、クリスチャンが受け継ぐことになる永遠の祝福と栄光を悟れないかもしれません。
しかし、旧約聖書だけでは人類救済は未完成です。新約聖書は、贖いを実現した最も重要な出来事を記録し、最終的に救いが完成するまでの終末のプロセスを教えています。
福音書は、旧約聖書で預言されていたメシアが来られたこと、メシア自身によって神の国と神の御心が解き明かされたこと、メシアの十字架の死と復活によって贖罪が実現したことを教えて、この方を信じ、悔い改めて神に従うようにと迫ります。
使徒の働きは、真の神を知らない異教民族に福音が宣教され、キリスト信仰が広まっていく記録です。
書簡は、信仰者たちが異端や背教から守られ、成長して神の国を相続できるように、励まし、警告します。
黙示録は、終末時代の出来事、御国の王と御国の到来、復活と救いの完成、世の終わりの審判と永遠の滅び、最終的な悪魔の滅びについて明らかにしています。
新約聖書には旧約聖書から約1600カ所の引用、参照、間接的な言及があります。新約聖書を理解するためには旧約聖書の知識が必要で、特に、黙示録は旧約預言を知らなければ正しく解釈することができません。旧約聖書と新約聖書が全巻揃って一つの書物なのです。
3.キリスト信仰の土台は旧約聖書
クリスチャンは旧約聖書を新約聖書ほど重視しませんが、初代教会時代にはまだ新約聖書は存在せず、「聖書」とは旧約聖書を指していました。
・主の弟子たちは旧約聖書を根拠に、イエスがメシアであると宣教しました。主の生涯は旧約聖書の預言と一致し、福音と主の教えも旧約聖書から確認されました。預言を信じ、救い主を待ち望んでいたユダヤの人々は、主イエスの公生涯を旧約預言と照らし合わせ、聖霊の啓示を受けて、イエスはメシアであると信じることができました。
・アポロは聖霊のバプテスマを受けていませんでしたが、(旧約)聖書に通じ、主の道の教えを受け、霊に燃えて、イエスのことを正確に語り、教え・・・(旧約)聖書によって、イエスがキリストであると証明して、力強く、公然とユダヤ人たちを論破しました(使徒18:24~28)。
・ピリポはエチオピヤ人の宦官に、イザヤ書から始め、旧約聖書からイエス様を伝え、イエスに対する信仰と受洗に導きました(使徒8:28~35)。
・初期キリスト教は、旧約聖書の教えと、イエス様ご自身の教え・戒め・命令に従う宗教でした。主の弟子たち全員が旧約聖書を信仰のよりどころとしていました。皆、メシアについての旧約預言を知っており、イエス様の教えと、主の死と復活について、旧約聖書に基づいて証言し、主の再臨と神の国到来を待ち望みました。
初代教会は御言葉によって養われ、信仰共同体として祈りと生活を共にし、御霊に導かれ、一致して前進しました。そこには、異なる聖書解釈も、独自の教理と制度を持つ教団・教派も存在しなかったのです。
・パウロは、律法を最も厳格に守るパリサイ派の教えに従って生活してきました。彼は当初、主の弟子たちを異端として迫害しましたが、天からの光に照らされた後、蓄えてきた旧約聖書の御言葉に啓示が与えられ、メシア預言はすべてイエスを指し示していたと理解しました。
パウロはキリスト教の始祖のように言われることがありますが、イエスを信じた後、ユダヤ教をやめてキリスト教という新しい宗教を作ったわけではありません。パリサイ派に欠けていた真の知識――メシアはナザレのイエスである――を得て、この方を信じる信仰を実践し、宣教したのです。
パウロが「聖書」と言う時、それは旧約聖書を指していました。
Ⅱテモテ3:14~17
あなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。
クリスチャンの成長にとって新約聖書だけで十分というわけにはいきません。新約聖書は旧約聖書の知識があるという前提で書かれています。聖書の神は「語られる神」、イエス様は「受肉したみことば」です。旧約聖書で「わたし」として語られた方が、人となって教え、語られたのです。私たちは旧約聖書に敬意を払い、もっと真剣に学ぶ必要があります。
4.聖書的宗教とは生きるための「道」を選ぶこと
キリスト教の信仰は他の宗教の信仰とどのように異なるのでしょうか?
英語で「宗教」 を表す「religion」はラテン語の「縛る」という言葉から生じ、「誓約、儀式、責務、制度、礼拝や行いに関する体系的信条」などを持つとされています。宗教は人間の作り上げたシステムであり、特定の宗教を信じる人は、その集団の教義や決まり事などを守ります。辞書では「神または何らかの超越的絶対者、神聖なものに対する信仰、行事、その関連的体系」と定義されていて、「帰依者は精神的共同体(教団)を営み、多くは何らかの形で教祖、経典、教義、典礼を持つ」と説明されています。
聖書的な宗教とは、教義や儀式や制度や思想の体系のことではなく、人が神の御言葉に従い、神と共に生きる「現実的、実践的、行動的な生き方」のことです。
聖書では信仰の歩みは「道」と呼ばれます。「道」は生き方、歩む方向を表しています。へブル的には、宗教とは「生きるための道を選ぶこと」です。そして、「選んだ道を歩む」ために「信仰」が必要なのです。
詩編にはたくさんの「道」が記されています。
罪人の道(1:1)、正しい者の道と悪者の道(1:6)、いのちの道(16:11)、無法者の道(17:4)、義の道(23:3)
詩編119篇
幸いなことよ。全き道を行く人々、主の御教えによって歩む人々。・・・主の道を歩む。…わたしの道を堅くして下さい。・・・自分の道を清く保てる・・・あなたのさとしの道・・・あなたの戒めの道・・・偽りの道を憎み・・・真実の道・・・あなたの仰せの道・・・。みことばは私の道の光です。
箴言2:6~15によると、主を恐れ、神の知恵と知識と英知を与えられた正しい者には、公義の小道、聖徒たちの道、まっすぐな道があり、反対に、悪を行う者の歩む道は、やみの道、曲がりくねった悪の道です。
エレミヤによると、幸いの道(6:16)や、いのちの道と死の道(21:8)があります。
イザヤによると、「義人の道は平ら(26:7)」で、神は「これが道だ。これに歩め(30:21)」と示されます。「主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう(2:3)。」
一方、「自分たちの道を曲げる者(イザヤ3:21)」がいます。 また、「羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かって行った(53:6)」者たちもいました。神は、そのような人々のことを「彼らはわたしの道を知らない。だから、わたしの安息に入らせない(詩編95:10~11)」と言われました。どの道を歩むか、道の選択が重要です。
私たちの信仰生活は永遠の神の御国を目指す旅のようなものです。神と親しく交わり、神の御心に従って人生の旅路を歩まなければなりません。
箴言3:6
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。ヨシュア22:5
主のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。
神のみことばに聞き従う道が、神に喜ばれ、祝福される、救いに至る道です。
申命記11:22 あなたがたの神、主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、
箴言15:24 悟りのある者はいのちの道を登って行く。これは下にあるよみを離れるためだ。
エレミヤ32:39 わたしは、彼らと彼らの後の子孫の幸せのために、わたしをいつも恐れるよう、彼らに一つの心と一つの道を与え、わたしが彼らから離れず、彼らを幸せにするために、彼らと永遠の契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないように、わたしへの恐れを彼らの心に与える。
そして、真の道はイエス様(生ける神のみことば)ご自身です。
ヨハネ14:6
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
ナザレのイエスをメシアと信じた初代教会の弟子たちは、「この道の者」と呼ばれていました(使徒25:19)。「イエス様だけが救いといのちへの道である」と信じ、従う者です。良い教えを説く宗教はたくさんあり、神々も教祖も多々ありますが、真のいのちを与える方はイエス様だけです。
マタイ7:13~14
狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
クリスチャンを定義するなら、「キリストの歩まれた道を歩む者」となるでしょう。
5.聖書的「礼拝」とは
ヘブル的な礼拝とは、「生活のあらゆる領域で神をあがめ、神の栄光を現わすこと」です。賛美・祈り・メッセージ・献金で成り立つ集会が礼拝というのではなく、生活のあらゆる営みの中に礼拝があります。
① 自分のからだを通して神の栄光を現わす
労働は神に仕え、神をあがめる礼拝の一つと考えられています。神は人に「造られた全てのものを支配する」、つまり「被造世界を正しく治める」という使命を下さいました。その神のご命令に従い、人間生活と社会の全範囲において、御心に適う良い働きをすることは、神をあがめていることになります。
人を愛して助け、祝福する働き、正義を行って社会秩序を保ち、平和でより良い世界に変えていく働き、無報酬のボランティア活動や教会奉仕、家事・育児・介護。神のかたちに造られた人は、神に喜ばれる良い働きをすることで、神に仕え、神を礼拝しているのです。
Ⅰコリント6:19~20、10:31
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。・・・あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。
からだは人の全存在を表します。贖われた神の民は、神の御心に適う良い働きを通して、神の栄光を現すべきです。被災地支援や復興支援、施設・病院・刑務所訪問、ホームレス支援、環境美化や自然保護も、自分のからだをもって神の栄光を現すことです。キリスト者が、自分の存在と働きを通してキリストの香りを放ち、神の愛と恵みを流し、その結果、神に感謝が捧げられる時、自分のからだをもって神の栄光を現わしているのです。
マタイ 5:16
あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。エペソ2:10
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。ローマ6:12~13
あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
イスラエル兵が自国と自国民を守るためにハマスやヒズボラと戦う時、自分の手足を義の器として神にささげています。自分の命を失うことになるかもしれませんが、神をあがめ、神の栄光を現わしているのです。
キリスト者は新しいいのちに生かされている者として、死ぬべきからだにあっても自分自身を義の器として神にささげ、神の栄光を現わしましょう。私たちはやがて、永遠の御国において栄光のからだをもって永遠に神に仕えることになるのです。
② 霊的な礼拝とは
ローマ12:1
私は、神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。
「ふさわしい礼拝」は別訳では霊的な礼拝となっています。からだを神に献げることが「霊的な礼拝」になるとはどういう意味でしょうか?
「霊」は良いもので「肉体・物質」は悪いものであると考えるギリシャ的二元論では、世と隔離して神秘的な生活を追求し、禁欲的に生きることが「霊的」であると考えるかもしれません。ギリシャ哲学では、人とは霊魂であり、不滅の霊魂は肉体の死によって解放され、本来いるべき霊の世界へ帰還して、永遠に生きることができると考えます。それなら、肉体の欲求は無視して、霊的体験を追求することが神に喜ばれると考えるかもしれません。
聖書的に「霊的である」とは、「人間らしくある」ことです。からだを持ち、神のいのちに満ちて生き生きと活動している状態が「霊的」状態です。
神は初めに、ちりでからだを造り、鼻からいのちの息(神の霊)を吹き込みました。すると人は生きるもの(原語では「生きたたましい」)となりました。人は、からだに霊が入っている時に生きて活動し、霊が出ると死んでちりに帰ります。からだを持って生きている状態が「たましいが生きている」状態、死体は「たましいが死んでいる」状態です。
聖書では、からだを失った後も魂が霊の世界で生きるとは教えていません。死者の霊魂が天上で神を礼拝することもありません。生きている人は神を礼拝しますが、死者は神をほめたたえず、神との関係を持つことができません(イザヤ38:18、詩編6:5、115:17)。へブル的人間理解とヘレニズム的人間理解は全く異なっているのです(参照:「死者の状態、たましいの救いとは」)。
与えられた人生を喜んで生き生きと生き、被造物として神の栄光を現わすことは、からだを聖なる生きたささげ物として捧げる「霊的な礼拝」と言えます。いのちを尊び、人生を豊かに体験し、いたるところに神を感じ取り、創造主の御業を認める時、そして日常生活の中で神の存在と力を体験し、神の素晴らしさを喜び、ほめたたえ、感謝する時、人は被造物として神に「霊的な礼拝」を捧げているのです。
③ 聖書の学びと実践
正統派ユダヤ教徒たちは、聖書の学びは「最高の礼拝」であると考えます。聖書通読、精読、注解書や聖書辞典を使って御言葉を深く学ぶこと、黙想すること、暗唱すること。神の教えに耳を傾けることは、神との親密な交わりであり、御言葉の神に敬意を表すことです。
イエス様は「人となって来られた生ける神のことば」です。主ご自身が、「初めからあったことば。神とともにおられ、すべてのものを造り、いのちを与えた神(ヨハネ1:1~4)」です。ですから、聖書を読み、御言葉を思い巡らすことは、イエス様を親しく知ることになります。主は、「わたしを愛す者はわたしのことばに従います」と言われました。御言葉を愛し、日常生活において御言葉を実行することは、主を愛し、主に聞き従うことです。
申命記10:12~13
イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただあなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたの幸せのために私が今日あなたに命じる、主の命令と掟を守ることである。
御言葉を学び、実践すること、神の御教えに従って生きることは、神に喜ばれる礼拝と言えます。
そして、聖書的信仰とは学んだことを実践することです。
Ⅰヨハネ3:11、18~19
互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。・・・ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属する者であることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。ヤコブ 1:21~22,25~26
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。・・・完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。
聖書的信仰とは精神的、思想的なものではなく、日常生活の一瞬一瞬において、学んだ知識(神の御教え)を実践することです。人を赦し、敵をも愛し、助ける。罪を認めて謝罪し、悔い改める。神の御心は何であるか、何が良いことか、喜ばれることかを判断し、実践する。聖書信仰は、口先だけのきれいごとの信仰ではありません。不利になっても正義を貫く、説得力のある真実な生き方です。
6.まとめ:聖書信仰の本質は神との「関係」
・聖書はへブル的書物であり、クリスチャン信仰のルーツもへブル的。
・キリスト信仰の土台は旧約聖書。新約聖書は旧約聖書の土台の上でへブル的視点で読む必要がある。
・へブル的宗教とは生きる道を選ぶこと、信仰生活とは、神のみことばに従い、神と共に現実的に行動的にその道を歩み続けること。聖書信仰とはみことばを実践すること。
・へブル的に「霊的である」とは、「人間らしくある」こと。神のいのちに満ちて生き生きと活動している状態。
・礼拝とは自分のからだを義の器として神に献げ、神の栄光を現わすこと。労働も聖書の学びも、神をあがめる礼拝。
ミカ6:8
主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。
神と共に歩む信仰生活とは、創造主を全人格的な愛で愛し、御言葉に応答し、遜って聞き従うことです。
・神の教えに基づいて人に仕え、人との関係を通して神のわざを行う。
・罪深い世界で世の光となり、神の栄光を表し、人々と世界を祝福する。
聖書の神は語りかける神です。神と私たちとの人格的関係は、御言葉によって日々新しくされます。神を畏れ、生ける神と共に歩み、今なすべき正しいこと、善いこと、御心を行っていきましょう。

コメント