すべての生き物を造り、いのちを与えることができる存在、それが神です。神には死がありません。
人は不滅の神の霊を吹き込まれ、本来、神とともに永遠に生きることのできる存在でしたが、最初の人アダムが罪を犯したため、地に住む全ての人間は死ぬべき存在となってしまいました。
人類にとって最大の敵である死を滅ぼし、真のいのちを与え、神と人が共に住む永遠の神の国を実現してくださる方、それが聖書の語る救い主です。
主イエスはすでに十字架で死に勝利し、復活され、永遠に生きておられます。私たち信じる者を不滅の栄光のからだに復活させると約束してくださり、主と共に住むことのできる新しいエルサレムをすでに備えておられます。
私たちは、今この朽ちるからだで忍耐しながら信仰人生を歩み、主の再臨を待ち望んでいます。
この記事では、全ての人が呪いのために受けなければならなくなった死とはどのようものか、また死後、人のたましいとはどうなるのか、たましいの救いとは何かについて考えます。
1.「死」は忌むべきもの
律法では、死体に触れる者は汚れると教えられています。死者はすぐに町の外に運び出し、一刻も早く埋葬しなければなりません。死体を運んだ人々も夕方まで汚れ、清められてからでなければ町に入ることはできません。
初代教会の時代に、アナニヤという人が聖霊を欺いた罪を指摘され、神に打たれて即死しました。人々は彼の妻にも知らせずに、すぐ遺体を運び出して埋葬しました。夫の死を知らなかった妻のサッピラが3時間後にやって来て、同じ罪を指摘されて死に、彼女も速やかに埋葬されました(使徒5章)。
これは罪による死が瞬時に実現した例ですが、そうでなくても、聖書は、全ての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない(ローマ3:23)と教えています。死はアダム以来、全ての人が罪のために受けるべき結末であり、忌むべきものとされてきました。
ヤコブ4:14
あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。
神の似姿に造られ、神との親しい関係に生き、神の造られた世界を治めるという使命を与えられた人間は、罪ゆえに滅びるはかない霧のようになってしまいました。
死は本来、人間に起こってはいけない事態なのです。
2.罪ゆえに死んで朽ち果てる
死とは何でしょうか? 死者はどこに、どのような状態で存在しているのでしょうか。
死者にいのちはあるのでしょうか?
パウロは、神から特別な約束を受けたイスラエルの偉大な王、ダビデについて、こう言いました。
使徒13:36
ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。
朽ち果てるとは、ちりに帰ることです。
ペテロは、五旬節の日、聖霊によってこう語りました。
使徒2:29~34
「父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。
彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。・・・ダビデは天に上ったわけではありません。」
ダビデは死んでちりに返りました。天にいるわけではありません。人間はまだ誰も復活しておらず、天に上った人は一人もいません。罪の無い神の御子キリストだけが「よみ」から復活され、神のおられる天に上られました。
ダビデは罪を犯して神の前に赦しを求めて祈った時、自分自身についてこのように言いました。「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました(詩編51:5)。」
アダムの子孫として生まれた全ての人は、罪人として生まれた罪ある存在です。ダビデのように神に愛されている人であっても、罪ある人間は必ず死に、朽ち果てます。
死とは、いのちの息が人から抜け出し、からだがちりに帰ることです。
死は罪の結果ですから、死者は神を喜ばせることができません。
死者にはいのちがないので、神の住まいである天に迎えられることはありません。
3.死者はよみで復活を待っている
死後天国に行かないなら、死者はどこでどのように過ごしているのでしょうか?
伝道者9:5~10
生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる。彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消えうせ、日の下で行われるすべての事において、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。
・・・日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。
あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。
伝道者は、死者はよみに行くと教えています。
よみ(黄泉、冥府、ヘブライ語のシェオル、ギリシャ語のハデス)という言葉は、聖書の中で70か所以上使われており、「すべての死者が行くところ」を表します。聖書はよみが物理的にどんな場所であるか記していませんが、義人も罪人も、善人も悪人も、信者も不信者も、すべての死者はよみに行きます。ギリシャ語では、「よみに下る」は「墓に入る」とほぼ同じ意味だそうです。
一般的に、死者の魂は身体から抜け出し、生きていた時と同じようにどこかで意識を持って活動していると考えられていますが、上記の伝道者の御言葉によると、よみにいる死者は記憶や知性や感情を持たず、活動することもありません。
イザヤ38:18,19
よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。詩篇6:5
死にあっては、あなたを覚えることはありません。よみにあっては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。詩篇30:9
私が墓に下っても、私の血に何の益があるのでしょうか。ちりが、あなたを、ほめたたえるでしょうか。あなたのまことを、告げるでしょうか。詩115:17
死人は主をほめたたえることがない。沈黙へ下る者もそうだ。
これらの御言葉の「穴に下る、よみに下る、墓に下る、沈黙へ下る」という表現は、すべて死を意味することばです。そして「ちり」は死んで朽ち果てた人を指しています。
よみは沈黙の場所であり、神を知っていた人々も、よみでは神を記憶しておらず、神をほめたたえることも、神のまことを告げることもないと書かれています。
聖書は、全ての人は死んでよみに下り、活動が停止していることを教えています。
4.義人のたましいは、よみから買い戻される
では、人は死んでしまったなら、からだもたましいも消滅し、無に帰してしまうのでしょうか?
聖書には、「よみに下る」という思想が繰り返されていると同時に、「神は義人のたましいをよみから救い出してくださる」という希望と確信も繰り返し語られています。
詩篇49:15
神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れて下さるからだ。詩編16:10
まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。使徒2:27
あなたは私のたましいをハデスに捨てておかず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。詩篇30:3
あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私が穴に下って行かないように、私を生かしておかれました。
旧約時代の信仰者たちは、「神が義人のたましいをよみに捨てたままにせず、穴に下って朽ち果てることがないように買い戻し、よみから引き上げてくださる」と確信していました。
けれども、たましいをよみから取り戻すためには身代金が必要であることも理解していました。
ヨブ33:18、24、28、30
神は人のたましいが、よみの穴に入らないようにし、そのいのちが槍で滅びないようにされる。・・・神は彼をあわれんで仰せられる。「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た。」・・・神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず、私のいのちは光を見る。・・・人のたましいをよみの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。
時至って、すべての人のいのちを贖うために身代金を支払ってくださったのは、イエス様でした。
マルコ10:45
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
イエス様は、私たちをよみから買い戻すために聖い血を流されて十字架で死なれ、身代金としてご自分の「いのち」を支払ってくださいました。
レビ17:11
肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。
罪人のいのちを贖うためには、罪の無い方の聖い血が流されなければならなかったのです。
キリストの犠牲の死を信じる者は、キリストの流された血の代価によってよみから贖い出され、死と滅びから救われます。
5.「たましい」の聖書的な意味
では、よみから救い出されるたましいとは、どのようなものなのでしょうか。
たましいと訳されている単語の原語は、ヘブライ語の「ネフェシュ」です。ギリシャ語では「プシュケ」、英語では「ソウル」と訳されています。
ネフェシュの意味は、一般的な「魂」の意味とはかなり異なっています。
① 息をする生きもの、肉なるもの
ネフェシュは「いのちの本質、息をすること」を表します。「肉体的に生きているもの、いのちあるもの、呼吸する生きもの」は全てネフェシュであり、人間だけでなく、すべての生き物にネフェシュが使われます。旧約聖書では130回以上「たましい」と訳されており、「霊、いのち、人」と訳されることもあります。創世記2章では「生きもの」と訳されています。
創世記2章7節
神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は生きものとなった。
ちりでできたからだに、いのちの息(神の霊)を吹き込むと、ネフェシュ(息をして肉体的に生きている、いのちある生きもの)となりました。反対に、死とは、ネフェシュ(息をする生きもの)からいのちの息が出て行き、からだがちりに返ることです。
ネフェシュは「呼吸する生きもの」という意味であり、からだと分離して活動する非物質的なものを指す言葉ではありません。肉なるもの、生き物の全存在を表す言葉です。
② からだと結びついた「たましい」
ネフェシュが「たましい」と訳されていても、心や人格や目に見えない精神的なものだけを表しているのではありません。「たましい」と訳されている時は、からだと結びついたたましいを表します。
ヨブが「神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず、私のいのちは光を見る(ヨブ記33:28)」と告白した時、たましいは肉体を持つ自分の全存在を意味していました。また、「私のたましいの苦悩の中から嘆きます(ヨブ記7:11)」「私のたましいの苦しみを語ろう(ヨブ記10:1)」と言った時、心の悩みや精神的な苦しみだけではなく、肉体の激しい苦痛も含め、生きている状態の全ての苦しみ、自分という存在が体験しているすべての苦しみについて語っていたのです。
ダビデが「私のたましいはただ、恐れおののいています。・・・私のたましいを助け出してください。・・・よみにあっては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう(詩編6:3~5)」と祈った時、たましいは精神的苦痛からの解放ではなく、ダビデの命を狙う敵からの救出、肉体的な死からの救出を求めていたのです。
そしてダビデは、「あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました(詩編116:8)」と感謝を捧げました。「たましいが死から救い出された」とは肉体的死を免れたことを表しています。
詩編103:1
わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
たましいが主をほめたたえるとは、知性と感情と意思だけでなく、声や身体も使い、生き方や生活を通して、自分の全存在をもって主をほめたたえることです。
ギリシャ語のプシュケ―がたましいと訳される時も肉体を含む全存在を表します
ヤコブ1:21
すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
「たましいの救い」とは、精神的な苦悩から解放されて心が楽になることを表しているわけではありません。みことばは、「からだを持ち、息をして生きている、いのちある生き物」を救うことができるのです。
このように、聖書的な「たましい」とは、知性や感情や意思といった内面的な機能や人格だけを指しているのではなく、からだと心を合わせた人の全存在を指しているのです。
③ からだと結びついた「いのち」
ネフェシュが「いのち」と訳される時は、からだと結びついたいのちを表します。
創世記9:4~5
しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
「肉のいのちは血の中にある(レビ17:10~14)」「血はいのちだから、肉と一緒に食べてはいけない(申命記12:22~24)」
ネフェシュは血と肉体を持つ存在としていのちと訳されています。
ギリシャ語のプシュケも、ネフェシュと同じようにいのちと訳されます。
マルコ10:45
人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
イエス様がいのちを与えたとは、肉体を十字架の死に引き渡されたことを表しています。
マタイ16:25~26
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。ヨハネ12:25
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。
迫害や拷問から自分のいのち(からだを含む全存在)を救おうとして、イエス様に対する信仰を捨てるなら、からだが復活して永遠のいのちを受け取ることも、御国を相続することもできないでしょう。信仰のためにいのち(からだを含む全存在)を失っても、イエス様が再臨されて御国が始まる時には、新しいからだが与えられ、いのちを取り戻すことができます。永遠のいのちは、不死のからだに復活した時に実現するのです。
このように、ヘブライ語のネフェシュもギリシャ語のプシュケも、たましいと訳されたり、いのち、生き物、人、心と訳されたりしますが、からだと結びついているのです。
聖書の「たましい」とは息をする生き物、いのちある存在を表します。からだと切り離されて単独で存在することはできません。
6.たましいの救いと滅び
一般的に、人は「霊と魂と身体」でできていると考えられています。そして目に見える身体と見えない霊魂とに分け、死とは身体から霊魂が分離することであり、霊魂は不滅であり、霊魂が行く霊的な世界が天国や地獄であると考えられています。これはギリシャ哲学から来ている教えです。
ギリシャ的な考え方では、身体は不自由な悪いものであり、魂は肉体の中に閉じ込められて病や怪我、飢えや寒暑に苦しみ、また身体が罪を犯します。ですから、魂は肉体から解放されて自由になり、本来いるべき場所に行き、あるべき姿で生きることが救いであると考えます。
けれどもこれまで見てきたように、聖書の教えるたましい(ネフェシュ・プシュケー)は、身体と分離して単独で活動するわけではありません。また、目に見えるからだに対して、目に見えない精神的な部分だけを指しているのでもありません。「からだを持って生きている、いのちのある存在」を指しているのです。
ですから、死後「魂が身体から分離して地獄や天国に行く」という教えは、聖書の教えではありません。
また聖書では、たましいが不滅であるとは教えられていません。
マタイ10:28
たましいもからだもともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
たましいとからだはともに滅ぼされると書かれています。からだは滅ぼされ、たましいだけ救われるということはありません。逆に、たましいは滅ぼされ、からだだけ救われるということもありません。たましいとからだはともに滅ぼされるか、ともに救われるかです。
溺れている人が助けを叫び求めるのは、たましいもからだも助けて欲しいからです。助かるとは両方とも助かること、助からないとは両方とも失うことを指しています。
そのように、聖書的な救いとは、たましいとからだがともに救われることを意味します。
黙示録20:4
私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。
これは、使徒ヨハネがパトモス島で見たメシア王国の幻です。ヨハネは、キリストが再臨され、殉教していた聖徒たちが復活して王となって支配している光景を見ました。
「たましいを見た」というのは私たち異邦人クリスチャンにはとても分かりにくい表現です。何か半透明な、人の形をしたものが漂っているのを想像するかもしれません。
たましいと訳されているプシュケ(ヘブライ語のネフェシュ)は、「息をして肉体的に生きている人」を意味していますから、「たましいを見た」というのは、首をはねられて死んだはずの人々のからだが生き返り、息をし、知性や意識や感情を持ち、王となって活動している姿を見たということでしょう。「たましいを見た」は「生きている人を見た」ということです。
読者がユダヤ人なら「首をはねられた人たちのネフェシュを見た」だけで理解できるかもしれませんが、ギリシャ的思想の人にはこれだけではわからないので、ヨハネは「彼らは生き返って」と説明を加えていると思われます。
聖書の救いとは「たましいもからだも救われる」こと、滅びとは「たましいもからだも滅びる」ことです。「身体を失った魂が別世界で存在し続ける」という教えは聖書の教えではありません。
7.イエス様の約束は死者をよみがえらせること
死は最も恐ろしい敵であり、誰も逃れることができません。神から与えられたいのちの息(霊)が出ていくと、すべての人が死に、からだは朽ち果てます。これは罪の結果です。
聖書の救いとは、身体を失った霊魂が目に見えない霊的な世界に行って永遠に生きることではありません。死んでちりに返った人がよみから戻って来て、たましい(息をする生きもの、からだを持って生きる人)として永遠に生きることなのです。
死と滅びからの救いは、新しい体が与えられる時に実現します。
ヨハネ5: 28~29
このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。
人は一度死ぬことと、死んだ後に裁きを受けることが定まっていますが、意識も記憶も持たない死者が裁きを受けるのではなく、よみがえって記憶を取り戻してから、行いに応じて裁かれ、永遠のいのちか永遠の滅びかが決定されるのです。
次回は、イエス様の約束とクリスチャンの希望である終わりの日の復活について詳しく学びます。
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