家を建てる者たちの見捨てた石

礼拝メッセージ
タプハのミュージアムのアーチ かしら石(礎の石)
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聖書箇所: ルカによる福音書20章9節~19節

20:9 また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。
 20:10 そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。
 20:11 そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。
 20:12 彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。
 20:13 ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』
 20:14 ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』
 20:15 そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。
 20:16 彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません」と言った。
 20:17 イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。
 20:18 この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」
 20:19 律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕らえようとしたが、やはり民衆を恐れた。

「家を建てる者たちの見捨てた石」。何やら価値のない石のようですが、イエス様は、これから起こること(十字架)を悪い農夫のたとえで話されたあと、この詩篇118編22節のこのことばでご自身を表現されました。世の罪を取り除く神の小羊としてこの世に来られたイエス様ですが、「家を建てる者たちの見捨てた石」だというのです。そして、この後には、「それが礎の石となった」と続いています。捨てられたものが礎、基になるとはどういうことでしょう。今日はこの御言葉の意味を探り、イエス様が語られたことの真意を分かち合いたいと思います。

1.伏線1 神の訪れの時

エルサレム目前 神の国がすぐに

イエス様の公生涯で最後の過ぎ越しの祭りが近づいてきました。ガリラヤからエリコの町まで来られ、ここからエルサレムまでは一気に登りになります。イエス様につき従ってきた民衆の意識が高まっているのが、19:11に出ています。

【ルカ19:11】・・・エルサレムへ近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現れるように思っていた”

それまで、数々の奇跡を見てきた人々は、イエス様が都エルサレムへ行ったら、神の力でローマ軍をやっつけ、国を再興してくれると期待していたのです。

いざ、エルサレムへ

そんな人々の期待をよそに、オリーブ山のふもとまで来ると、イエス様はろばの子に乗って山越えをします。勇ましい軍馬に乗った解放者の姿ではなく、ろばの子に乗った柔和なメシアの姿を取られました。これはゼカリヤ書の預言が成就するためでした。

【ゼカリヤ9:9】 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。

人々はろばに乗った王のために、自分の上着やヤシの葉を敷いて歓迎します。そして、いよいよオリーブ山を越え、下りにさしかかり、エルサレムの都が見えてくると、弟子たちの群れは、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、感極まって神を賛美します。

【ルカ19:38】 ・・・「祝福あれ。主の御名によって来られる方、王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」

この賛美は、詩篇からの引用で、ハレル詩篇の中のメシア賛歌と呼ばれる詩篇118:26-27で、メシアを迎える時に謳われる句です。人々は、イエス様をメシア、救い主として迎えたのです。

都に涙し、滅亡を預言

しかし、都が間近になった時、イエス様は都のために涙されました。
都を実質支配していたのは、イエス様をメシアと認めない大祭司カヤパや祭司長ら宗教指導者たちでした。彼らは霊的指導者の立場にありながら、神から離れ、神聖な神の宮を商売の場に変えていたのです。また、メシアであるイエス様を拒否した罪により、神に裁かれる都の姿をイエス様は予見されたのでした。その都に向かって、預言されました。

【ルカ9:42-44】 「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」

この預言は、この後約40年後に現実のものとなります。紀元70年のユダや戦争で、ローマ軍が都を完全に破壊し、住民の多くが虐殺されました。これ以降イスラエルの民は国を亡くし、世界中に離散することになります。

2度目の宮きよめ

宮に入られたイエス様は、そこにいた両替商や捧げものの動物を売っていた商売人たちを、力づくで追い出しました。大立ち回りです。

【ルカ19:46 「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」

このように、イエス様は、群衆からは、ローマの支配から解放してくれる“メシア”、“イスラエルの王”と期待されて都にやってきましたが、先ず行ったのが宮きよめでした。

2.伏線2 何の権威か

大祭司の権威

ルカ20:1-8を見ると、宮きよめをされた後、イエス様は民衆に御国の福音を教えておられましたが、そこに、それまで宮を実行支配していた祭司長や律法学者が、長老たちを引き連れてクレームにやってきます。イエス様が商売人たちを追い出したのは、異邦人の庭と呼ばれる、神殿の外庭で、時の大祭司カヤパの利権だったので、カヤパのバザールとも呼ばれているところでした。日本で言えば、浅草の仲見世と言ったところでしょうか。

 

(カヤパのバザールの復元図 エルサレムの城壁の中にて)

彼らにしてみれば、大祭司カヤパの許可なく、商売人を追い出し、民衆を教えるイエス様を無法者のように思ったのでしょう、「何の権威によって、これらのことをしているのか」と詰問しています。

それに対して、イエス様は、質問に対して質問で答えています。

【ルカ20:3-4】 「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」

ヨハネのバプテスマは天からか、人からか

これは、ラビ(先生)が生徒に対するやりかたで、祭司長らは面食らったかもしれません。しかも答えが難しい。天からと言えば、なぜ信じなかったのかと言われるし、人からと言えば、ヨハネを預言者と信じている民衆に殺されるかもしれない。そこで、「どこからか知りません。」と、答えることを避けています。

祭司長たちが答えなかったので、イエス様も「では、わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われました。
しかし、回りにいた民衆はヨハネの権威については、答えを知っていました。ルカ3章を見ると、悔い改めて神に立ち帰れとのヨハネのメッセージに呼応して、多くの民衆がヨハネから悔い改めのバプテスマを受けています。ヨハネが神から遣わされた預言者、神からの権威と思ったからです。

イエス様の権威とは

イエス様もヨハネと同じことばで宣教を始められました。

【マルコ1:15】 「時が満ち、神の国がは近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

そして、語るだけでなく、盲人や耳の不自由な人を癒し、死人を生き返らせるなど、数々の奇跡をなさいました。ヨハネは悔い改めのメッセージを語りましたが、奇跡の業は何一つ行いませんでした。イエス様はメッセージを語り、数々の奇跡の御業をなさいました。このイエス様のことを、ヨハネ自身がこう表現しています。

【ルカ3:16】 「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。」

つまり、バプテスマのヨハネは神からの預言者、イエス様はヨハネよりさらに偉大なお方であり、イエス様の権威は神からの権威であることがわかります。
心を頑なにしている祭司長たちは、このイエス様の権威を認めませんが、ヨハネを神からの預言者と信じている民衆は、イエス様の権威が神からきていることは察していたはずです。その民衆に対して、イエス様は続けて悪い農民のたとえを話されます。

3.悪い農夫のたとえ

ぶどう園の意味

イエス様はぶどうやぶどう園をよくたとえに出されます。それは、ぶどうが人々の身近にあり、最も重要な産物であったためでもありますが、なにより、旧約聖書で、イスラエルの民を象徴していたからです。

【イザヤ5:7】 まことに、万軍の【主】のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。

ぶどうがイスラエルの民であるなら、ぶどうの世話をし、管理する農夫というのは民の指導者ということになります。つまり、祭司長や律法学者ら宗教指導者たちをさしています。ということは、主人は神である【主】、しもべは預言者やバプテスマのヨハネ、息子はイエス様のことをさしていることがわかります。

しもべは袋叩きにされましたが、実際にヨハネは投獄され、殺害されました。また、農夫たちは農園を借りている小作なのに、主人の息子を殺して農園を奪おうとしますが、これはもう強盗です。このことは、直前にあった宮きよめのことを思い出させます。

【ルカ19:45-46】 宮に入られたイエスは、商売人たちを追い出し始め、こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」

そして、農夫たちは息子をぶどう園の外に追い出して、殺しますが、イエス様もエルサレムの城壁の外にあるゴルゴタの丘で十字架につけられました。

たとえの意図

このたとえ話は、直前にイエス様の権威について祭司長らが問いただしたことと関係しています。イエス様が宮きよめをし、民に福音を教えたのは、神の権威によって行っているのに、祭司長や律法学者らはそれを理解せず、あろうことか、その神の権威を持つイエス様を殺そうとしている。単なる殺害予告ではありません。神への反逆です。なんとも恐れ多いことですが、このたとえはそのことを言わんとしているのです。

イエス様はこのたとえを、民衆に向けて語られましたが、同時に、そこに居合わせた祭司長、律法学者、長老たちにも聞かせることを意図されました。そのとおりに、律法学者らは、このたとえが自分たちをさして語られたと気づきました。

「ひとの子は、祭司長、律法学者らに引き渡され、殺されます」と、イエス様は、何度も弟子たちに語られましたが、今は、その当事者らに語られたことになります。

このたとえの余韻が冷め止まない中で、イエス様は彼ら、つまり民衆と祭司長や律法学者らの双方を見つめて言われました。

【ルカ20:17】 イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。

4.礎の石

礎の石は『家を建てる者たちの見捨てた石』

『家を建てる者たちの見捨てた石』とは、ずばり、祭司長や律法学者ら宗教指導者に拒否されたイエス様のことです。イエス様は、民が長らく待ち望んでいた救い主メシアである方なのに、民の指導者はイエス様を認めず、拒否しました。民の指導者が拒否したということは、民の代表、公の権威が拒否したということになります。

【ヨハネ1:11】 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

イザヤ書には、受難のメシアは人々からさげすまれ、のけ者にされた後、人々の身代わりに殺されると預言されています。(イザヤ53章)

さらに、見捨てられるのはご自分の民からだけはありません。

【マタイ27:46】 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

イエス様は、民から見捨てられただけでなく、十字架上で、世の初めからいつも共におられた父なる神様からも見捨てられるという壮絶な苦難を通られました。『家を建てる者たちの見捨てた石』とは、人からも、神からも見捨てられた石なのです。その石が礎の石となるのです。

メシアの象徴

この礎の石について、神様はイザヤを通してこのように語られました。

【イザヤ28:16】 神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。

礎の石は、シオン(=エルサレム)に据えられます。これは試み(=十字架)を経た石であり、堅く据えられた礎の石(=救い主)であり、尊いかしら石(王の王)でもあります。信じる者はあわてることがありません(裁かれません)。
礎の石はメシア、救い主の象徴なのです。

礎の石とは要(かなめ)石

礎(いしずえ)の石と訳されている言葉は、礎石であり、また、かしら石でもあり、建物の要(かなめ)となる石(要石)のことです。
礎石は、建物の4隅に基礎として最初に据える石であり、この石が建物の土台を含めて建物全体を支えることになります。コーナーストーンと言われます。
かしら石は、建物やアーチの最後に乗せる石のことです。建物の最後を飾る石であり、アーチでは、この石が最後に入ることでアーチが完成し全体の強度が保たれます。このかしら石を取り除くとアーチは崩れます。キーストーンと言われます。
要(かなめ)石にはこの二つの意味があるのです。最初であり、最後である石のことです。イエス様はご自身のことを「最初であり、最後である」と言われました。

【黙示録22:13】 「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」

礎の石とは神であるイエス様の象徴なのです。

礎の石はキリスト

使徒の働きを見ると、この礎の石はイエス・キリストであると、ペテロがはっきり宣べています。宗教指導者たちに向かって、生まれつき足の萎えた人を癒した奇跡はイエスの御名の権威である、と証しした際に、断言しています。

【使徒の働き4:10-11】 「・・・この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。」

再臨の前に受難 

この御言葉「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった」は、詩篇118:22からの引用です。実は、この受難の御言葉の後、詩篇118:26には、メシア賛歌が続くのです。イエス様がエルサレムに入城される直前、人々は王を迎える賛歌を叫んで、イエス様をお迎えしましたが、その時の賛歌がこのメシア賛歌です。「祝福あれ。主の御名によって来られる方、王に」と。

つまり、メシアは、栄光の王として来られるが、その前に受難があるということなのです。本来は栄光の王である方が、受難のしもべとなって来られるということを表しています。

粉々にする石

しかし、イエス様を信じない者には、この礎の石が裁きの石になると20:18に書かれています。

【ルカ20:18】 この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」

「この石の上に落ちれば粉々に砕ける」とは、キリストにつまづく者のことを表しています。イザヤ8:14にあるように、イエス様を信じない者には、礎の石が「妨げの石、つまづきの岩」となって、これにつまづき、倒れ、砕かれるのです。救いに与れず、永遠に滅ぼされることになります。

また、「この石が人の上に落ちる」とは、かしら石が上から人の上に落ちてくることを表しています。これは天の御座から来られる再臨の主による裁きを表しています。主の再臨の時には、イエス様をメシアと信じない全ての者が御前に集められ、裁きを受けることになります。

結び 信仰の礎

今日はルカの福音書20章から、イエス様が「家を建てる者たちの見捨てた石」であることを見てきました。イエス様は、バプテスマのヨハネよりはるかに偉大な、神の権威を持った方であり、王なるメシアであるのに、ご自分の民には受け入れられず、宗教指導者らに殺される受難のしもべとしてこの世に来られました。それは、十字架にかかって、私たちの罪を贖うためでありました。私たちはこのイエス様をメシアとして信じる信仰によって救われたのです。「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。」のです。

【エペソ2:20】 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

使徒たちをはじめ、これまで多くの信仰者たちが迫害に遭ってきましたが、彼らの信仰は揺るぎませんでした。使徒のほとんどが殉教しました。命をかけて福音を宣べ伝え、殺されても信仰を捨てませんでした。なぜか。彼らは十字架にかかった主イエスを見ただけでなく、その後、復活した主イエスに実際にお会いし、聖書(預言者)に書かれていること(十字架と復活)がすべて本当であった、真理であったと理解したからです。救い主イエス様を信じる者は、罪赦されて救われており、たとえ殺されても、復活した主イエスに続いて、主の日に復活するという真理を確信したからです。

私たちの信仰も、使徒たちが述べ伝え、聖書に預言されていた救い主イエス様という堅い礎の石の上に建てられています。

イエス様は、十字架によって罪を贖い、復活によって救いの道を開かれました。イエス様は信仰の創始者、礎石です。そして、今度は裁き主にとして再臨されます。その時には、信じない者は裁かれ、信じる者は御国に入り救いが完成します。イエス様は信仰の完成者、かしら石です。

この礎はゆるがされることはありません。

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