マルタとマリアとラザロは、べタニアでのイエス様の伝道活動のために用いられた兄弟姉妹です。主は彼らを愛し、それぞれにご計画をお持ちで、使命を備えておられました。そして彼らはそれぞれの立場で主に仕え、彼らを通して多くの村人がイエス様をキリストと信じ、証しする者へと変えられていきました。
この記事では、ルカの福音書10章、ヨハネの福音書11章と12章に記された3つの場面から、奉仕者マルタの真の信仰と奉仕について、マリアの信仰成長と特別な使命について、そしてラザロの死とよみがえりを通して表された神のご計画について考えます。
1.イエス様の宣教活動を支える奉仕者マルタ
イスラエルでは、旅人に食事や宿を提供したり、貧しい人々に施しをしたりすることは、お金持ちの社会的な責務とされていました。ベタニア宣教に来られたイエス様をマルタが自宅に招いたので、主の話を聞きに大勢の村人が集まって来ました。
主に仕え、人々に仕えるマルタ
ルカ10:38~42
さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
マルタはイエス様と弟子たちをもてなし、大勢の村人たちを家に受け入れて、足を洗う水を用意し、食事を提供し、さらにイエス様一行の宿泊に備え、忙しく立ち働いていました。イエス様が人々に聖書の御言葉を教え、神の御計画とキリストについて教えておられる時、マルタは裏方として仕えていたのです。現代のキリスト教会の働きにたとえるなら、彼女は伝道集会の会場と資金(食事)と講師一行の宿泊場所を提供し、集会会場での奉仕(受付、案内、接待)も引き受けていたことになります。
つまりマルタは主の伝道と教育の働きを背後で支える奉仕者だったのです。
奉仕者の陥りやすい失敗
マルタには妹のマリアと、兄弟のラザロがいました。3人の年齢や両親のことは聖書に記されていないので、マルタに夫がいたのか、どんな家庭事情であったのかはわかりません。
料理、来客のもてなし、イエス様一行が宿泊される部屋の準備。マルタはいろいろと心を配り、動き回っていました。近所の主婦か使用人か、手伝いの人がいたかもしれませんが、いくつもの仕事を同時進行していたので、なすべきことが多すぎて、マルタの頭は混乱していたでしょう。マリアはどこにいるのかと捜すと、まるでお客様のように座って、しかもイエス様の足元で話を聞いているではありませんか!
マルタはイエス様のところに行き、マリアに自分の手伝いをさせてくれるように訴えます。マルタはイライラして刺々しく語り、主を非難するような態度を取ったのでしょう。主はマルタの心の状態を見抜き、指摘されました。「あなたは熱心に忙しく奉仕するあまり、思い煩って心を乱している。」
主はマルタの善意と熱意と誠実さをよくご存じで、マルタの奉仕を認め、感謝し、喜んでおられました。ただ、マルタは奉仕者の陥りやすい落とし穴に落ち込んでいたのです。
主は、マルタのしていることは人々にとって必要な良い働きではあるが、マルタは忙しさのあまり心に余裕がなくなり、落ち着かず、思い煩い、心を乱していること、そしてマリアを責め、その怒りを主に向けていることを示されたのです。
奉仕者が心を荒立てたら、善い奉仕はできません。おそらくマルタは、主に指摘されて自分の心の状態に気付いたことでしょう。
神はそれぞれに異なるご計画を持っておられる
主はマルタの要求に対しては、このように答えられました。
「必要なことは一つだけで、マリアは良い方を選んだのだから、それを取り上げてはいけない。」
イエス様はマルタとマリアを比較し、主の話を聞いているマリアの方が、奉仕するマルタよりも良いことをしていると言われたのではありません。
・主の傍に留まって話を聞き、祈り、賛美することが霊的な価値ある働きで、家事や人々に仕えることは世的で価値が低い働きだということではありません。
・また、人々のために忙しく奉仕するクリスチャンより、主だけを見つめ、主とだけ時間を過ごすクリスチャンの方が優れているということでもありません。
主は一人一人の奉仕を覚え、喜んでおられるのです。
イエス様は、その時のマリアにとっては、マルタを手伝って忙しく料理や接待をすることより、主のお話を熱心に聞くことが必要で、良いことであると言われたのです。
主は一人一人の霊的・精神的状態をご存じで、その人にとって何が必要か、何が良いことかを知っておられます。その時のマリアは、奉仕することより、主から聞いて学ぶ必要があったのです。なぜなら、マリアにはまだキリストについての十分な知識がなく、イエス様がキリストであるとの明確な信仰を持っていなかったからなのです。
聡明な奉仕者マルタ
マルタは姉ですから、妹に「忙しいことがわからないの? こっちに来て手伝いなさい」と言うこともできたのですが、そうせずにイエス様のところへ行きました。
もし一緒に奉仕しているメンバーが自己中心的な人で、協力的でなくて困っている時、まず主にその状況を伝え、その人にどう語ればよいか祈り求めます。そうするなら、心を整えて相手と穏やかに接し、愛をもって話し合うことができます。怒った状態でいきなり相手を非難するなら、喧嘩になったり傷つけあったりして、人間関係を壊してしまいます。
マルタは、妹に感情をぶつけて自分の思い通りに動かそうとしたのではなく、イエス様に自分の思いを伝えました。イエス様がどう判断されるのかを確認し、遜って主の指摘と答えを受け取り、イエス様のことばに従いました。
マルタは、主が自分の願い通りにしてくださらなくても、傷ついたり、マリアに嫉妬したりせず、自分の奉仕に戻ったことでしょう。マルタは主の願われるとおりに仕え、主に対する信仰は揺るがなかったことでしょう。
どうしてそう言えるのか、それはラザロが死んでしまった時、彼女がイエス様に対してどのように行動し、どのように語ったかを見ると分かります。
2.ラザロの死と復活:マルタの確かな信仰、マリアの信仰の目覚め
父なる神のご計画に従われたイエス様
しばらくして兄弟ラザロが病気になり、マルタとマリアは伝道旅行に出ておられたイエス様の所に使いを送ります。ところがイエス様はすぐにラザロを訪問しようとはなさらず、その地域にとどまっておられました。それは、「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものであり、それによって神の子が栄光を受けることになる(ヨハネ11:4)」からでした。言い換えると、「ラザロは死ぬが、死んだラザロを通して神の栄光が現され、神の子であるイエス様が栄光を受けることになる」という意味でした。
二日後、ラザロが死んだことを悟られたイエス様は、「さあ、ラザロの所へ行こう。あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいる(11:14)」と言われます。「ラザロは死んだ。彼が生きているうちに会いに行かなかったことは、弟子たちがわたしをキリストと信じるためにはかえって良いことだった」という意味です。弟子たちには、イエス様の言葉の意味が理解できなかったことでしょう。
主に喜ばれたマルタの信仰
イスラエルでは家族がなくなると一週間、喪に服します。その間、遺族は嘆き悲しみ、友人・親戚・近所の人々が入れ代わり立ち代わり弔問に訪れ、故人の話をして懐かしんだり、慰めたり、一緒に泣いたりします。また遺族のために食事を用意し、食べて元気を出すように励まします。マルタとマリアの家にも大勢の人々が来ていました。
ヨハネ11:20~22
マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。
マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」
イエス様に来ていただきたいと連絡したにもかかわらず、主は来られず、ラザロは死んでしまいました。そしてイエス様がベタニアに来られた時には、ラザロが墓に入れられてからすでに四日が経っていました。
主が来られたと聞いて、マルタはすぐに主を迎えに行きました。彼女は死んでしまったラザロのために泣き続けるのではなく、すぐに心を主に向けました。通常は弔問客が遺族を慰めるために訪問するのですから、遺族であるマルタがイエス様を迎えに行くとは考えられないことです。
マルタは主にお会いすると、主が来てくださっていたなら、ラザロは癒やされ、死なずにすんだだろうと言います。けれどもすぐに、「あなたが神様にお求めになることを、神様は何でもお与えになると、私は今でも知っています」と告白します。「知っている」は「信じている」よりも強い確信を表しています。マルタはすぐに来て下さらなかったイエス様を責めるのではなく、主に対する信仰を告白したのです。
ヨハネ11:23~27
イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」
イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」
イエス様はその時、ラザロをよみがえらせようとしておられました。そのことによって、ご自分が将来、義人をよみがえらせるキリストであると、人々に示そうとしておられたのです。
マルタは、「私は終わりの日にラザロがよみがえることを知っています」と信仰を語りました。彼女は、兄弟の死に絶望するのではなく、復活の希望を握りしめていました。
イエス様はマルタに質問しました。「わたしを信じる者は、死んでいても終わりの日に復活し、生き残っているなら不死の身体に変えられて永遠に生きることができると、あなたは信じますか?」
マルタは「はい。私はあなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」と答えました。
聖書の教えるクリスチャンの希望とは、キリスト来臨の日に復活し、永遠のいのちをいただいて神の国に入ることです。そして、義人を復活させてくださる方がキリストなのです。
マルタは、イエス様こそが約束されていたキリストであると確信していました。ラザロが死んでしばらくは悲しまなければなりませんが、終わりの日にイエス様がラザロを復活させてくださるので、家族が再開し、永遠の神の国で一緒に暮らすことができます。
マルタはイエス様の教えを十分に聞けたわけではありません。けれども彼女の信仰は本物であり、ラザロの死によってもイエス様に対する信仰は揺るぎませんでした。
失意・落胆の中で主をキリストであると告白し、主に希望を見出したマルタの信仰は、主を満足させるものでした。最悪の状況の中でただ一人主を見上げ、主から目を離さず、悲しみの中で永遠の希望を告白することのできたマルタは、真の礼拝者だったのです。
ラザロの死と復活が必要だった理由
マリアは家で座っていました。今更イエス様が来られても、もう手遅れ、ラザロは帰って来ない。マリアは悲しみに浸り、心はラザロのことで一杯で、イエス様の入る余地はなかったでしょう。
主に心を向けることができなかったマリアのために、主はマルタを遣わします。マルタはマリアを呼びに行き、主のもとに連れてきました。マリアを慰めていた人々もついて来ました。
マリアはイエス様を見るなり、「ここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったのに」と言い、泣き崩れました。彼女は目の前の悲しい現実に囚われ、イエス様を見失っていました。一緒に来た人々もマリアに同情して泣きました。
イエス様は霊に憤りを覚え、心を騒がせた(11:33)とあります。それは、マリアも、イエス様と食事しながら話を聞いていた村人も、主がどのような方であるか全く理解していなかったからです。
それどころか、ラザロが死んだことでイエス様を責めるような人もおり、主は再び心のうちに憤りを覚えながら墓に来られ、墓を開けるように言われました。
ヨハネ11:41~42
そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」
イエス様はマルタの家で、父なる神の御計画や、ご自分が神から遣わされたキリストであることを、人々に語られていたことでしょう。けれどもいくら話を聞いていても、彼らの霊的な目は開かれず、本当の信仰は育っていなかったのです。イエス様がキリストであると信じるために、彼らは奇跡を見る必要がありました。
そしてイエス様がラザロをよみがえらせてくださったので、それを見た多くの人々はこの方こそキリストであると信じることができたのです(11:45)。
ラザロは病気の苦しみと死の恐怖、主に対する失意の中で絶望的な最期を遂げましたが、そこには神の目的がありました。それは、死んだラザロがよみがえることで神の栄光が現われ、村人が主をキリストと信じるようになることでした。ラザロも神の良いご計画の中で用いられたのです。
3.神に召された奉仕者:主の足に香油を注いだマリア
変えられたベタニアの人々
死んで4日もたっていたラザロがよみがえったので、ベタニア村は喜びに包まれました。イエス様こそ聖書に預言されていた救い主、終わりの日に現れるキリストであると、多くの村人が信じたのです。次にイエス様が来られた時は、村をあげての歓迎会が開かれました。
ヨハネ12:1~2
さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。
最初に主がベタニアに来られた時、マルタは疲れ果てるほど働かなければならなかったのですが、今やベタニア村には主を信じるエクレシアがあり、主に仕える奉仕者たちがいました。マルタは給仕し、そこにはよみがえったラザロがいました。人々はラザロをよみがえらせたイエス様をキリストとして歓迎していました。
マリアが主に捧げた愛と香油
ヨハネ12:3~6
一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。
マリアは300デナリもする高価なナルドの香油を持参し、イエス様の足に塗りました。
300デナリは労働者の300日分の給料に相当する金額です。通常、両親が娘の結婚に備えてそのような高価な香油を買い与え、娘は自分の結婚する日のためにそれを大切にとっておきます。香油は壺に入っていて、一度壺を割ると、全部使い切ることになります。
マリアは惜しげもなく主の足に香油を塗り、自分の髪でぬぐいました。自分の一番大切なものを捧げたのです。もしマリアが独身であったなら、結婚を犠牲にしても良いと思うほどに主を愛していたことでしょう。香油の香りは主の足からマリアの髪に移り、そして部屋中に充満しました。
神の召しに応答したマリア
ヨハネ12:7
イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」
主は、マリアの香油はご自分の葬りの日のためであると言われました。全ての罪人の身代わりに、十字架で贖いをする日のために準備していたものであると。
マリアはラザロのよみがえりを通して、イエス様がキリストであると確信しました。そして主の足元で聞いていた話を思い出し、イエス様の死を理解したのかもしれません。あるいは、主に対する感謝が溢れ、喜びが沸き上がり、主に対する抑えきれない愛がそのような行動をマリアに取らせたのかもしれません。
マリアがどこまで理解していたかは分かりませんが、香油を注ぐことはマリアの思い付きではなく、神から与えられた強い願いであり、神からマリアに委ねられた特別な使命だったことでしょう。神の御計画は、香りの良い高価な香油を贖いの小羊であるイエス様に注ぐことだったのです。
預言されていた「しゅろの聖日」
翌朝、イエス様と弟子たちは、過ぎ越しの祭りに参加するため、エルサレムに向かって出発します。この祭りの時に主が十字架に付かれるのです。キリスト教ではこの日を「しゅろ(なつめ椰子)の聖日」と呼んでいます。
イエス様はベタニアからロバの子に乗って進んで行かれます(ルカ19章)。オリーブ山に登ると、ケデロンの谷の向こうに壮大なエルサレム神殿が見えます。ラザロの復活を目撃した人々は、喜びのあまりに大声で神を賛美し、叫び始めます。「ホサナ! 祝福あれ! 主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に!」祭りに来ていた群衆は、ラザロ復活の話を聞き、なつめ椰子の枝をもってイエス様を迎えました。
群衆が叫んだ言葉は、詩編118編からの引用です。
詩編118:19~29
義の門よ 私のために開け。私はそこから入り主に感謝しよう。
これこそ主の門。正しい者たちはここから入る。
私はあなたに感謝します。あなたが私に答え私の救いとなられたからです。
家を建てる者たちが捨てた石 それが要の石となった。
これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。
これは主が設けられた日。この日を楽しみ喜ぼう。
ああ主よ どうか救ってください。ああ主よ どうか栄えさせてください。
祝福あれ 主の御名によって来られる方に。私たちは主の家からあなたがたを祝福する。
主こそ神。主は私たちに光を与えられた。
枝をもって祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。
あなたは私の神。私はあなたに感謝します。あなたは私の神。私はあなたをあがめます。
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。
この詩は、「神である主(=キリスト)」を新しいエルサレム神殿に王として迎える喜びの日の歌です。「ダビデの子」として来られたキリストが全ての敵に勝利し、イスラエル民族を救い、エルサレムの門から入場されることを示す預言的な詩です。
その時、義とされた人々はなつめ椰子の枝をふって「主の御名によって来られる方」をお迎えします。彼らは「義の門」から新しいエルサレムに入ることが許され、とこしえの恵みを受け取ります。
つまりこの詩篇は、イエス様が再臨されて義人が復活し、永遠の神の国が始まることを預言しているのです。
「家を建てる者たちが捨てた石」は罪人として死なれたイエス様を表します。その方がキリスト、「神の国の王」であるとは、当時の人々には理解できないことでした。「救ってください」のヘブライ語は「ホサナ」です。イスラエルの人々は今でも、仮庵の祭りの時に詩編118編を読み、「ホサナ!ホサナ!」となつめ椰子の枝を振りながら、メシア来臨を待ち望みます。
イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入場された時に民衆がこの詩を引用したのは、イエス様が主の御名によって来られる方であると信じたからです。そして今こそ「神の国」が始まり、イエス様がエルサレムで王座に着かれて全世界を治めると期待したからなのです。
人の思いを超えた神のご計画
イエス様は、群衆からダビデの子(王・キリスト)と歓迎されてエルサレムに入場されました。
けれどもその日は仮庵の祭りではなく、過ぎ越しの祭りの前であり、イエス様の初臨の目的は、王として即位するためではなく、「贖いの小羊」として死なれることでした。創造主である神は、ご自分の造られた全人類の罪を贖うために来て下さったのです。「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た」のです(マタイ23:28)。
マリアの香油は、主の葬りのためでした。
翌日イエス様が王として歓迎され、エルサレムに入場されること、その数日後には宗教指導者たちからも民衆からも捨てられ、十字架で死なれること、そして三日目に復活されることをマリアが理解していたかどうかは判りません。彼女は自分の行為にどんな意味があるのか悟っていたわけではなく、神に動かされて、自分でも理解できずに主に香油を塗ったのかもしれません。そうであっても、マリアは神の御心を実行し、神の御計画の中で自分に与えられた使命を果たしたのです。
今度主が来られる時には、大患難を経て贖われ、復活し、栄化された義人たちが、世界中から新しいエルサレムに集められ、御座の前でなつめ椰子の枝を振ってイエス様をほめたたえます。
そして神と民がともに住み、御座におられる子羊が私たちを牧し、いのちの水の泉に導いてくださるのです(黙示録7:9~17)。
4.神の召しに応答する
神様は、主を愛し、主のために献身して仕える人々を求めておられます。
・ベタニアでのイエス様の伝道は、マルタの献身的な奉仕があって実現しました。
・ベタニアの村人たちは主の教えを聞き、ラザロのよみがえりを見て、主がキリストであると確信しました。そして主がロバの子に乗ってエルサレムに上られた時、エルサレムで祭りに集まった人々に、「イエス様はラザロをよみがえらせたキリストである」と証言しました。
・主がキリストであると悟ったマリアは、特別な召しに応答し、主の葬りのために自分の大切な香油を捧げました。マリアが明確な信仰を持つためには、主のそばで教えを聞き、ラザロの復活を見るという恵みが必要でした。そこには、一人で奉仕を担い、マリアの成長を見守ったマルタの愛と支えがあったのです。
・ラザロは病と死という人類が受けなければならない苦しみと呪いを通りましたが、やがて死に勝利して復活するという希望を自分の身をもって人々に示し、主こそキリストであると証明したのです。
教会(エクレシア)はキリストのからだであり、一人一人は互いにその器官です(ローマ12:4~5)。主に召し出されたクリスチャンは、主に仕えるためにそれぞれが賜物を受けており(Ⅰペテロ4:10)、私たちの中で働きをされる主に仕えています(Ⅰコリント12:5~6)。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります(エペソ4:16)。
こうしてキリストの教会のメンバーは、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長し(4:15)、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです(4:13)。
皆様のご奉仕が主に喜ばれ、用いられ、多くの実を結びますように!
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