「十字架によって旧約の律法は不要になった。今は恵みの時代、クリスチャンは聖霊によって心に記されたキリストの律法に従う。」このような教えを聞くことがあります。律法の役割は終わったのでしょうか? キリストの律法は旧約の律法とどのように違うのでしょうか? また、イエス様がパリサイ人や律法学者たちを非難されたのはなぜでしょうか?
この記事では、律法とは何のために与えられたのか、新約時代のクリスチャンは律法をどのように理解し、どのように従うべきかを考えます。
1.イスラエルに与えられた律法の目的と役割
律法(ヘブライ語のトーラー)の本質的意味は「神の教え・さとし・導き・道」で、一言でいうなら「神のみことば」です。一般的には「モーセ5書(創世紀、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)」や十戒を指します。広い意味では、旧約聖書全体をトーラーと呼び、イエス様を信じるユダヤ人たちは新約聖書もトーラーと考えます。
イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と言われました。トーラーは道、イエス様も道。イエス様ご自身が「生ける神のみことば(トーラー)」です。
律法が与えられたのは、神を証し、祝福の基となるため
トーラーは、イスラエル民族がエジプトの奴隷から救われ、神と契約関係に入り、国家としての歩みを始めるにあたって授与された「憲法」のようなものです。その目的として、2つのことが考えられます。
・ヤハゥエの民を聖別し、他の神々を信仰する異邦民族と区別する
トーラーは、聖別された民の生活を通して異邦民族に神を証し、真の神に対する信仰に導くために定められた規定や方法であると言えます。 真の神の民としての品性、清さ、正しさ、倫理観や道徳観の高さが、他民族への証となるのです。
・アブラハムへの約束を実現して、全世界を祝福する
律法は本来、アブラハムと彼の子孫たちに神の約束を実現させるために、イスラエル民族に与えられたものです。アブラハムに与えられた約束とは、
①あなたは多くの国民の父となる。
②あなたとあなたの子孫にカナン全土を永遠に与える。
それらの約束は一民族に対する限定的な約束では終わらず、イスラエルのメシアを通して諸国民にも拡大され、最終的に、神の民とされた諸民族が永遠の御国を相続することで成就します。
①異邦民族も、イスラエルのメシアを信じる信仰によってアブラハムの子孫とされ、神の家族となる。
②信仰のある諸国民もイスラエル民族と共に、カナンの地が象徴していた永遠の神の国を相続する。
この約束に与らせるために、罪を取り除き、神との関係を回復させてくださる方がイエス・キリストです。
トーラーはキリストに導く養育係
① トーラーは、メシアによる救い(信仰による義)が現れるまで、神の民を守り、メシアに導くための養育係(ガラテヤ3:24)です。神の支配と保護から抜け出し、偶像礼拝の民と同化してしまうことが無いように、神の民を聖別し、育成し、訓練するための基準です。
別の表現をするなら、目的地を目指して前進し、約束のものを勝ち取る時まで、罪を犯して神から離れたり、道に迷ったりすることがないように、民を取り囲み、守っている垣根のようなものです。律法に従う歩みは制約があって不自由なように思えますが、罪の誘惑とサタンの支配を退けるための防護柵なのです。
② トーラーは、すでに選ばれ、約束が与えられている神の民に、「ライフスタイル」「生活の基準」を教えます。恵みによって契約の民となり、神に従う人々が、約束のものを受ける時まで「生きるべき道」を教えます。
レビ記18:5
「あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行う人は、それによって生きる。」
・イスラエル民族は、初めにエジプトの支配かから無条件に(恵みによって)救い出され、約束の地を目指し、戦いを経てカナンの地を勝ち取りました。
・クリスチャンは、初めにイエスを信じてこの世の支配から救い出され、永遠の御国を目指し、信仰の戦いを勝ち抜いて永遠の神の国を相続します。
トーラーは、それを守るなら救われるのではなく、選ばれたからこそ、約束を受け取る時まで自発的に従うものです。
2 律法には神の愛と恵みが示されている
① 安息日・安息年・ヨベル・例祭
古代社会では365日が労働日であり、1週間のうちに定まった休日を持つ民族はありませんでした。律法には、創造主からご自分の民へ与えられた恵みとしての規則があります。
・安息日には国民が同じ日に一斉に休み、神を礼拝します。身体を休めて体力を取り戻し、家族で親密に過ごします。
・安息年とは7年ごとの休耕年です。6年間は畑を耕して収穫し、翌年分の食料を得ますが、7年目は種を蒔かないので、8年目の食物と種を得ることができません。そのために、神は6年目に2年分の収穫を備えて下さり、7年目の食料と8年目に蒔く種、そして8年目に新たに収穫するまでの食料を得るようにされました。
・ヨベル(50年目)は、負債が取り除かれる年です。借金のために売られていた土地は所有者に戻り、身売りをしていた人は奴隷から解放されます。
例祭には、罪を犯して滅びなければならない人類を救うための、神の計画が啓示されています。
・春の祭りは、神の子羊による贖いの完成(過越しの祭り)、新しいいのちの始まりと復活の約束(初穂の祭り)、聖霊の内住と神の民の誕生(七週の祭り)を啓示しています。
・秋の祭りは、世の終わりの裁きの警告(ラッパの祭り)、主の日(大贖罪日)、神の国の喜びと祝宴(仮庵の祭り)を啓示しています。
例祭を通して、人類の救い主と終末時代の出来事、そして神の国の到来が啓示され、人類に与えられる最終的な救いと祝福が約束されているのです。
② 律法の本質は愛の実践
ユダヤ教は律法主義で、律法は人を縛るものであると思われがちです。しかし律法は神の愛を表し、神の民がその愛を実践するように教え導きます。
・やもめ、孤児、在留異国人、弱き者たちへの配慮(出22:21~23)
・復讐するな、恨むな、隣人を愛しなさい(レビ19:18)
・敵に善を行いなさい(出23:4~5) など
十戒は全律法の柱で、神に対する愛(1~4)、親に対する愛(5)、他人に対する愛(6~10)を教えています。
イエス様は律法の教えを二つにまとめ、「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われました。律法を実行するとは、律法の命じるように神と隣人を愛することで、これが最も価値ある生き方です。
ヤコブ2:15~16
兄弟あるいは姉妹に着る物もなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。ガラテヤ5:13、14、16
兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。…私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。ローマ13:8
他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。
神は愛です。そして、いつまでも残る「信仰、希望、愛」のうち、最も優れているのは「愛」です(Ⅰコリント13:13)。
3.教会は律法を誤解している
律法に対する間違った抵抗感
「律法」という言葉に拒否感を感じるクリスチャンがいらっしゃるかもしれません。キリスト教会では、律法ではないのに、人の自由を奪って束縛することを「律法主義」と呼ぶことがあります。
・礼拝出席・奉仕・献金を怠ると、不信仰・不従順であると非難される。
・酒・タバコがやめられないと咎められ、娯楽・趣味・ライフスタイルに口出しされる。
しかし日曜礼拝は律法で定められておらず(安息日礼拝が律法の定め)、酒やたばこも律法で禁止されていないので、それらの強要や禁止は律法主義にはあたりません。
教会生活が苦しい、自由が奪われると感じるような事柄の多くは、人の考えた規則、人間の決め事に縛られているのであって、神の定めた律法とは無関係です。それなのに、奉仕に疲れ、日曜礼拝が喜びの日ではなくなり、時間と労働力と金銭を搾取されていると感じ、苦痛となるような時に、律法主義と非難したくなるのは何故でしょうか?
ルターの宗教改革は、ローマ・カトリックの作り上げた戒律(難行苦行など)や偽りの救済システム(免罪符など)に反対したのであって、聖書の律法を否定したわけではありません。ルターが万民祭司を唱え、信仰による救いを明らかにした時、彼は律法主義と戦ったわけでも、律法を守るなら救われるという教えと戦ったわけでもありません。彼は、カトリックの権威主義と人間が作り出した偽りの救済システムを糾弾したのです。
そもそも私たち異邦人は、クリスチャンになる前、イスラエルの律法とは無関係で、律法遵守に苦しむような状況にはいませんでした。「律法」という言葉さえ知らず、律法にどんな規則があるかも知らなかったでしょう。そしてクリスチャンになってからも、律法を詳細に教えられ、守るようにと強いられることはなかったでしょう。
パウロのように、非の打ちどころのないほどに律法を守ってきたユダヤ人、血を流すほどに罪と戦い、律法を守れない罪責感に苦しんできたユダヤ人なら、キリストによって解放された喜びに、叫び、踊ることでしょう。
しかし異邦人はその労苦を知らず、「ユダヤ人は未だに律法に縛られているが、クリスチャンは律法から解放されている!」と誇ったり、優越感に浸ったりする立場にはありません。
では、なぜクリスチャンは律法を疎ましがるのでしょうか?
それは、ユダヤ民族が熱心に律法を守っているからです。歴史の中で、ユダヤ民族は律法の民であるがゆえに憎まれ、迫害を受けてきました。異邦人教会は、律法を否定することで、ユダヤ民族と分離し、彼らが選民である事を否定したかったのではないでしょうか。
律法を実行するのは神のいのちに与るため
神との関係が回復した人は神の御心を実践します。
ルカ10:25~29
「先生。何をしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
「『あなたは心をつくし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。)』また、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
「いのち」とは「生き生きとした神のいのち」という意味で、「いのちを得る」とは、「神の似姿として生き生きと生きる」ことを意味します。
イエス様は「律法を守ったら救われて天国に行って永遠に生きることができる」と言われたのではありません。今の世でも永遠の御国でも、愛を実践するなら神の民として神のいのちに生きることができると言われたのです。良きサマリヤ人のように、今まさに自分を必要としている隣人に手をさしのべ、律法(愛)を実践する時、「マイーム・ハヤー(いのちの水)」が心から湧き出て来ます。
4.イエス・キリストが律法学者・パリサイ人を非難した理由
神の戒めではなく人間の規則を押し付ける
イエス様が律法学者たちを非難されたのは、彼らが神の律法ではなく、口伝律法(先祖たちの言い伝え)によって民衆を苦しめていたからでした。彼らは、トーラーの本質を歪め、人間の教えを強制し、民衆を脅す道具としました。
マルコ7:8~9
「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。・・・あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。」ルカ11:46
「あなたがた律法の専門家たちも忌まわしいものだ。あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本もさわろうとはしない。」
彼らは、愛に基づいて神の御心を実践することを心に留めず、形式的な行いや偽善に陥り、口伝律法を守ることで自己義を誇っていました。また、先祖たちの言い伝えを利用して自分の利益を図り、自分の権威を見せつけて民衆を支配していたのです。
「律法主義」では救われない
律法主義とは、律法を守ること(人間の努力)によって救いを勝ち取ろうとする肉の働きです。
神の心と神の教えの本質を知ろうとせず、細かな規則を実行したことで神の評価を得て、自分の願うものを勝ち取ろうとします。しかも律法学者たちは、律法そのものを実践するのではなく、人間の作り上げた規則を守ることで自分を義としていました。
以下のみことば箇所は、「律法」ではなく「律法主義」と訳すべきだそうです。
ガラテヤ5:18 律法(主義)の下にいない
ガラテヤ2:16、ローマ3:20 律法(主義)の行いによっては義と認められない
ガラテヤ5:4、ローマ6:14 律法(主義)と恵みは対立する
ローマ3:20 律法(主儀)が罪意識を生む
ローマ4:15 律法(主儀)が罪の欲情を生み、死の実を結ぶ
ローマ7:4、6 律法(主儀)に対して死んだ
律法の民ユダヤ民族に対する異邦民族の対抗心が、聖書の訳に影響したのかもしれません。
イスラエルの失敗
ローマ10:2~3
「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」ローマ9:30~32
「では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法には到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。」
イスラエル民族は律法を守り行い、義とされることを追い求めていたのに、その行いによっては神の義に到達しませんでした。
行いによる義を追い求めるとは、自分たちで律法を再定義し、自分たちが決めた理解や枠の範囲で行動し、条件を全うしたから義人であると考えることです。イスラエルの宗教指導者たちは律法の目的が分からず、つまずきの石(イエス・キリスト)につまずき、神に聞くより人の理解や判断や思い(肉)によって行動し、自分の義を立てようとしたのです。
聖霊によって律法のうちに歩む
信仰によって義とされた人は、神のいのちが内から湧き上がり、神の力に動かされて、律法に求められている行動をとるようになります。それは、イエスを信じて聖霊をいただき、その導きに従う時に可能となります。
ローマ8:2~4
「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」
異邦人クリスチャンは、律法を持たず、神と無関係でしたが、主イエスを信じて御霊をいただきました。イエスを信じる者は、御霊に従順することで律法の要求を行なえるようになります。御霊は信仰者の中におられ、律法を全うさせてくださるのです。律法は、信仰・恵み・福音と対立するわけではありません。
5.キリストは律法を成就する
律法は良いもの
新約時代の聖徒たちにとっても、律法は「いのちの道、義の道、生きる道」を教えます。
ローマ7:12、14
「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。・・・私たちは律法が霊的なものであることを知っています。」Ⅱテモテ3:15~17
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
律法(トーラー、神の御言葉)は聖なる霊的なもの、戒めは正しく良いものです。御言葉を愛し従う人は、律法を愛し従うことで、神の民として相応しい者へと整えられ、訓練され、神の働きに用いられるようになります。
主のくびきは負いやすく、その荷は軽く、主から学ぶなら、たましいが安らぎを得ます(マタイ11:29~30)。もし律法に逆らうなら、神のみことばであるイエス様に逆らうことになり、平安がないでしょう。
律法は終わっていない
ローマ10:4
「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人は皆義と認められるのです。」
「終わらせる」と訳されているギリシャ語の「テロス」」は、「目的地、目標」という意味もあります。「キリストが律法を終わらせられた」は、別訳では「キリストが律法の目標であり」となっています。
律法が目指していたのはキリストです。イエス様は地上生涯で罪を犯さず、律法を全うされ、世界の贖い主としての御業を完了されました。
イエス・キリストが完全に成就された義は、クリスチャンの義と見なされます。キリストにある人は、キリストにあって律法を守ったと見なされるのです。人は律法を完全に守ることができないゆえに、キリストが必要なのです。
十字架は律法を無効にしたのではなく「律法を犯した罪と、その結果として受けるべき裁き」を無効にしたのです。
律法は信仰によって確立し、成就する
ローマ3:31
「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」マタイ5:17~18
わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。
律法は一般的にモーセ五書を指し、預言者は「神のご計画・世の終わり・救いと裁き」を語ったイザヤからマラキまでの預言書に加え、歴史書も含まれます。
イエス様は「律法と預言者」という表現を用いて、旧約聖書全体に記された神の御心とご計画が成就すると示されました。イエス様は預言者を通して語られた神ご自身ですから、律法や預言書を通して示されたご自分の意思と目的と計画のすべてを成就されます。
「成就する」は「完成させる、実現させる」という意味で、「廃棄する」とは「(制度や法律に関して)無効にする」ことです。つまり、「律法は無効にされたのではなく、実現し、完成される」ということです。「天地が滅びうせる」のは新天新地に変わる時ですから、主が再臨される時まで、「律法の一点一画も廃れることなく、全部が成就されます」。
新約時代の律法とは
律法はクリスチャンにどこまで適用されるのでしょうか?
イスラエルには10種類の律法規定があるそうです。
① 割礼規定② 神殿規定 ③ 祭司規定 ④ レビ的祭儀の規定 ⑤ 誓願規定 ⑥ 清浄規定 ⑦ 偶像礼拝禁止規定 ⑧ 民法、刑法 ⑨ 例祭規定 ⑩ 普遍的道徳原則
使徒15章エルサレム会議で、使徒たちは「異邦人は異邦人のままで救われる」と判断し、異邦人信者には律法規定の①~⑨(イスラエル民族と神との契約に基づく規定)を負わさないと決定しました。そして、⑩の全ての人に適用される最重要な原則から、「偶像に供えて汚れた物、不品行、絞め殺した物、血を避ける(ノア契約に基づくとされる)」ように通達しました。
イエス様が命じられた第一の戒めは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、神である主を愛すること」、第二の戒めは「隣人を自分自身のように愛すること」です。律法全体と預言者とは、この二つの戒めにかかっています(マタイ22:37~40)。
ローマ13:8~10
だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。』という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
新約時代の律法、キリストの律法は「愛」という一言にまとめられますが、その基準は旧約時代の律法よりもはるかに高いものです。実際に姦淫しなくても婚外の情欲を抱くことは罪であり、殺さなくても罵倒することは罪です。
クリスチャンの内には聖霊なる神がおられるので、私たちを、文字に書かれた細則以上に聖い正しい生活へ、愛の実践へと導かれるのです。
律法の最終的成就
エレミヤ31:31~34
見よ、その時代が来る。・・・そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。・・・これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。・・・わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ。・・・わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
イスラエルが民族的に最終的にイエスを主と認めるのは、患難時代の終わり、主の再臨の時です。イスラエル民族に悔い改めの霊が注がれ、彼らの心に律法が書き記されます。
主が再臨される時、律法の最後の役割が成就するでしょう。人の心の思いも、口の言葉も、行動も、神の律法の光に照らされることになります。
・主はそれぞれの行いに応じて報いるために、報いを携えて来ます(黙示録22:12)。
・善を行った者はよみがえっていのちを受け、悪を行ったものはよみがえって裁きを受けます(ヨハネ5:29)。
そして、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」という約束が最終的に成就するのは、新しいエルサレムに住む時(黙示録21:3)です。その時、イスラエル民族だけでなく、主を知る諸国民の不義も赦され、罪は二度と思い起こされません。
教会とイスラエルは同じ神の国の国民です。
・イスラエル民族はアブラハムの直系の子孫、クリスチャンはキリストによってアブラハムの霊的子孫となりました。
・イスラエルの王はダビデの子孫イエス・キリスト、クリスチャンの王もイエス・キリストです。
・イスラエルも教会も「聖なる国民、祭司の王国」です。

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