信仰の目的地(1)第三の天とパラダイス、エデンの園の回復

信仰の目的地
Crosses And Empty Tomb
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多くの人は、死後、霊魂が天国に行くと信じているのではないでしょうか。また、大患難時代の前に携挙されて、天に住むことを期待しているクリスチャンは多いのではないでしょうか。

聖書には天に関する言葉がいくつかあります。天、パラダイス、天の都、天の御国、天のエルサレム。それらはどのような所を表しているのでしょうか?

私たち信仰者の目指す永遠の相続地は、死者が住む目に見えない霊の世界や異次元の世界ではありません。キリスト信仰の核心は「死からの復活」です。「神の国」は、復活して不死の栄光のからだを持つ「神の子たち」が、主と共に永遠に生きる御国を表しています。

これから数回に分けて、神様が私たち信仰者に約束してくださった「永遠の御国」について学びます。「信仰の目的地(1)」は、第一、第二、第三の天とパラダイスについてです。

1.  被造物としての天――第一の天と第二の天

創世記一章で神は最初に天と地を創られました。その天は神が創られた被造物ですから、神の住まわれる天の領域とは区別される物理的な天です。創世記1章から天には二つの部分があると分かります。

神が天地を造られた時、初めにあったのは「大いなる水」でした。神はその水を「上の水」と「下の水」の二つに分け、その間の部分を「大空=天」と名付けられました(創世記1:6~8)。

現在私たちの住む地球の周囲には大気圏があり、さらに広大な宇宙が広がっていますが、天地創造の時、天は「上の水」によって制限された空間でした。

「大いなる水」から天を分離した後で、神は「天の下の水」を「海」と「地」に分け(1:9~10)、海には水に住む生き物を造り、地には植物、鳥、地を這う生き物、そして人間を造られました。鳥は「地の上、天の大空を飛ぶ」ものとして造られました(1:20)。つまり、鳥の飛ぶ大空は天の一部です。これが「第一の天」と呼ばれるものです。

神はまた、「光る物が天の大空にあって地を照らし、時と日と年のしるしとなれ」と言われ、太陽・月・星を造られました(1:14~18)。これらの天体が存在する宇宙空間も天の一部であり、これが「第二の天」と呼ばれるものです。

「第一の天」は鳥や飛行機の飛ぶ大気圏、「第二の天」は天体の存在する宇宙空間を表しています。第一の天も第二の天も、人間が生活することのできない空間です。

2.「第三の天に引き上げられた」パウロの幻体験

① パウロが見た「第三の天」は別名「パラダイス」

コリント人への第二の手紙で、使徒パウロは第三の天について言及しています。

Ⅱコリント12:1~4
「無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に──肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、──第三の天にまで引き上げられました。私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存知です。――パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを赦されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」

これはパウロが見た幻と啓示についての証です。

2節でパウロは、「十四年前に第三の天にまで引き上げられた」と言い、4節では「パラダイスに引き上げられて」と言い換えています。
ここから、「第三の天」は「パラダイス」であると理解することができます。

主の幻」とありますから、第三の天とは、主が住まわれる天であると推測できます。

パウロが「第三の天――パラダイスに引き上げられた」と言ったのは、パラダイスの幻を見て、素晴らしい啓示を与えられたということです。その幻は、まるで本当にパラダイスの中にいるかのごとく、自分の周り360度を取り巻くリアルな幻だったのかもしれません。

そして、その啓示があまりにも素晴らしいので、パウロが高ぶることのないように、肉体に一つのとげが与えられたと語っています(12:7)。

② 「肉体のまま」「肉体を離れて」の意味していること

パウロはさらに、その体験が「肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです」と2回述べています。

パウロはⅡコリント5章1~8節で、「地上の幕屋(肉体)にいる間は主から離れ、重荷を負ってうめいているので、肉体を離れて主のみもとにいる方が良いと思う」と書いています。

パウロが「肉体を離れて主のみもとにいる」と表現しているのは、「地上の幕屋(朽ちるからだ)を脱ぎ捨て、天から与えられる住まいを着て主のみもとにいる」こと、つまり、朽ちない復活のからだになって、主と共にいたいという意味です。

パウロはⅠコリント15:42~44で、死者が復活することについて、「朽ちる者が朽ちないものによみがえる」「卑しいものが栄光あるものによみがえる」「弱いものが強いものによみがえる」「血肉のからだが御霊のからだによみがえる」と教えています。そして、「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません(15:50)」と教えています。つまり、朽ちないからだによみがえったなら、神の国を相続することができるということです。

ですから、「肉体を離れて主のみもとにいる」とは、Ⅰコリント15:51~54と同じ内容――終わりのラッパとともによみがえり、朽ちるからだを脱ぎ捨て、不死のからだによみがえり、死に勝利して――神の国に入ることを表しています。

パウロはまだ復活のからだではなかったので、第三の天に引き上げられたという体験はでした。
パウロはパラダイスの様子について何を見たか、何を聞いたか記録していませんので、実際どのような場所であったか、この聖書箇所からはわかりません。
パラダイスについてもっと知るためには、聖書の他の箇所を調べなければなりません。

第三の天とは主が住まわれるパラダイスのことです。このパラダイスに入るためには、朽ちないからだに変えられなければなりません。

3.パラダイスは、神と共に生きる永遠の神の楽園

パラダイスの詳細を調べる前に、パラダイスという言葉について確認しましょう。

① パラダイスは、神と人が親しく住まう地上の楽園

「パラダイス」のもとになったペルシャ語の「パエリダエーザ」は、塀で囲まれた庭や果樹園を意味しています。旧約聖書で「園」を表す言葉は「パラデース」で、「御園」「園」「ザクロの園」という表現で使われています。旧約聖書のパラダイスには「別次元の目に見えない世界」や「死者の霊魂が住む天上の世界」という意味合いはありません。

パラダイスの原型は、最初の人、アダムとエバが置かれた「エデンの園」です。 

エデンの園は人の住まいとして造られ、神が訪れて親しく会話される地上の美しい楽園でした。人間にとって必要なものはすべて備えられ、死も病も呪いも無い、愛と喜びと平安に満ちた世界です。アダムとエバはこの祝福されたエデンで、神とともに永遠に過ごせるはずでした。

神は人に神の代理人として生き物を支配し、自然界を正しく管理する使命と権威を与えられました。そして、人類が増え広がり、その生活域が拡大するにつれ、地球全体にエデンの祝福が及ぶようになることを望まれていたのです。

人が神のいのちに留まり、神との関係を保ち続けるためのただ一つの条件は、「善悪の知識の木の実を食べない」ということでした。それを食べるなら、人は神から独立して生き、神の善悪の基準ではなく自分の基準で行動するようになるからです。

② 失われたエデンの園

神の似姿に創造された人間は、神とつながっている限りにおいて、神の完全な知識と知恵を受け、神の代理として役割を果たすことができました。けれども悪魔に騙され、神に背き、食べてはいけない木の実を食べた結果、人は世界の支配権を悪魔に奪われてしまいました。
人は罪を犯してエデンの園から追い出されました。園の入り口はケルビムと炎の剣によって守られ、以来、人が入ることは許されなくなりました。人はいのちの木から引き離され、必ず死ぬべき存在となってしまったのです。

神との関係が破壊された結果、人間は、もはや神と交流し、神の御心を知り、神の知恵をもって世界を正しく治めることができなくなりました。人類が増えるにつれて罪も増大し、人の心に計ることはいつも悪に傾きました。神は人を造られたことを悔やみ、人を地の表から消し去るために大洪水を起こされました(創世記6章)。

40日40夜降り続いた大雨と地から噴き出した水で大災害が起こり、地形が激変し、エデンの園のあった場所はわからなくなりました。

この失われた「エデンの園」に代わる「永遠の楽園」が「パラダイス」です。パラダイスとは、神との関係を取り戻した人間が、死も悲しみもなく、神とともに永遠に生きることのできる「神の栄光と祝福の楽園」のことなのです。

罪を犯して神から離れた人間を神のもとに連れ戻し、「パラダイス――神の園」に住まわせる。それが、聖書を通して啓示されている神の御計画です。

③ 神から離反した人を取り戻す計画

人がエデンの園で罪を犯したその時から、神は堕落した人類を救い出し、世界の支配を取り戻す計画を開始されました。

人類が神との関係を回復し、失っていた祝福と使命を取り戻し、永遠に神と共に生きるためには、神との関係を妨げている「罪」を取り除く必要がありました。そのために神は、罪の無い者に人類の罪を負わせ、いのちの代価を払わせて償いをさせ――御子を十字架で罪人の身代わりに裁き――御子の血による罪の赦しを信じる者を救うという計画を開始されました。

神はアブラハムからイスラエル民族を起こし、土地を与え、エルサレムを首都とするイスラエル国を建設されました。そして、ダビデ王の子孫として御子を地上に送り、犠牲の死によって人類の罪の贖いを完成されました。御子の死が自分のためであったと信じる者は、御子と共に死んだと見なされ、罪から解放されます。そして御子の復活とともに、罪の無い新しい人(神の子)として生まれたと見なされるのです。

イエス様は、やがて全世界の王として地上に戻って来られます。その時、義とされた者は、死んでいても復活し、栄光のからだに変えられ、イエス様と共に神の国を受け継ぎます。これが救いの完成と言われるものです。

④ エデンの園を回復する

イザヤ35:1、2、6、7
 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。・・・荒野に水がわき出し、荒れ地に川が流れるからだ。焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり…

イザヤ11:6~9
狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。

これはメシヤ王国の情景です。自然界が回復し、猛獣が人を襲うことはなく、人間と動物が平和に暮らします。アダムが罪を犯す以前のエデンの園はこのようだったでしょう。
「わたしの聖なる山」とはシオンの山のことです。

詩篇132:13-15
主はシオンを選び、それをご自分の住みかとして望まれた。「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。 わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。」

イザヤ51:11
に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。

 主が永遠の住まいとして選ばれた町は、シオンです。
シオン」とは、エルサレム全体、またはダビデの町や神殿の丘を指す地名です。

 イザヤ書51:3では、「主がシオンの荒野をエデンのようにし、砂漠を主の園のようにされる」と約束されています。またエゼキエル書36:35では、「荒れ果てていたイスラエルがエデンの園のようになったと言われるようになる」と預言されています。

神がイスラエル国家を再建し、エルサレムを首都とされるのは、エデンの園を取り戻すためです。主はシオン(エルサレム)に、園(パラダイス)を回復されるのです。

⑤ 死者はパラダイスに入ることができない

死者にはいのちが無いので、いのちそのものである神と交流することはできません。

神は初めにちりから肉体を造り、そこに神の息吹(いのちの息)を吹き入れ、人を生きる者とされました。そしてその状態を「非常に良い」と言われました。人は肉体に霊が入っている間だけ、生きて活動することができます。脳が機能している間だけ、魂も機能することができます。

 とは、神が人に吹き込んでくださった「いのちの息」が出て行き、肉体がちりに帰ることです。「死」によってすべての人間の活動は停止します。身体が朽ちてしまえば、人として存在し、活動することができなくなります。手足や内臓の機能だけでなく、思考や感情などの精神活動もできません。神との関係を持つこともできません。

再び人として活動するためには、新しい身体に霊を入れていただかなければなりません。

神は御子を死から復活させることで、再び生きることができる確証を下さいました。そして御子が再臨される時、御子を信じる者を復活させ、死の問題を解決して下さいます。

パラダイスとは、復活した人が主と共に過ごす「主の園」なのです。パラダイスは、生きている者、不滅の身体を与えられた者が入り、神と共に永遠に生きることができる「神の楽園」です。

4.十字架上の犯罪人に約束されたパラダイス

イエス様が十字架刑に処された時、二人の犯罪人がイエス様の左右で十字架に付けられました。

ルカ23:39~43
十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

悔い改めた犯罪人は、死後すぐ「パラダイス」に行ったのでしょうか?

① 「きょう」ということばが修飾している動詞

原語のギリシャ語では「あなたにきょう告げます」と「あなたはきょうパラダイスにいる」という二つの解釈ができるそうです。英語でも同じで、「カンマ」の位置によって「きょう」がどちらの動詞を修飾しているかが決まり、カンマがないと二通りに理解できることがあります。ギリシャ語原語ではカンマがないので、翻訳者の思想によって誤って解釈され、異なる意味に訳されてしまった可能性があります。

② イエス様の「きょう」の出来事

聖書では、一日は日没とともに始まります。これは天地創造の記事からずっと続く考え方で、イスラエルでは今でも一日は日没から始まり、夜―朝―昼―日没 で終わります。

イエス様の最期の一日には何が起こったでしょうか?

イエス様は、過ぎ越しの祭りの初日の夜、弟子たちの足を洗い、最後の晩餐をとり、パンとぶどう酒で新しい契約を結び、ゲッセマネの園に行って祈られ、逮捕され、夜中にサンヘドリン(ユダヤ議会)で裁かれ、ピラト官邸で取り調べられ、ヘロデ王に引き合わされ、再びピラトの裁判を受け、無罪判決を受けたにもかかわらず、十字架を背負ってゴルゴダの丘へ行き、朝9時ころ十字架に付けられ、取り成しの祈りをし、午後3時ごろ息を引き取られ、アリマタヤのヨセフによって日没前に墓に葬られました。
これが「きょう」一日でイエス様に起こったことでした。

イエス様が「きょう」犯罪人と一緒にいた場所はゴルゴダの丘、十字架の上でした。パラダイスは苦しみや悲しみや恥の場所ではありませんので、ゴルゴダはパラダイスではありません。

イエス様は死後、墓に葬られ、よみに下りました。犯罪人もよみに下りました。
イエス様は3日目に復活され、マグダラのマリアに現れた時、「わたしはまだ父のところに上っていない」と言われた(ヨハネ20:17)ので、イエス様は復活前には天に行かれず、よみに留まっておられました。よみは神と共に住むパラダイスではありません。

ですから、イエス様も犯罪人も、「きょう」パラダイスにはいませんでした。

③ 復活して王の園に入る

では、イエス様はこの犯罪人に本当は何を約束されたのでしょうか?

ヘブライ語聖書では「あなたは、わたしとともにパラダイスにいる」ではなく「エデンの園にいるでしょう」と書かれているそうです。これは未来の約束です。

・この犯罪人は、自分が罪人であること、イエス様には罪がないことを認めています。
・今まさに死のうとしているイエス様が復活し、地上で王位に着かれることを確信しています。
・メシアが義人を復活させ、御国に入れてくださることを信じています(御国は地上に来ます)。

犯罪人は、「イエス様、あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と願いました。主が御国の位に着かれる時とは、主が再臨され、メシア王国が始まる時です。
主は死なれ、復活して天に帰られました。やがて王として戻って来られます。
その時、死んでいた義人が復活し、それからはいつまでも主と共にいることになります。

Ⅰテサロニケ4:16~17
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

この犯罪人は、御国の福音を信じました。そして、メシアであるイエス様に、罪人の自分には御国に入る資格はないが、もしかなうなら復活させていただきたいと願ったのです。

ですから、イエス様のことばの意味はこうなります。
「まことに、きょうあなたに告げます。わたしが地上に戻って来てわたしの国を打ち建て、王位に着く時、あなたはよみがえり、わたしとともにパラダイス(王の園)にいるでしょう。」

パラダイス(王の園)は、王が地上に再臨され、住まわれる時に実現します。
では、王の園はどこにできるのですか? 永遠の神の都「エルサレム」です。
次回は、天の都と天のエルサレムについて学びます。

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