ディスペンセーション神学(契約時期分割主義)は19世紀にイギリスで始まった新しい神学です。艱難期前携挙説とキリストの二度の再臨(空中再臨と地上再臨)説は、ディスペンセーション神学から発しています。それらの教えはクリスチャンにとって好ましいため、信奉者が急増しています。
これから数回に分けて、ディスペンセーション神学の教えを御言葉に照らして吟味します。
1.ディスペンセーション神学の特徴
ディスペンセーション神学の特徴は、聖書を字義通りに解釈することと、イスラエルと教会を明確に区別することです。人類救済史の中でイスラエルの時代と教会の時代を区別し、両者には異なる約束と異なる終末計画があるとします。そのため、「教会の福音宣教が終了して救いが完成する時」と「イスラエルの救いが完成する時」の間に、7年間の時間差があります。
7つの時代区分
ディスペンセーション神学によると、神は人類を救済するために、歴史を7つの契約時期に分けて、それぞれの時期ごとに契約対象を定め、約束を与え、神の計画とプログラムを進めておられます。
① 無垢の時代(罪のない時代) (創世記1:1~3:7)
天地と人類の創造から、罪によって神との交わりが断たれ、人がエデンの園を追放されるまで。② 良心の時代 (創世記3:8~8:22)
エデン追放から洪水の前まで、人が良心によって神を認識し、罪を自覚した時代。
③ 人間による統治の時代 (創世記9:1~11:32)
洪水後に増え広がった人間がハベルの塔事件で地に散らされ、神から独立して支配した時代。(②と③は神が人類全体を良心によって取り扱う時代)
④ 約束の時代 (創世記12:1~出エジプト記19:25)
アブラハムの召命から律法の授与まで、神がイスラエル民族を選んで歴史に介入された時代。
⑤ 律法の時代 (出エジプト20:1~使徒2:4
律法授与からペンテコステの聖霊降臨まで、イスラエル中心に救済計画が進展した時代。(④と⑤はイスラエル中心の救済史が進展する時代)
⑥ 恵みの時代(教会時代) (使徒2:4~黙示録20:3)
教会が福音宣教を担い、異邦諸国民が救われる時代。使命を終えた教会が携挙されると、再びイスラエルによる宣教の時代となる。⑦ 御国の時代(メシア王国・千年王国) (黙示録20:4~20:6)
キリストの再臨と地上統治によってダビデに約束された王国が実現し、イスラエルが祭司として治める時代。イスラエルへの土地と祝福の約束が実現する。
これらの7つの時代が終了すると、「永遠の神の国」が始まります。
イスラエルと教会: 福音宣教に携わる2種類の神の民
置換神学では、イスラエルはメシアを拒否したために神との契約が取り消され、選民の地位を失い(捨てられ)、その召命や約束はキリスト教会に与えられたと考えます。
教会を霊的イスラエルと理解し、「イスラエル」を「教会」と読み替えて、イスラエルへの預言は比喩的解釈や教訓的解釈をして教会に当てはめます。そしてイスラエルに約束された祝福は教会が受け継ぎ、呪いはイスラエルに与えられたと解釈します。イスラエル人は選民ではなく、諸国民と同じ立場にあり、イエスを信じるなら救われて教会に加えられます。
ディスペンセーション神学では、神は本来、イスラエルを中心に救済計画を進めておられたが、イスラエルはメシアを拒否したために、その選びと役割は一時的に中断され、教会時代が挿入されて、異邦人教会が救済計画を引き継いだと考えます。
イスラエルと教会は2種類の神の民として区別され、イスラエルの救済が中心の時代と、教会を中心とした世界宣教の時代を区別します。
旧約聖書のイスラエルに対する預言は字義通りに解釈してイスラエルだけに適用し、教会には当てはめません。
・イスラエル民族は「地上のメシア王国の民」として選ばれて、教会は「天の御国の民」として選ばれている。
・イスラエルへの土地の約束は地上の千年王国で実現するが、教会の相続地は天の御国である。
・律法は旧約時代のイスラエルに与えられたもので、新約時代(恵みの時代)の教会には適用されない。メシアの死によってモーセの律法は終了し、教会にはキリストの律法が与えられた。
ディスペンセーション神学の終末論
ディスペンセーション神学は、イスラエルと教会には異なる使命と救済計画があり、両者は異なる終末時代を通ると考えます。
・教会による世界宣教と教会に対する神の計画が終了すると、大艱難時代(7年間)が始まる前に信者が復活し、教会が携挙される(艱難前携挙)。
教会はすでに救われているので大患難時代を通る必要がない。・黙示録は、教会の携挙後に地上に残されたイスラエル民族と不信者に、終末の大患難と神の裁きを預言している。先に完成した教会は患難を受けない。イスラエルは世界宣教の終盤を担当し、大患難を通って自分たちの罪を悔い改める。
ディスペンセーション神学によると、神の人類救済史は次のように進みます。
・神はイスラエルとの契約に基づいて人類救済計画を進めてきた(イスラエルの時代)。
・イスラエルの不信仰ゆえに、イスラエルに対する計画は一時的に中断された。教会が世界に宣教し(教会時代)、異邦人の救済が先に実現する(恵みの時代)。
・異邦人の救いが満ちると、教会が完成してキリストが空中再臨され、クリスチャンの復活と携挙が起こる。
花婿(キリスト)と花嫁(教会)は空中で結婚式を挙げ、天で7年間を過ごす(ハネムーン)。
メシアニック・ジュ―(イエスを信じたユダヤ人)も教会に属し、花嫁として携挙される。・教会が携挙されると、イスラエル民族を中心とした救済プランに戻る。
・人類史の最後の7年間は、イスラエル民族による世界宣教の期間であるが、イスラエル民族が罪を悔い改め、イエスを信じるようになるために通らなければならない「ヤコブの苦難の時(大患難時代)」でもある。・イスラエル民族が大艱難時代の終わりにイエスを信じると、キリストは教会とともに地上に降って来て(地上再臨)、罪人を裁き、イスラエル民族を救出する。
・イスラエルの救いが完成すると、地上のメシア王国(千年王国)が始まり、イスラエルは旧約時代に約束された土地を相続し、祭司として仕える。旧約時代の義人たちも復活して千年王国に入る。
・千年王国は教会にとってキリストとの婚礼を祝う千年間の祝宴であり、教会はキリストとともに地を支配する。
このように、ディスペンセーション神学によると、イスラエルと教会は異なる終末時代を通り、救いの完成には7年間の時間差があります。
2.ディスペンセーション神学の問題点
ディスペンセーション神学によると、イスラエルと教会のそれぞれに対する神のご計画、終末時代の進展、相続地が異なります。 二段階再臨説(空中再臨と患難前携挙)を取り扱う前に、今回はこの神学の根底をなす考え方について検証します。
問題点① 教会とイスラエルは2種類の神の民か?
ディスペンセーション神学によると、
・イスラエル民族は地上的な神の民、地上の神権政治を実現させるための選民で、地上の王国を相続する。
・教会は天的な神の民、霊的・普遍的な神の国の選民で、天の御国を相続する。
はたして、永遠の神の計画において、教会とイスラエルは異なる2種類の神の民として完成するのでしょうか?
ガラテヤ3:28~29
ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
民族、身分、男女にかかわらず、キリスト・イエスのものであればアブラハムの子孫です。イスラエルと異邦人はキリストにあって一つのエクレシア(召し出された神の民)です。
エペソ人への手紙2:12~19によると、
・諸民族は、かつてはイスラエルの民から除外され、約束の契約とは無関係で、イスラエル民族とは遠く離れていたが、キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となった。
・キリストは信仰のあるイスラエル民族と信仰のある諸民族という二つのものを一つにし、ご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとされた。
・キリストは十字架によって、イスラエルと諸民族の間の敵意を廃止し、神と和解させ、同じ御霊によって御父に近づくことができるようにしてくださった。
この文脈では、イスラエルが人類救済史の中心にあったが、異邦人も信仰によって加えられ、両者が一つになります。教会とイスラエルはキリストにあって「新しい一人の人」「一つのからだ」です。ですから、教会はイスラエル抜きで、イスラエルより優先して「キリストの花嫁」として完成することはできません。
ローマ人への手紙11章のオリーブの木のたとえは、イスラエルも異邦人も同じ木につぎ合わされて1本の木となると教えています。
異邦人(野生種のオリーブ)の枝が信仰によって栽培種のオリーブの木に接ぎ木されるだけでなく、一度は不信仰ゆえに折り取られたイスラエル民族(栽培種のオリーブ)の枝も、信仰によって再び元の木につぎ合わされます。すべての民族は、信仰によって1本の木につぎ合わされて完成します。野生種の枝が栽培種の木から分離し、その根がもたらす「豊かな養分(いのち)」から切り離されるなら、その枝の完成はありえません。
パウロはこれらの譬えを用いて、イスラエルに異邦人がつぎ合わされて同じ国民、神の家族(エペソ2:19)になり、御霊によって神の御住まいとなる(2:22)と教えています。
ですから、教会(メシアニック・ジュ―を含む)は先に完成して栄光のからだで天に住み、イスラエル民族は朽ちるからだのまま地上で大患難時代を通って7年後に完成するという説は、御言葉に反しています。
教会とイスラエルはキリスト・イエスにあって一つのからだ、新しい一人の人、一本のオリーブの木となり、同時に復活・栄化され、一人の花嫁として完成します。(詳細は「新しい一人の人:クリスチャンとイスラエルの救いの完成」)。
クリスチャンは信仰と恵みによって先に福音を受け取りましたが、主が「わたしの友アブラハムの末」と呼ぶイスラエル民族より優位に立ち、アブラハムやダビデより先に完成すると考えるのは、いささか傲慢であると思います。
また、人類に対する神の永遠のご計画を理解し、失われている魂の救いを願うクリスチャンは、地上が大患難で苦しむ中、自分は安全圏で主と楽しく過ごしたいと思うでしょうか? 愛する人や同胞の救いのために、最後まで福音を伝えたいと願うのではないでしょうか?
イスラエルを「地上的神の民」、教会を「天的神の民」と分類することは不適切であり、「異邦人教会がイスラエル民族より先に完成する」という考え方は、一種の置換神学であると思われます。
問題点② 二回の再臨と二回の復活
ディスペンセーション神学では、イスラエルと教会の救いの時期が異なります。キリストの再臨は二回あり、第一の復活も二回に分かれて起こり、救いの完成も二回あるとします。
第一段階の再臨と復活は患難時代に入る前に起こり、イエスが秘かに空中に現れて(空中再臨)、教会時代の聖徒たち(新約時代のクリスチャンとメシアニック・ジュー)を引き上げ(携挙)、天に連れて行くとされます。この時、死んでいたキリスト信者はよみがえり、生きているなら栄光の身体に変えられます。
第二段階の再臨と復活は、7年間の患難時代が終わってから起こるとされます。イエスが携挙されていた花嫁たちと御使いたちを引き連れて目に見える形で現れ、反キリスト軍を打ち破り、イスラエルを救い出します。その時、旧約時代の義人たちと、艱難時代に救われたイスラエル民族と諸国民がよみがえります。そしてキリストが地上世界を支配し(地上再臨)、イスラエルは約束の地を相続します。
つまり、キリストは1回目には教会のために空中再臨され、艱難期前の第一の復活が起こり、クリスチャンの救いが完成します。2回目には、キリストはイスラエルのために地上再臨され、患難期後の第一の復活が起こり、イスラエルの救いが完成します。
ディスペンセーション神学では再臨が二回あり、第一の復活は患難期前と患難期後の2回に分けて起こり、そして救いの完成も二回あることになります。
しかし聖書は、患難期後の復活を第一の復活と呼び、それは「獣」の支配の後に起こります。
黙示録20:4~5で獣の刻印を拒否したために処刑された人々がよみがえって、キリストとともに千年の間、王として治めます。これが第一の復活であると書かれているので、それ以前に復活は起こりません。つまり、第一の復活は大患難時代の後に起こります。
復活と救いの完成が二度に分かれるという教えは、聖書からは見いだせません。復活は艱難期後の一回だけ起こり、秘密の携挙も秘密の空中再臨もないと思われます。
問題点③ 教会とイスラエルの相続地が異なる
ディスペンセーション神学は、天的な神の民である教会は天の御国を相続して天で支配し、地的な神の民であるイスラエル民族は地上の約束の地を相続してメシア王国(千年王国)を治めると教えます。教会の相続地は天の御国であり、イスラエルの相続地は地上の国であるとします。
そしてイスラエル民族は、千年後に天のエルサレムが地上に降って来る時まで、永遠の御国を相続できません。
しかし神の初めからのご計画を理解するなら、別々の相続地という考え方は成立しません。
神のご計画は、「罪のために堕落して神から離れ、エデンの園(パラダイス)を追い出された人類を、神との関係に立ち返らせ、再び神のパラダイス(新しいエルサレム)に住まわせる」ことです。イスラエル民族にとっても諸国・諸民族にとっても、信仰の目的地は同じ神のパラダイスです。
救いが完成した人は、朽ちない栄光のからだに変えられて、神のパラダイスで神と共に永遠に生きることができます。その人々は、罪を犯す前のアダムが持っていた神との関係を取り戻し、神の祝福を受け、神の代理人として被造物の世界を治めるようになります。これは、新しい天地に替わり、新しいエルサレムが地上に到来する時に実現します(こちらを参照)。
イスラエル民族にとってもクリスチャンにとっても、目指す約束の地とは新しいエルサレムです。
へブル人への手紙は、アブラハムがその都を目指していたことを教えています(詳細はこちら)。
アブラハムは、神が用意された都――神が設計し、建設し、堅い基礎の上に建てられた都(へブル11:10、16)――に住むことを待ち望んでいました。この都が、生ける神の都である天上のエルサレム(へブル12:22)であり、やがて天から降って来る新しいエルサレム(黙示録21:2、10)です。その新しいエルサレムが、最終的に完成された神のパラダイスであり、永遠に神と共に生きることのできる揺り動かされない御国(へブル12:28)です。
地上のカナンの地は、天のエルサレムのひな型にすぎません。
へブル11:13~16
これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。
イスラエル民族は、アブラハムの見た天の都を相続することを願っていました。
へブル人への手紙は、イエスを主と信じた初代教会のへブル人(メシアニック・ジュ―)に、アブラハムが目指した都を目指し、希望を持って主を待ち望むようにと説得しています。つまり、新約時代の教会も、アブラハムが目指したのと同じ都を目指していると教えているのです。
イスラエル民族だけでなく、諸民族からなる教会もキリスト・イエスにあってアブラハムの子孫であり、約束による相続人です。それゆえ、教会とイスラエルの信仰の目的地は一つ、新しいエルサレムです。
イスラエル民族は地上の千年王国を相続し、キリスト教会は天上のパラダイスを相続するという分離説は不適切です。
3.イスラエルと教会は一緒に約束を受け取る
御言葉は、旧約時代の義人も新約時代の義人も同時に完成し、同時に約束のものを受け取ると示しています。
約束を受け取る時期は同じ
へブル人への手紙は、旧約時代の信仰者たちが約束のものを受け取る時期について示唆しています。
へブル11:39~40
この人々(旧約時代の義人たち)はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。
アブラハムと子孫たちに永遠に与えると約束された相続地はカナンの地でした。しかし、旧約時代の信仰者たちで、復活して永遠にカナンの地を得た人はいません。それは、神がさらにすぐれたもの、つまり天の都を用意されていたからです。彼らが実際に目指していたのは天にある新しいエルサレムでした。
「彼らが私たちと別に全うされる(別訳:私たちを抜きにして完全な者とされる)ことがなかった」とは、「旧約時代の義人たちは、新約時代のメシアニック・ジューが完成する前に、彼らだけで完成することはなかった」という意味です。
つまり、新約時代のメシアニック・ジューたちが栄光のからだに変えられて「天の都」を相続する時が来るまで、旧約時代の義人たちが「朽ちない栄光のからだに変えられることはない」という意味です。
この御言葉は、旧約時代の義人たちとイエスの信者たちは、一緒に完成し、一緒に都を相続すると教えているのではないでしょうか?
旧約時代の義人たちが新約時代のメシアニック・ジューたちと一緒に完成し、一緒に相続地を受け取るのであれば、クリスチャンが復活する時には、旧約時代の信仰者たちも一緒に復活するはずです。
完成した神の民は新しいエルサレムに住む
新しいエルサレムについて、使徒ヨハネ(メシアニック・ジュー)が黙示録21章と22章に詳しく書き記しています。
天から降って来た新しいエルサレムには神の幕屋があり、いのちの書に名前の記された人だけが入ることができます。そこでは、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と宣言され、神と民がともに住むことができます。
そして神の御座の下からいのちの水の川が流れ出て、川の両側にはいのちの木があります。この都に入った人は、いのちの木の実を自由に取って食べ、永遠に生きることができます。完全な神の支配がなされるので、そこには死も悲しみも苦しみも、不義・不正、争いも存在しません。神が民の目の涙をぬぐい取ってくださり、いのちの水の泉から飲ませてくださいます。
黙示録7章にも、神が幕屋を張られ、彼らを牧し、いのちの水の泉に導き、涙をぬぐい取ってくださるとあります。
黙示録7章と21章は同じエルサレムについての記述です。この新しいエルサレムに住む時、人類は神の民として完成し、エデンの祝福を取り戻すことができます。
ディスペンセーション神学では、イスラエルは地上のメシア王国を相続し、教会は天の御国を相続するとされます。そして、新しいエルサレムは千年王国の後に地上に降って来るとされます。
もし、携挙された教会が7年間を天上(新しいエルサレム)で過ごし、大患難時代の後、キリストとともに地上に降りて来るなら、そしてエルサレムが降りて来ないなら、イエス様と教会は地上のどこに住むのでしょうか? あるいは天地を行き来するのでしょうか?
また、イスラエル民族は千年王国が終わるまで新しいエルサレムに入れないなら、彼らは「いのちの書」に名前が記されているのか、いないのか、どちらでしょうか? もし、彼らが千年後までいのちの木の実を食べられず、いのちの泉から飲めないなら、復活したイスラエル民族が千年間も生き続けることが可能でしょうか?
ですから、新しいエルサレムはキリスト再臨とともに地上に降って来る必要があります。
主が地上に来られる目的は、エルサレムで王となって、全世界を正義と平和で治めることです。
主の再臨前に地上のエルサレムは破壊され、火で焼き尽くされます。神は人が手で作った宮にはお住みになりません。主が地上で住まわれる場所は、天から降って来た新しいエルサレムです。アブラハムが見たように、主はご自分の住む都をすでに建設しておられるのです。
初めの天地創造の時、神は地上にエデンの園(パラダイス)を創り、人を住まわせ、ご自身が天から降って来て、人と親しく交わりをなさいました。
再臨にあたって、イエス様は悪魔の支配下で汚された現在の天地を取り除き、新しい天地を創造されます。そして新しいパラダイスを地上にもたらし、ご自身が天から降って来て、完成した神の民とともに親しく住まわれます。
教会もイスラエル民族も旧約時代の義人たちも、救いの完成した全ての人は、主が再臨されたなら、千年も待たずに、この新しいエルサレムを相続し、初めの人アダムが失った全ての祝福を取り戻すでしょう。
神の子キリストが全地の王となって支配される時、キリストと花嫁の永遠の住まいはそこに来ています。そして、新約時代のクリスチャンも、旧約時代の義人たちも、大患難を通って悔い改めたイスラエル民族も、一緒にその住まいで祝福に与るでしょう。
そして、神が初めに命じられた人の使命――神の創造された世界と全ての被造物を治める――は、第二のアダムであるキリストの支配下で実現されるようになるでしょう。神の国実現と人の使命の回復は神の主権によるのです。
患難前携挙説と空中再臨説については別記事で検証します。

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