信仰の目的地(4)イザヤとヨハネが預言した「新しいエルサレム」

新しいエルサレム 信仰の目的地
天から降る新しいエルサレム
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イスラエル民族とクリスチャンの共通の相続地は、不滅のいのちのからだに変えられて受け継ぐ「新しいエルサレム」です。イスラエル民族はアブラハムの時代から、復活して新しいエルサレムに住むことを待ち望んできました(へブル11~13章)。預言者たちは、その約束の実現について預言してきました。
今回は、イザヤ書と黙示録を比較し、イザヤの預言したエルサレムと、ヨハネに啓示された新しいエルサレムが同じものであることを確認します。

1.全く新しい創造――新天新地・新エルサレム

① 永遠の義と永遠の救いの実現

イエス様が地上に再臨されると、神が義によって治める「御国」が始まります。イエス様が天から来られて諸国の民を裁き、この罪に満ちた時代を終わらせます。そして主を待ち望む者たちに永遠の救いが実現します。永遠に生きておられる神の住まわれる国が「永遠の御国」です。新しいエルサレムは、神の民のために主が備えて下さった永遠の住まいです。

イザヤ51:5~8
わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は諸国の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に拠り頼む。目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散り失せ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ。

イザヤは、天は煙のように散り失せ、地も古びるが、神の救いと神の義は永遠に続くと預言しました。ヨハネは「以前の天と、以前の地は過ぎ去り(黙示録20:11)」と語りました。

イエス様は、「世が改まって人の子がその栄光の座に着く(マタイ19:28)」と言われました。「世が改まって」は「世が再び生まれ」という意味です。「」とは、地と地にある全てのものを含む表現です。主が再び天から来られる時は万物が改まる時使徒3:21)です。その時、天も地も新しくされます。

Ⅱペテロ3: 12~13
 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えて崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。

神の約束が実現して正義の住む新しい天と新しい地に変わり、イエス様が新しいエルサレムの王座から公義と正義によって支配されます。

② 新しいエルサレムには死も呪いもない

イザヤ65:17~20、23
 見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。
見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。・・・・・私の民の寿命は、木の寿命に等しく・・・・彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らはに祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。

創造する」は、「全く新しい創造」を表し、創世記1章の「創造」と同じ言葉が使われています。更新ではありません。新しいエルサレムの天地は新しい天地です。

イザヤは、新しく創造されたエルサレムには「泣き声も叫び声も聞かれない」と記しました。言い変えると、新しいエルサレムに入るまでは泣き声や叫び声があるということです。それは死があるからです。最初の人・アダムが罪を犯したため、人は神の園から追い出され、死ぬべき存在となってしまいました。
新しいエルサレムに住む人は、もはや死ぬことはありません。(新しいエルサレムの外に住む人は不死のからだを持たないので、まだ死が存在します。千年の間に子供を産み、世代交代し、人口が増えていきます。)

世界が始まる前から神様がご計画されていたことは神と人(神の民)が永遠にともに住むことです。その約束は、イエス様が王となって全世界を治める時に実現します。
そのために、神であるイエス様が天から地に降って来られます。人が天に昇るのではありません。そして、天に備えられていた永遠の都、主の住まい(御座)のある新しいエルサレムも、一緒に地上に降って来ます

黙示録21:1~4
 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から降って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

新しいエルサレム

イエス様が治める御国(メシア王国、新しいエルサレム)では、アダムが罪を犯す前の、死も涙も、悲しみ、叫び、苦しみもない世界に戻ります。贖われた義人たちは、アダムが失った永遠のいのちを取り戻し、神との親密な関係を楽しむことができます。

イザヤ66:10
 エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。

最後まで信仰を守り、勝利を勝ち取った人々は救いが完成し、主ご自身の創造された新しいエルサレム(神のパラダイス)で、主とともに永遠に楽しみ、喜ぶことができます。

イザヤは、主の再臨によって地上に永遠のエルサレムが実現することを預言していたのです。

2.エルサレムは贖われ、神の住まいとして完成する

① 民の贖いとエルサレムの贖い

主の血によって贖われた神の民は、朽ちる身体から解放され、罪の無い、不死の、栄光ある、全く新しい天のからだを着て、救いが完成し、永遠に生きる神の子となります。クリスチャンは、朽ちるからだから不滅の栄光のからだに変えられて初めて、主と直接お会いし、主とともに住むことができます。

同じように、エルサレムも不品行と偶像礼拝から解放され、罪の無い、不滅の、栄光に輝く、全く新しい天の都を着て、贖いが完成し、神の国が出現すると考えられます。地上のエルサレムはやがて、不品行とあらゆる汚れた霊の巣くう大バビロンとなり(参照:バビロンの起源と終末の大バビロン)、火で焼かれてしまいます。その後、天にあるエルサレムが下って来て初めて、地上は神のとこしえの住まいとなることができると考えられます(参照:大バビロンの滅びとエルサレムの贖い)。

イザヤ1:27
 シオンは公正によって贖われ、その町の悔い改める者は正義によって贖われる。

イザヤ52:1~2
さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中にはいって来ることはない。ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け。エルサレム。あなたの首からかせを振りほどけ、捕囚のシオンの娘よ。

イザヤ62:2~6
 そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、の口が名づける新しい名で呼ばれよう。あなたはの手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。あなたはもう、「見捨てられている」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。

「あなた」はエルサレム、「あなたの国」はイスラエルです。エルサレムは義とされて栄光を現し、新しい名で呼ばれます。はエルサレムを喜ばれます。
イエス様が戻って来られたなら、民の救いが完成して神の子となるだけでなく、エルサレムが贖われて義とされ、主の永遠の住まい、新しい神の都となるのです。

イザヤ52: 7~10
 良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのを、目のあたりに見るからだ。エルサレムの廃墟よ。共に大声を上げて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。主は全ての国々の目の前に、聖なる御腕を現わした。地の果て果ても皆、私たちの神の救いを見る。

良い知らせ(グッド・ニュース、福音)」とは、「神がシオンに帰って来てエルサレムを贖い、王となる」という知らせです。その時、イスラエルと諸国民の救いが完成し、神であるメシアの統治によって、地上に真の平和が訪れます。

② 新エルサレムとシオンに神の栄光が輝く 

イザヤは、主の栄光がシオンを照らし、シオンの輝きが国々を照らすと預言しました。

イザヤ60:1~3、7、11~12、14
起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。・・・・わたしは、わたしの美しい家を輝かす。・・・・あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。あなたに仕えない国民や王国は滅び、これらの国々は荒廃する。・・・あなたを苦しめた者たちの子らは、身をかがめてあなたのところに来、あなたを侮った者どもはみな、あなたの足もとにひれ伏し、あなたを、主の町、イスラエルの聖なる方のシオン、と呼ぶ。

あなた」は「主の町、イスラエルの聖なる方のシオン」です。

天が大きな響きをたてて消え失せ、天の万象が焼けてくずれ去った後、闇が地と諸国の民を覆っています。主の栄光がエルサレムに現れ、エルサレムは主の栄光に輝きます。国々はエルサレムの光をたよりに歩み、王たちはエルサレムの輝きに照らされて歩みます。

エルサレムの門は昼も夜も開かれています。諸国の王たちが、国々の財宝をエルサレムに運んで来るからです。

使徒ヨハネは、イザヤが見たのと同じものを見て、その詳細を記録しました。

黙示21:22~26
私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。

主が永遠の都、新しいエルサレムで王となり、エルサレムの永遠の光となります。神はもはや神殿にこもられないので、エルサレム中に神の栄光が満ちています。太陽や月・星が造られる以前、創世の第1日目にあった「光」――神の栄光(シャカイナ・グローリー)によって都が照らされています。国々は、主の栄光を反射して黄金色に輝くエルサレムの光によって歩みます。

夜(闇)がなくなるので、都の門は一日中決して閉じることがありません。そして、地の王たち(贖われた諸国のクリスチャン)は、諸国の栄光と誉れ(献げもの)を携えてエルサレムに来ます。

イザヤが見たメシア王国のエルサレムは、ヨハネが見た天から降る新しいエルサレムと同じであることがわかります。

イザヤ24;23 
月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍のがシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。

イザヤ60:19~20
太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。

人間には、栄光の王(神)の住まいにふさわしい、栄光に輝く都を建設することができないので、主ご自身が都を設計し、建設され、地上にもたらされるのです。義とされた人々に主が新しいからだを与えて下さるように、エルサレムも贖われて新しい都となり、御国の王の永遠の住まいとして完成します。

3.永遠の都で栄光の神を礼拝する

① シオンは世界で最も高い場所になる

イザヤ2:2~4
 終わりの日に、の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
多くの民が来て言う。「さあ、の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムからのことばが出るからだ。
主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

イエス様が天から現れて、神に反抗する諸国の軍隊を滅ぼされ、最終戦争が終わります。義とされた民が地の四隅から集められ、主のみことばと教えを聞くために「主の山、ヤコブの神の家」に上ります。
主の家の山」とはシオンの山を指しています。終わりの日には、主の住まわれるシオンの山がすべての山々より高くなると考えられます。

詩篇48:2
 高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。

 大王の都であるシオンの山は北の端にあります。現在のシオンは北の端にはなく、高嶺もないので、これは新しいエルサレムについての記述だと考えられます。新しいエルサレムでは、シオンの山(主の御座)が北の端に位置し、地上で一番高い場所になるのでしょう。

大王は再臨されたイエス様であり、シオンの高嶺は主の栄光によって麗しく輝き、贖われた民にとって、シオンの山に上ることは大いなる喜びとなることでしょう。

② 主の家に住む

イザヤ33:17~24
 あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。あなたの心は、恐ろしかった事どもを思い起こす。・・・・私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。その鉄のくいはとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない。しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。・・・・まことに、は私たちをさばく方、は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。そこに住む者は、だれも「私は病気だ」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。

「遠く広がった国」に「麗しい王、威厳のある主」がともに住まわれます。「恐ろしかった事ども」には大艱難時代の獣の支配が含まれているでしょう。全ての敵は取り除かれ、平和な神の国が訪れ、主が永遠にともに住まわれます。
シオンに多くの川があると書かれています。現在のエルサレムには川はありませんから、これも新しいエルサレムについての記述です。主の御座からいのちの水の川が流れ出て、多くの支流に分かれるのかもしれません。渇く者は誰でもその水を飲み(黙示録21:6)、いのちの木の実を食べることができます。また、その木の葉が癒やすので(22:2)、病気の人はいなくなります。

新しいエルサレム、いのちの木、いのちの水の川

イザヤ4:2~6
 その日、の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。
主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。

  新しいエルサレムに住むことができるのは、主のさばきの霊と焼き尽くす霊によって清められ、いのちの書に名前が記された人々です。主はシオンの山に住み、贖われた聖なる民の永遠の住まいとなり、聖徒たちを守り、永遠のいのちを保証してくださいます。

黙示録7:7:14~17
「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

大艱難時代を通って清められ、義とされた聖徒たちは、新しいエルサレムの聖所で主に仕えます。主は牧者となって民を守り、いのちの水に導いてくださいます。

イザヤ書の「裁きの霊と焼き尽くす霊によって汚れを洗う」ことと、黙示録の「大きな患難から抜け出し、衣を小羊の血で洗って白くする」ことは、新しいエルサレムに入る前の最後の清めを表しています。イザヤ書の「仮庵」と黙示録の「幕屋」は同じ意味です。イザヤもヨハネも、主の再臨後のエルサレムが新しいエルサレムであることを教えています。

③ 天と地が一つになって神をほめたたえる

新しいエルサレムは、一辺が12,000スタディオン(約2,220km)の巨大な立方体の都で、純金でできています。高い城壁は金や宝石で飾られており、12ある門は真珠でできています。それぞれの門では御使いが番をしており、小羊のいのちの書に名前の記されている者だけが入ることができます。そこには神と小羊の御座があり、民は神の御顔を仰ぎ見て礼拝します。

エペソ1:8~12
 この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。
この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行う方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。

主は全ての御使いを伴い、天から降って来られます。新しいエルサレムに神の民と御使いが集まり、天にあるもの(御使いたち)と地にあるもの(人)が、ともに主を礼拝します。そのためにエルサレムの高さが2,220kmもあるのでしょう。天と地が主にあって一つとなって、神をほめたたえるのです。

メシア王国のエルサレムでは、安息日に主を礼拝し、律法に定められた例祭を祝います。

イザヤ66:22~23
 わたしの創る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くのと同じように――主のことば――あなたがたの子孫とあなたがたの名もいつまでも続く。新月の祭りごとに、安息日ごとに、すべての肉なるものがわたしの前に来て礼拝する。

ゼカリヤ14:16~17
 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍のである王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。地上の諸氏族のうち、万軍のである王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。

エルサレムをめぐる戦いが終わり、神の民とされた異邦人も新しいエルサレムで真の創造主を礼拝します。神の目的は、天と地にある全ての被造物がキリストにあって一つとなることです。全てのものはキリストによって造られ、キリストによって完成します。御国の民はエルサレムでその完成を喜び、とこしえに神をほめたたえるのです。

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