十字架を予表する旧約聖書の贖い:血を流すことによる罪の赦し

福音と人類救済計画
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前の記事では、イエス・キリスト最後の1週間の出来事を、出エジプトを記念する種なしパンの祭、過ぎ越しの祭、初穂の祭の流れと比較しました。

・イエス様は、ダビデの子として民衆から迎えられ、過越のために屠られる神の子羊(人類の贖いのための犠牲)に相応しい者であるか、宗教指導者たちから5日間にわたって吟味されました。
・そしてユダヤ人の裁判でも異邦人の裁判でも罪が無いことが証明され、完全な子羊として聖い血を流し、十字架で身代わりの死を遂げられました。それは、イスラエルの全家庭が過越の祭のために家中からパン種(罪の象徴)を取り除き、家族のために小羊を屠る、過越の祭の備え日の出来事でした。
・そして主は初穂の祭の日、義人の初穂として死者の中からよみがえられ、それにより、信じる私たちが義とされ、終わりの日によみがえることを確証してくださいました。

主はご自分のからだと血によって弟子たちと新しい契約を結び、人類が罪の支配と悪魔の奴隷から解放され、永遠のいのちを得ることができるように道を開いて下さいました。実に主は、出エジプトの過越に勝る、世の終わりの過越のため、つまり主に贖われた者が神の怒りと裁きから救出されて神の国に入ることができるために、十字架で死なれ、よみがえられたのでした。

今回の記事では、神様が十字架の贖いに備え、どのように人類救済計画を進めて来られたか、旧約聖書の出来事から探ってみます。

1.血によって罪を覆われたアダム

アダムとエバはエデンの園で神と交わり、神の祝福を受け、神の代理として地を治めるという使命を与えられていました。ただ一つの神の戒めは「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べる時、あなたは必ず死ぬ(創世記2:17)」ということで、これは神と人との「原契約」と言えます。ところが彼らは悪魔の言葉を信じて神の戒めを破り、その実を取って食べてしまいました。そして言い訳や責任のなすり合いをし、罪を認めて赦しを乞うことをせず、神の御心と神の愛から離れてしまいました。

罪の支払う報酬は「死」です(ローマ6:23)。アダムとエバは罪のために死ぬべき者となりました。死とは神との断絶、いのちの源である神から切り離されることです。人は霊的に死んだ者となって神から離れ、自分の存在意義や自己尊厳、生きる目的を見失い、神を知らないまま人生を送ります。そして肉体の死後、永遠に滅びてしまうのです。

しかし神は、罪を犯した二人のために動物を屠り、その皮を衣として着せてくださいました(創世記3:21)。神の戒めを無視し、神に背いた二人が肉体的に死んで滅びてしまう前に、神がまず動物を屠り、血を流されました

創世記9: 5
わたしは、あなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の値を要求する。・・・

レビ17:14 すべての肉のいのちは、その血がいのちそのものである。

神はその場でアダムとエバのいのちを取られたのではありませんが、人のいのちの代わりに動物のいのちが奪われ、人の血の代わりに動物の血が流されました。神は罪のない動物の血で人の罪を覆い罪人が死なずに神に立ち返るためのチャンスをくださったのです。人が神から切り離され、永遠に滅びてしまう前に、神との関係を回復するためです。ここに動物犠牲制度の原点を見ることができます。

レビ17:11 実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。

人の罪が動物に転嫁され、身代わりの動物の血が流されたので、人に対する神の怒りが宥められ、人は死ぬことなく神に近づくことができるようになりました。

2.信仰によって義とされたアベル

神はアダムの二人の息子たちの捧げ物をご覧になり、カインの捧げた大地の実りを退け、アベルの捧げた羊の初子を受け入れられました(創世記4:3~7)。

へブル人への手紙11:4
 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。

アベルのささげ物はカインのささげ物より「すぐれたいけにえ」であり、「良いささげ物」でした。神はささげ物を見て、アベルを「正しい人(義人)」であると証しされました。

カインが捧げたのは呪われた地から産出された作物でした。彼は熱心に働き、見事な初物の作物を携えて来たかもしれませんが、神は人間の努力や行いや働きの成果では満足されませんでした

アベルは最良の羊の中から肥えた初子を殺し、その「いのち」を捧げました。アベルは、身代わりの動物を捧げるなら神は自分を受け入れてくださると信じ、信仰によって捧げたのです。

殺された羊はアベルの身代わりに死んだことを表しています。罪ある人が聖い義なる神に近づく正しい方法は、自分の罪の身代わりに動物のいのちを献げることでした。

人は神の前に罪ある死ぬべき存在です。そのことを認め、身代わりのいのちを捧げたアベルの信仰を神はご覧になり、彼を正しい人(義人)であると証言されました。ここに、信仰義認の始まりを見ることができます(詳しくはアベルの信仰のささげ物)。

3.預言者・祭司として神と歩み始めたノア

へブル人への手紙11:7
 信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし信仰による義を受け継ぐ者となりました。

ノアは人類が罪ゆえに滅ぼされるという神の警告を受け、そのことばを信じ、恐れかしこんで家族のために箱舟を作りながら、100年もの間、人々に悔い改めを説きました。言葉と実際の行動を通して、神の御心とご計画を伝え続けたのです。ノアは、預言者、また伝道者としての使命を果たしたのです。

結局、神を畏れ、敬い、崇めるノアとその家族だけが箱舟に入り、神のことばを信じて行動したことによって滅びを免れました。ノアの信仰と対照的に、世は罪に定められ、信じなかった人々は大洪水によって全滅しました。ノアの人生は、信仰による義人の救いを予表しています。

大地から水が引き、箱舟から出たノアが最初にしたことは、主のために祭壇を築き、きよい家畜と鳥を全焼のささげ物として祭壇に捧げることでした。生き残ったノアと家族の身代わりに動物が殺され、焼き尽くされました。

全焼のささげ物は自分の全てを捧げること、献身を表しています。ノアは神の恵みを受けて滅びから救い出され、新しい人生を始めた者として、感謝とともに自分自身を神に捧げました。彼は神の恵みによって新生した人の型と言えるでしょう。

 ノアのささげ物は神に受け入れられ、その芳ばしい香りは神の怒りを鎮める宥めの香りとなりました。怒りは過ぎ去り、神は「決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。・・・再び、生き物全てを打ち滅ぼすことは決してしない」と決意されました(創世記8:20~22)。

ですから、ノアは自分たち一家を救っただけでなく、後に生まれる人類が神と平和を保ち、再び神の祝福を得ることができるように、神と人類との和解を仲介したと言えます。ここに祭司の働きの始まりを見ることができます。

預言者・伝道者・祭司の務めを果たしたノアは、将来訪れるメシアの型と言えます。また、大洪水による人類滅亡から生き残り、神と共に歩み始めたノアは、世の終わりの裁きから救われ、神の国で永遠に神と共に生きる信仰者の型でもあります。

4.血によって神と契約したアブラハム

  主はアブラハムに空の星を数えさせ、そのように子孫を増し加えると約束されました。アブラハムは主を信じ、それが彼の義と認められました。また主はカナンの地を所有として与えると約束され、それを確証するために、アブラハムと契約を結ばれました。

この時代の契約方法は、切り裂いた動物の間を契約の当事者が一緒に歩くというものです。これは、「この契約を絶対破らない。もし契約を破れば、自分がこの動物のようにされる」という、いのちを懸けた堅い誓いを表していました。当時の契約は動物を切り裂いて行うので、契約を「切る」と言いました。

神はアブラハムに3歳の牝牛と3歳の雄やぎと3歳の雄羊、山鳩、鳩のひなを用意するように言われ、アブラハムはそれらを二つに切り裂き、互いに向かい合わせに置きました。アブラハムが深い眠りに陥り、日が沈んで暗くなった時、切り裂かれた動物の間を、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが通り過ぎて行きました(創世記15:9~18)。

アブラハムと神との契約も、動物を殺し、血を流すことによる契約でした。ただし、切り裂いた動物の間を通ったのは主おひとりでした。

人間同士の契約は対等な立場でなされますが、不完全で死ぬべき人間は、永遠に生きておられる全能の神と対等に契約することができません

・人間同士の土地の売買では土地と代金を交換しますが、神と人との間ではそのような交換は成り立ちません。土地はそもそも神が創られた神の所有物です。代金とする金や銀も、この世界の全てのものは神の造られた神のものです。ですから、アブラハムが代金を払って神から土地を買うことはできません。

・アブラハムの子孫を空の星、海辺の砂のように増やすという約束は、アブラハムが生きている間に実現することではありません。神は永遠に存在され、約束を成し遂げてくださいますが、人はその実現を見届けることなく死んでしまいます。

ですから主は、アブラハムと対等の立場で契約を結ばれたのではありませんでした。それで神お1人が切り裂かれた動物の間を通られ、その間アブラハムは深い眠りに襲われ、通ることができなかったのです。

そのような経緯があるので、アブラハムと神との契約は一方的・無条件契約で、神だけが責任を持つ片務契約です。

神は真実な方であり、死ぬことがないので、主がアブラハムと結んだ契約――子孫繁栄と相続地に関する約束は必ず実現します。しかもアブラハム側が守るべき絶対条件がないので、彼と子孫たちの失敗によって契約が取り消されることはありません。ただ信仰により、恵みによって受け取ることができるのです。

アブラハムは神の約束を信じたことで義とされ15:6)、契約のしるしとして割礼を受けました17:11)。また、イスラエル民族は、約束を受け継ぐアブラハムの子孫であることを示すしるしとして割礼を受けます。

この契約は、将来、御子イエスによって人類に与えられる無条件の赦しと、神の国相続の約束につながっていきます。十字架で実現する永遠のいのちと永遠の神の国の約束も、神の恵みに基づく無条件契約です。そして主イエスを信じて約束を受け取るクリスチャンは、心の割礼として聖霊を受けたのです。

5.ひとり子のよみがえりを信じ、イサクを捧げたアブラハム

  イサクはアブラハムが百歳の時、正妻サラによって生まれ、アブラハムに与えられた神の約束を継承する正統なひとり子です。神はそのイサクを全焼のいけにえとして捧げるように言われました。もし彼が死んで終わったなら、アブラハムの子孫繁栄はありえず、土地の約束も実現しません。

アブラハムは、たとえイサクが死んでも、神は人を死者の中からよみがえらせることができるから、息子は必ずよみがえると信じました(へブル人への手紙11:19)。息子を連れて旅して3日目、遠くにモリヤの山が見えた時、アブラハムは同行したしもべたちに宣言しました。「私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る創世記22:5)。」彼はこの時すでに、イサクがよみがえると信じていました。

動物を切り裂いて契約したので神の約束は必ず実現し、イサクは必ずよみがえらなければなりません。イサクは結婚して子供を産み、孫やひ孫が生まれ、一族が増え広がって、将来生まれる多くの子孫たちも神の祝福を受け継ぐようになります。そしてアブラハム自身もよみがえり、約束の地を永遠に受け継ぐのです。

アブラハムは神の全能の力と、死者の復活を信じまだ見ぬ子孫たちの祝福を確信してイサクを屠ろうとしました。彼はその信仰を行いによって示したのです。

神はアブラハムの信仰を見て言われました。

創世記22:16~18
 「わたしは自分にかけて誓う──【主】のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」

アブラハムの子孫から「敵の門を勝ち取る子孫」が生まれます。アダムが罪を犯した時に神が言われたように、蛇の頭を踏み砕く女の子孫、悪魔の支配を打ち砕き、よみの門に勝利する救い主が生まれます。その子孫によって、人類は失っていた神の祝福を取り戻すことができます。神の園に迎えられて神と共に住み、いのちの木から取って食べ、死や苦しみから解放されるのです。

アブラハムは、神は死者をよみがえらせ、約束の地を与えてくださると信じました。その約束の地とは、「神が設計し、建設された堅い基礎の上に建てられた都、天の故郷(へブル人への手紙11:10、16)」、つまり「生ける神の都である天上のエルサレム(12:22)」です。神はアブラハムの信仰に応じて、ご計画を進めて行かれました。

6.よみがえりを信じて自分を捧げたイサク

アブラハムが一人子イサクを祭壇に捧げたことは、父なる神が御子イエスを献げることの型になっています。別の見方をするなら、イサクは、父なる神の御心に従順し、人類の贖いのために自分を死に明け渡したイエス様の型です。

イサクは目的地に着いて初めて、自分が全焼のささげ物となることを知ります。イサクの年齢は分かりませんが、この時すでに父なる神の御心を理解し、自分で決断できるほど、精神的にも信仰的にも成長していたと考えられます。彼は薪を背負って運ぶほど力がありましが、逃げ出すことなく縛られ、屠られるために自分を明け渡しました。

彼もまた、全能の神が自分を生き返らせ、子孫と相続地の約束を実現してくださると信じたのでしょう。信仰と従順が試され、神と神の約束のために献身したイサクは、死に至るまで従順された御子イエスを予表しています。

神がイサクの身代わりに雄羊を備えてくださったので、アブラハムはその羊を全焼のいけにえとして捧げました。死を覚悟し、すでに心の中で死んでいたイサクは、比喩的に新しい人としてよみがえり、神にあるいのちを受け取りました。それはイエス様の死からの復活を表す型であると言えます。そしてまた、イエス様の身代わりの死とよみがえりを信じ、主とともに死んで新しく生まれる私たちクリスチャンの型でもあります(参照:イサクの信仰)。

信仰と従順によって、神の契約は「信仰の父」アブラハムから「信仰の子」イサクへ継承されました

7.神とイスラエル民族との契約と動物犠牲制度

神の契約はアブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへと引き継がれ、子孫たちは増え広がっていきました。神はエジプトで奴隷とされていたイスラエル民族を顧み、解放し、約束の地へと出発させてくださいました。出エジプト前夜、死の使いはエジプトの全ての初子を滅ぼしましたが、イスラエル人の家の鴨居と門柱に塗られた子羊の血を見て、イスラエル人を滅ぼさずに過ぎ越して行きました。子羊の血と肉は、やがて人類の罪を赦すために裂かれる御子のからだと、流される御子の血を予表していました。

神はその後、アブラハムと結ばれた契約を、出エジプトしたイスラエル民族と更新されました。

 出エジプト24:4~8
24:4 モーセは【主】のすべてのことばを書き記した。モーセは翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、また、イスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。24:5 それから彼はイスラエルの若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のささげ物を献げ、また、交わりのいけにえとして雄牛を【主】に献げた。24:6 モーセはその血の半分を取って鉢に入れ、残りの半分を祭壇に振りかけた。24:7 そして契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らは言った。「【主】の言われたことはすべて行います。聞き従います。」24:8 モーセはその血を取って、 民に振りかけ、 そして言った。 「見よ。これは、これらすべてのことばに基づいて、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。 」

モーセは全焼のいけにえと和解のいけにえを祭壇に捧げさせ、契約の血を祭壇と民に注ぎかけました。これにより、アブラハムへの契約がイスラエル12部族へと継承されました(シナイ契約)

さらに神は、イスラエル民族の中に祭司職を設け、動物犠牲を捧げることによって罪を赦す制度を開始されました。祭司たちは日ごと、月ごとにいけにえを捧げ、毎年、大贖罪日にはイスラエル全民族のために贖いを行いました。

イスラエル民族は、犠牲動物の表していた本体――神の子羊である御子キリスト――が来られる時まで、動物の血を流し続けました。しかし動物の血は、罪を完全に取り除くことができませんでした。神の時が来て御子イエスが遣わされ、十字架の死によって聖い血を流されるまで、動物犠牲制度では完全な罪の赦しが実現することはなかったのです。

次の記事では、出エジプトの過ぎ越しに予表されていた十字架による贖いについて詳しく学びます。

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