人とはどのような存在か(3)たましいのよみがえり、第一の復活と死に勝利した神の子の完成

人とはどのような存在か
城壁の見えるオリーブ山で復活を待つユダヤ人の墓地
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死の問題の解決は「終わりの日のよみがえり」にある 

前回学んだように、聖書で教える「死」とは、「生きもの(ネフェシュ)」から「いのちの息(神の霊)」が出て行き、「からだ」がちりに帰ることです。「ネフェシュ」は「たましい」と訳されますが、人の心や知・情・意などの内面的・精神的な部分だけを指しているのではなく、息をして肉体的・精神的に活動をしている、命のある存在そのものを指しています。

人が死ぬと、たましいは雲の上の天国や別次元の世界で活動しているのではありません。すべての死者はよみに下り、身体は朽ち果て、たましいは活動を停止し、よみがえるまで意識活動はしていません。また、たましいは不滅の存在ではないということも御言葉から学びました。

けれども、イエス・キリストを信じる人々は、キリストのいのち(血の代価)によって贖われているので、よみがえって永遠のいのちを受けるという希望が与えられています。

 聖書の教える「救い」は、「死んだ人がどうなるか」ではなく、「復活した人がどうなるか」に関することです。聖書で「救われる」とは、死者がよみがえった後に永遠のいのちが実現することであり、「滅びる」とは、よみがえった後に裁きを受けて永遠に滅びてしまうことなのです(ヨハネ5: 28~29)。

1. 死者のいのちは復活するまで中断している 

① 死は「休み」や「眠り」と表現される

聖書は、死者がからだを失い、精神的に活動していないことを、眠っているようなものだと教えています。

使徒13:36
ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました

神に愛されている人・ダニエルは、「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ(ダニエル12:13)」と言われました。死んでちりに帰って終わりではなく、世の終わりに復活して相続地を受け取ると約束されたのです。

死は「眠り」「休み」のようなものです。それは、からだが朽ち果てていても、人はまだ完全に滅んだのではなく、活動を停止して復活を待っているからです。

ステパノは石打ちにされ、主イエスの御手に霊をゆだね、眠りにつきました。(天に帰ったのは霊だけで、たましいはよみに下りました。)

イエス様は、マルタとマリヤの兄弟ラザロが死んだ時、「ラザロは眠っている」と言われました。ヤイロの娘が死んだ時も「娘は眠っている」と言われました。そして、ご自分が約束されていたメシアであることを証明されるために、ラザロとヤイロの娘を死から生き返らせましたが、これは一時的なもので、二人とも再び死を迎え、今はよみで眠っています。

② 信仰の戦いを終えて、世の終わりの復活まで休む

使徒ヨハネは、パトモス島で見た世の終わりの幻の中で、「獣」と呼ばれる独裁者が現れて世界経済を掌握し、売買のために全世界の人々に「獣の刻印」を受けさせ、いのちの書に名前の記されていない者たちが皆、獣を礼拝するようになるのを見ました(黙示録13章)。

この時、3人の御使いが現れて地上に住むすべての人々に永遠の福音を語り、獣の刻印を受ける者には神の怒りが注がれ、ゲヘナの苦しみがあると伝えます。そして、獣を神と崇めない者は殉教して死ぬことになるが、イエス様に対する信仰を保ち続けるようにと聖徒たちを励まします。

黙示録14:13
 「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」御霊も言われる。「しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行いは彼らについて行くからである。」

大患難時代に信仰を守り通して殺された者たちは、主の再臨まで休んでいます。その忠実な生き方と信仰の戦いは主に覚えられています。

 義人のたましいは死後、休みに入り、世の終わりの復活を待ちます。よみがえるまで活動していません。

2.希望は「終わりの日のよみがえり」にある

① 全ての人はアダムの罪のために死に、キリストによって生かされる

全ての人はアダムの子孫であり、罪人として生まれ、胎児の時から罪ある存在です。生きている時にすでに有罪が確定し、そのままでは肉体の死後、裁きの時が来ると必ず滅びる運命にあります。

この罪人に無罪放免の恩赦を与える方、それが救い主イエス・キリストです。

ローマ3:23~24
 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 

パウロは第一コリント人への手紙15:13~19で、もしキリストが復活されなかったのであれば
・使徒たちはキリストが復活したとうその証言をして、神に逆らっていることになる
・キリスト信仰も宣教も、実質の無い虚しいものになる
・クリスチャンは世の全ての人の中で一番哀れな存在で、依然として罪の中にいることになる
・キリストにあって死んだ者たちは滅んでしまったことになる
と語っています。

けれども、パウロは続けてこう宣言します。

Ⅰコリント15:20~22
 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

キリストの身代わりの死を信じた人は、すでにキリストと共に十字架で裁かれ、キリストと共に死んでしまったと見なされます。キリストの中にある者は、すでに裁かれてしまった(審判が完了した)のです。そしてキリストが復活されたように、新しいいのちに生きることができます。

ローマ6:3~5

キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

キリストとともに新しく生まれ、いのちにあって歩む者は、主の再臨の時に永遠のいのちを持つ存在として復活することができます。

ヨハネ1:12
 この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

クリスチャンは、罪のない神の子どもです。神は永遠に生きておられる方ですから、神の子とされた人々も復活し、永遠に生きる存在となるのです。

② クリスチャンの望みは「からだが贖われる」こと

救いは復活によって実現します。パウロは、救われている人は「からだのよみがえり」を待ち望んでいると語っています。

ローマ8:22~25
 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます
 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

私たちは、「死んでちりに帰ってしまった人が新しい体を持って地上に現れる」こと、「存在しなかった人が目に見える生きた存在として出現する」という望みを持っています。そのために、死者を復活させ、永遠のいのちを実現させてくださるメシアの再臨を待ち望んでいるのです。この希望を持っている人が救われている人です。

へブル9:27~28
 人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

イエス様は私たちの救いを完成させるために再臨されます。

③ イエス様の約束は終わりの日によみがえらせること

ヨハネの福音書5章で、イエス様はご自分が死人をよみがえらせるメシアであり、いのちを与える権威と裁きを行う権威を持っておられることを宣言されました。

ヨハネ5:21~22,24~25
 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。
・・・まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく死からいのちに移っていのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。

イエス様の語り掛けを聞いて信じた人は、死からいのちに移されました。その人は、終わりの日によみがえると約束されています。

ヨハネ6:39
 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。

ヨハネ6:40
 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます

ヨハネ6:44
 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

ヨハネ6:54
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます

終わりの日によみがえることのできる人は、父なる神様がイエス様に与え、イエス様のもとに引き寄せてくださった人で、イエス様を救い主と信じ、十字架の身代わりの死(裂かれた肉と流された血)で贖われた人です。その人はイエス様が再臨される時、復活して永遠のいのちを持ちます。
クリスチャンはイエス様のこの約束を信じて待ち望み、再臨と復活の希望を伝えるべきです。

④ よみがえって神からの報いを受ける

アダムの罪以来、神様が進めて来られた人類救済計画は、イエス様を信じる者が終わりの日によみがえり、永遠のいのちを持つ時に実現します。

死者がよみがえる時、個々人に対するさばきが確定します。すべての人はよみがえってから、いのちか滅びかの報いを受けます。死後すぐにパラダイスやゲヘナに行くわけではありません。

ヨハネ5:28~29
 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。

ダニエル12:1~2
 国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。

ダニエルは、イスラエル民族のよみがえりについて教えられました。「あなたの民」とはイスラエル民族で、「あの書」とはいのちの書のことです。いのちの書に名前が記されている者は、「ヤコブの苦難」として知られている大患難時代の終わりによみがえり、永遠のいのちを受けます。
クリスチャンは、キリスト・イエスを信じる信仰により、アブラハムの子孫とされ、イスラエル民族に加えられた者ですから、イスラエル民族と共に約束を受け継ぐのです。

ピリピ3:20~21
 私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 クリスチャンに与えられた救いの約束とは、「霊魂を天国に連れて行く」ことではありません。私たちの希望は、終わりの日に不滅のいのち(朽ちない身体)を持つ神の子としてよみがえり、神と共に永遠に生きることなのです。

3.第一の復活と第二の死

全ての死者は世(時代)の終わりまでよみで眠っています。よみがえった後で受ける裁きには2種類あります。

イエス様が再臨され、新しい時代(神の国)が始まる時に第一の復活が起こります。そして千年間が過ぎ、悪魔が滅ぼされた後で、第一の復活に与れなかった人々の裁きがあります。

① 千年期前のよみがえり(第一の復活)

イエス様が再臨される時によみがえり、栄光の体に変えられた人は、永遠のいのちをいただいて御国に入ることができます。これが第一の復活です。

イエス様が地上に戻って来られると、悪魔が捕らえられ、底知れぬところに投げ込まれ、千年間閉じ込められます。そして、信仰のために殉教した人々がよみがえり、王となって治めます(黙示録20:1~6)。

黙示録20:6
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。

この第一の復活で不滅の体に変えられた人は、二度と死ぬことがありません。

② 千年期後のさばきと第二の死

メシア王国の千年間が過ぎると、悪魔が解き放たれ、諸国の民を惑わし、最後の反逆を試みますが、反逆した人々は天からの火で焼き尽くされてしまいます。それから第一の復活に与れなかった人々が一人一人、生前の行いに応じて裁かれます。

黙示録20:11~15
 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。
そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

最後の審判で火の池(ゲヘナ)に投げ込まれた者は、身体もたましいも焼き滅ぼされ、二度と復活することがありません。

すべての死者は、よみがえった後で裁きを受けます。その時、永遠のいのちか永遠の滅びかが確定するのです。

4.復活した人の記憶や人格はどのように戻るのか?

人間は、罪のために造り主である神から離れ、罪と悪魔の支配下で自己中心な生き方に突き進みました。環境や人間関係の中で傷を受け、良心が劣化し、また肉体も病や老化により衰え、やがて死んでいきます。

死んだ人はもはや、人生の記憶を思い出すことも、蓄えてきた知識・習熟した技術・経験を生かすこともできず、人間関係も失われ、人間性や人格を表現することもありません。

しかし、神様が罪のない全く新しい体を作ってくださり、天に帰っていた霊を吹き込んでくださると、人は新しい体を持つ神の子として復活し、生命活動を再開することができます。意識が戻り、過去の記憶と人格を取り戻します。

でも、どのようにして?

これについては聖書に何も教えられていませんが、コンピューターにたとえて考えてみましょう。

コンピューターには目に見える機械(ハードウェア)があり、その中には目に見えない機能(ソフトウェア)が組み込まれています。ハードウェアとソフトウェアが揃っていて、しかも電気が通っているときだけ、目的にかなった働きをすることができます、電気が通っていなければただの物体であり、役には立ちません。

人間も同様に、目に見える肉体(ハードウェア)と、目には見えない生命維持や精神活動のシステム(ソフトウェア)があり、いのちの息(電気に当たる)を吹き込まれているので、人(ネフェシュ)として存在し、活動することができます。いのちの息が出てしまえば死体であり、全ての活動は停止します。

手足、目・耳・鼻・口、循環器、呼吸器、消化器、脳神経などがハードウェアにあたり、DNAに書き込まれたプログラムや遺伝情報、知性、思考力、創造力、記憶力、感性、意思など内的・精神的機能(心)がソフトウェアにあたります。

そして身体と心を通して活動し、学習し、成長し、人や自然と関わり、喜怒哀楽を体験し、成功体験・失敗体験を積み、一人一人の能力、思想、人格などが形成されていきます(データにあたります)。

新品のコンピューターは問題なく正常に作動し、性能の差はあっても、その働きの結果をデータとして蓄積していきます。長年の使用によって故障し、ウイルスの被害を受け、ハードもソフトも古くなり劣化し、やがて使用停止する時が来ますが、その前にデータをバックアップし、さらに性能の良い新しいコンピューターに移し替えるなら、さらに効率よく作業を続けることができます。

人間は病気、老齢、事故、災害などで死を迎える時が来ます。神からの「霊=いのちの息」が取り去られ、遺体と化し、それまで築き上げてきた知識、技術、記憶、性格は失われたかのようです。

けれども神様は、私たち一人一人のデータ(言葉、行い、性格、経験、知識、働き、業績、信仰、愛の行い、悔い改めなかった罪など)をすべてお持ちです。人は死んで身体が朽ち果て、その人自身は一切の記憶や感情を失っていても、神様はデータを保存しておられます。

神様が新しい栄光の身体を造ってくださり、主の御手に帰っていた霊を吹き込み、クラウド上の個人データをその新しい身体にダウンロードしてくださると、人(ネフェシュ)は目覚め、生命活動を再開します。そして死ぬ以前の自分に関する全ての情報が戻り、記憶、感情、知識、能力、人格・・・が復元されます。
しかも、天から与えられた不滅の栄光の身体はウイルス(罪)によって誤作動することなく、故障したり破壊されたりすることもなく、神の御心にかなって正しく活動し続けることができます。

あくまで一つのたとえですが、このように考えると分かりやすいのではないでしょうか。

5.死と滅びに対する勝利は十字架と復活にある

人とはどのような存在でしょうか?

人は、創造主によって造られた被造物、他の生物と同じ物質(地のちり)から造られ、神の息(霊)を吹き込まれて生きる生き物(ネフェシュ)です。本来、人は神の愛と親密な交わりと喜びの中に生き、祝福を受け、神の創造された世界を神の代理人として正しく支配し、永遠に神と共に生きるために造られたのでした。

最初の人アダムの罪のため、全ての人はエデンの園の祝福と永遠のいのちを失い、神から離れて罪と悪魔の支配下に陥り、堕落してしまいました。
神のいのちの息を与えられ、神が許される期間だけ生きて活動することができますが、いのちの息が取り去られると死に、からだはちりに返ります。すべての人の行く「よみ」には知識も感情も活動もなく、いのちの営みはありません。すべての人は罪を犯し、神からの栄誉を受けることができず、そのままでは、人は皆、滅びなければならないのです。

けれども神は、アダムが罪を犯したその時すでに、人間を罪と死と滅びから救い出し、神の支配と祝福の中に取り戻すため、人類救済計画を開始されました。ご自分の御子を人(アダムの子、ちりの身体を持つ死ぬべき存在)として地上に送り、アブラハムの子孫、ダビデ王の子孫として生まれさせ、全人類の罪を御子に負わせて十字架で裁かれました。その身代わりの死によって、全人類の罪の贖いを完成されたのです。

このキリスト・イエスを救い主と信じるなら、キリストと共に裁かれて死に、新しく生まれた神の子と見なされます。御子イエス様の尊い血潮によって罪から贖われ、創造主なる神との関係を取り戻すことができます。

神の子とされたクリスチャンには、世の終わりに復活し、不滅の栄光の体に変えられ、失っていた神の楽園に永遠に住むことができるという約束が与えられています。死ぬべき身体を持ち、滅びる運命にあった存在が、神の恵みにより、ただ信じることによって、永遠の祝福を受け取ることができるのです。

 罪ある滅びるべき人間が死に勝利し、永遠のいのちを受け取るのは復活によります。聖書的な救いの信仰とは、メシアの死によって自分の罪が贖われたことを信じ、メシア再臨の時、復活して永遠の神の国を相続すると信じることなのです。

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