これまで人とはどのような存在であるかについて、人の成り立ちと存在目的、死と死者の状態、たましいの意味とたましいの救い、第一の復活と第二の死、肉の人と御霊の人、新しい人と古い人について学びました。今回は、罪と堕落、贖いと救いについて定義し、人のあるべき姿と救いの完成に至るまでの3つの段階――義認、聖化、栄化――を学び、このシリーズをまとめます。
1.人のあるべき姿
人は、神の意志と目的に従い、神の似姿に創造された尊い存在です。
① 神のご性質に似せて造られた
人は神を示す存在であり、それ故、人には尊厳があります。
創世紀1:26~27
神は仰せられた。「人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう・・・」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
目に見えない「神のかたち」とはどのようなものでしょうか? 神は霊であり、光(栄光)であり、いのちそのものとして永遠に生きておられる方です。
神のかたちに造られた人間も霊的存在であり、神の栄光を現す存在であり、永遠に生きる可能性を持つ存在として造られました。
聖書の神は人格的存在です。愛、義、聖、善、真実、憐れみ、忍耐、恵み…に満ちておられます。
神に似せて造られた人にも、神のご性質が分与されています。ガラテヤ人への手紙5:22~24には、御霊に導かれて歩む人は御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)を結ぶことが教えられています。御霊の働きによってキリストに似た者へと造り変えられるなら、神のご性質を表すようになります。
② 神に祝福された神の代理人
神は全知全能の創造主・世界の所有者であり、知恵と力によって全地を支配しておられます。
人は全能の神の知恵と力にあやかり、正しく考え、判断し、決定することができ、創造主に似た者として物事を創り出す能力も備えられています。全ての良いものは光を創られた神から与えられます。
人は神の代理人として、神の創造された良い世界を正しく管理し、治めるために、神の目的と神のご計画に従って造られ、使命を果たすことができるように祝福されていました。
創世記1:26、28
こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地の全てのもの、地の上を這う全てのものを支配するようにしよう。・・・神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う全てのものを支配せよ。」
神の祝福を受けて子孫が繁栄し、互いに愛し合い、生き生きと活動し、世界を正しく管理し、幸いな生活を送ることが神の御心でした。
2 罪と堕落と死
最初の人アダムが罪を犯したため、全人類が罪人となりました。
① 罪:創造主から離れ、神を無視し、自我に生きること
神は人に一つの戒めを与えられました。それは、「善悪の知識の木の実を食べると必ず死ぬ」ということです。
蛇は「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです」と偽りました。蛇は「神は人に神のようになって欲しくないので、嘘をついている」と匂わせました。神を批判し中傷し、神の正しさと真理に対して疑いをもたらして女を誘惑したのです。
神と神のことばを疑うことから人の罪が始まりました。
旧約聖書では4種類の「罪」を表す言葉が使われています。
・ハーター:失敗する、道を誤る、的(目標)を外す、つまずく、失っている
・シャーガー:過ち、迷い出る、誤った行為
・アーオーン:曲げる、咎、悪の行為
・ペシャ:背く、神への反逆
女は蛇の偽りの言葉を信じ(ハーター)、まず自分が食べ、夫にも与えたので、アダムも食べました(シャーガー)。実を食べたのかと神に問われた時、アダムは女に、女は蛇に責任転嫁しました(アーオーン)。戒めを破っただけでなく、罪を認めず自己正当化を図り、「あなたがこの女を連れて来たからだ」と神に非難の矛先を向けました(ペシャ)。
騙されて実を食べたけれども、罪を認めて悔い改めたなら、事態は変わっていたでしょうか? 彼らはすでに神のように善悪を知り(自分で善悪を定め)、神の基準に従わず、自分の理論と基準と判断に従って生きることを始めていました。罪を言い逃れする方法、責任転嫁する方法を見つけ出し、神より自分が正しいとしました。それは神の上に立つこと、自分が神のように振る舞うことで、そこには、被造物の分を超えて「創造主のようになれる」という高ぶりが潜んでいました。人は、神から独立して自分の好む道を進むことを選択したのです。
神との親密な関係が失われ、神は人が永遠に生きることがないように、いのちの木への道を閉ざし、神の園から追い出してしまわれました。
② 堕落:神のかたち・神の似姿が損なわれる
禁断の実を食べた直後、二人の目は開かれ、自分たちが裸であることを知りました。彼らを覆っていた神の栄光が去っていたのです。彼らはお互いの違いを目にし、生まれて初めて恥意識が生じ、いちじくの葉を綴り合せて腰の覆いを作りました。
主が園を歩き回られる音を聞いた二人は、裸であることを恐れ、主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠しました。罪の結果、神に対する恐れが生じ、神から逃げ隠れたのです。
神との交わりが断たれた結果、人は神と親しくお会いし、神を拝することができなくなりました。そして神を見上げるのでなく、罪人同士が日々互いを見て生きるうちに、神の姿がわからなくなったのです。神の似姿に造られた人の自己像は歪められ、神のかたちが損なわれていきました。そして夫と妻の関係に、人と自然界との関係に問題が生じることになりました。
罪を犯して堕落したアダムは神の似姿から離れていき、彼の似姿に彼のかたちの息子が生まれました。アダムの息子は堕落したアダムの似姿を受け継いだのです。
世代を重ねるにつれ、地上に悪が増大し、人の心に計ることは皆、いつも悪に傾きました。全人類がアダムのかたちを受け継ぎ、神のかたちから離れてしまったのです。
ローマ1:21~22
彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いは虚しくなり、その鈍い心は暗くなったのです。自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。
善悪の知識の木の実を食べたら目が開かれて賢くなるはずでしたが、神に離反した人間は、逆に神の知識と知恵を失い、思いは虚しくなり、心は暗くなり、愚かな存在となっていきました。人は神の祝福と保護から外れ、悪魔の影響を受けるようになりました。
ローマ3:10~12
・・・「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」
神から離れ、無用の者となった人類を救済するために、神によって生み出された祭司の国・イスラエルでさえ、主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去り、反抗に反抗を重ねていきました(イザヤ1:4~5)。
堕落した人間は、神の似姿・神のかたち(神に似た品格、性質、能力)を損ない、神の御心とご計画、自分の存在目的と使命を見失ったのです。
③ 罪の報い:死と永遠の滅び
人は霊的存在から肉的存在へ堕落し、神との関係が壊れて神の園から追い出され、いのちの木の実を食べて永遠に生きることができなくなりました。
アダムの子孫である全ての人は肉体の死を迎えます。神が分与されたいのちの息(霊)を取り戻されるので、人は死んでちりに帰ります。
人は誰でも、神から与えられた寿命が尽きる前に、罪深い生活を悔い改めて神に立ち返ることが必要です。悔い改めない罪人は無用の者として、火と硫黄の燃えるゲヘナで焼き滅ぼされてしまいます。これが第二の死(永遠の滅び)です(ゲヘナと永遠の滅びについてはこちら)。
3 人間の贖いと救い
ローマ6:23
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
全人類を罪の呪いから贖いだすため、神の御子が罪の無い聖い血を捧げてくださいました。尊い御子の血だけが人の罪を完全に取り除くことができます。
① 贖い:代価を払って買い戻すこと
罪が赦されるためには、血の代価を支払わなければなりません。それは死ぬことを意味します。
へブル9:22
律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。
本来、罪人自身が罪の代価として自分の血を流さなければなりませんが、イエス様が全人類に代わってご自分の血を流し、いのちを捨てて下さり、罪人を死と滅びから買い戻してくださいました。
マルコ10:45
人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
律法の呪いからの贖い
ガラテヤ3:13
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
律法と訳されているトーラーという言葉は、一般的にはモーセ五書を指しますが、本来の意味は、「神の教え・導き・道」です。トーラーは全ての人を主のもとに立ち返らせるための「いのちの道、義の道、生きる道」を教えるもので、「戒め・命令」もトーラーの一部、広い意味では聖書全体がトーラーです。
肉なる者は誰も律法を行うことによっては義と認められません(ガラテヤ2:16)。罪ある者は誰も律法を守り行えないからです。
イエス様は「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言われましたが、それは、ご自分がトーラー(律法)であるという意味です。神の御言葉(律法)である主ご自身が、私たちの律法違反の罪に対するあらゆる刑罰(呪い)を身代わりに引き受けてくださったのです。
最も重い刑罰は永遠に神から引き離されて滅びること、つまり永遠の死です。
罪からの贖い
アダムの血を引く全人類は神に背いた罪人です。キリストは人類の罪を贖うために死なれました。
エペソ1:5、7
神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。・・・このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。
主は、人が犯す最も致命的な「神に対する背きの罪(ペシャ)」を赦してくださったのです。
Ⅰヨハネ2:2
この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげ物です。
主の十字架は、堕落して無用の者となった全人類の背きの罪を赦すだけでなく、堕落し、崩壊していく世界全体を罪から贖うための犠牲でもありました。私たちが贖われて栄光のからだに変えられるように、世界が贖われて新天新地・新エルサレムが出現します。
・私たちはキリスト・イエスにあって、罪に対しては死んだ者、神に対しては生きている者です(ローマ6:11)。
・私たちは律法の下にではなく恵みの下にあるので、罪が私たちを支配することはありません(6:14)。
・神の賜物はキリスト・イエスにある永遠のいのち、罪から解放された者の行き着く先は永遠のいのちです(6:22~23)。
・キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません(8:1)。
② 救い:神の怒りと永遠の滅びから救われる
人にとって最も必要な救いは、世の終わりに注がれる神の怒りと永遠の火の刑罰からの救いです。
ローマ5:9~10
ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。
キリストとともに十字架につけられて律法に対して死んだ者は、神の御子を信じる信仰により新しく生まれ、キリストのいのちによって生きています。(ガラテヤ2:19~20)。その人はすでに裁きが終了し、神との関係が回復して神の子とされているので、世の終わりに裁かれることなく、永遠のいのちを得て永遠の御国を受け継ぐことができます。
ペテロは悔い改めて今の曲がった時代から救われるように勧めました(使徒2:40)。悪魔が支配しているこの時代が終わると、主が再臨されて新しい時代(キリストの王国)が始まります。それは回復の時であり、万物の改まる時です(3:19~21)。
神との関係が回復し、朽ちないからだに変えられて新しい時代・主イエスの王国に入ること、それが救いの最終的完成です。救われた人は、アダムが失った全てのもの――神との関係、神の似姿、神の祝福、神の楽園、永遠のいのち――を取り戻すことができます。
4 神の子完成の道のり:義認、聖化、栄化
① 義認と新生(救いの始まり)
新生:神の子の誕生
新生するとは、肉的存在(古い人)がキリストと共に裁かれて死に、キリストの復活と共に霊的存在(新しい人)として誕生したという意味です。罪人が死んで、神の子が生まれたのです。
ヨハネ1:12
この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。ローマ6:3~4
・・・キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
キリストは神のひとり子ですが、私たちは霊的事実として新しく生まれた神の子とされています。
ローマ8:14~16
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。・・・子とする御霊を受けたのです。・・・御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。
義認:罪のない正しい人であると認めること
アダムの違反により全ての人が不義に定められましたが、イエス・キリストの義の行為により、信じる全ての人が義と認められ、いのちが与えられます(ローマ5:12-19)。
ローマ3:22~24
すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
キリストにつくバプテスマを受けた人はキリストを着た(ガラテヤ3:27)のです。キリストはご自分の義を私たちに着せてくださいました。私たちが黒くても、キリストの純白の衣で覆われているので、父なる神は内側も白いと見なしてくださるのです。
キリストが私たちの罪をご自分の身に受け、身代わりに裁かれて罪の代価(負債)を払ってくださったので、キリストを信じる人は義と認められ、もはや払うべき負債(罪の代価)がありません。
② 聖化(救いの進展)
聖化の過程とは、イエス・キリストを信じた人が神の子として成長し、肉的性質から霊的性質へ変えられ、失われていた神のかたちを再構築していく過程です。
古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る
エペソ4:22~24
その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。コロサイ3:9~10
・・・あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。
罪の無い純白の衣(キリスト)を着せられた私たちは、黒から白へと内側が変えられていきます。
主と同じかたちに変えられる
Ⅰヨハネ 3:2
愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。Ⅱコリント3:18
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
イエス様は「わたしを見た者は父を見た」と言われました。主は目に見えない神のかたちです。贖われた神の子たちは、御霊の働きによって「堕落したアダムのかたち」から、「主と同じかたち」へと変えられ、失われた「神の似姿」を取り戻していくのです。
③ 復活と栄化(救いの完成)
天に属する方のかたち
神の子たちの救いの完成は、主と同じような栄光のからだに変えられる(栄化される)時に実現します。
Ⅰコリント15:42~44、49
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。・・・私たちは、土で作られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。
復活したからだは罪の無い御霊に属するからだ、天に属する方のかたちです。
ローマ6:5
私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。
朽ちるからだは朽ちない神の国を相続できない(Ⅰコリント15:50)ので、神の子たちには復活されたイエス様と同じように、朽ちない栄光のからだが与えられます。
キリスト再臨と栄化
終わりのラッパが鳴ると、義と認められた死者は朽ちないものによみがえり、朽ちるべきものが朽ちないものを着、死ぬべきものが死なないものを着て、死に対する勝利が実現します(Ⅰコリント15:52~56)。
Ⅰテサロニケ4:16~17
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
主が再臨されたなら、キリストにある者は、生きていても死んでいても栄光のからだに変えられます。私たちの希望は主の再臨にかかっています。
テトス 2:11~13
すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。
4 まとめ
人は罪を犯して堕落し、神のかたちを失い、神の園を追い出され、死ぬべき肉的存在となりました。神との関係が壊れ、神の栄光の臨在から締め出され、祝福と永遠のいのちを失いました。神との交わりを失って神の恵みと守りから外れ、闇の世界に落ち込んだ人は、人生の様々な体験を通して傷を受け、罪を犯し、ますます神の似姿から離れていきました。
自分の実態を認めず、悔い改めず、創造主の下に帰って来なかった罪人は、神の国に迎えられることがありません。悪人は最後の審判の時が来ると永遠に滅ぼされてしまいます。
キリストの身代わりの死と復活を信じた者は、キリストとともに死んで裁きが終了し、罪の無い神の子として新しく生まれた者とされます。光の世界に引き戻され、神との交わりが回復し、御言葉と御霊の働きによって神の子として造り変えられていきます。
ある人は、不幸な境遇に生まれ、不当な待遇を受け、悪意と苦しみと傷を受けたために、妬み・不満・怒り・憎しみに囚われたり、罪意識や劣等感に悩まされたり、否定的・消極的に考える習性を身につけてしまったかもしれません。主がその人を解放し、キリストにあるアイデンティティを取り戻させて下さいます。
またある人は、自分の努力と能力で願うものを手に入れようとして、人を傷つけ、悪を行い、利得をむさぼったり、あるいは自己中心で傲慢で、人を見下し、神のように振舞ってきたかもしれません。主は、その人を遜った愛のある人に変え、祝福を流す器へと変えて下さいます。
Ⅰペテロ5:10
あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
救われたクリスチャンの人生は、神の似姿に回復し、神の子として完成されるための歩みであると言うことができます。秘訣はキリストの死と復活に同一化することです。
テトス3:5~7
神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。
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