人はどのような存在か(5)たましいについて真理を知り、新しい人として生きる

人とはどのような存在か
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1.たましいの死と復活について正しく理解する

① たましいは不滅という悪魔の嘘

悪魔は偽りの父と呼ばれています。エデンの園で悪魔はエバを惑わし、禁断の実を食べさせることに成功しました。彼は何と言ってエバを騙したでしょうか?

創世記3:4~5
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

神様はアダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と言われました(創世記2:16~17)。

神様は食べると「必ず死ぬ」と言われ、サタンは「決して死にません」と主張しました。アダムはやがて死に、肉体はちりに帰りました。

世の多くの人々は、肉体は朽ちても人の魂は生きていて、目に見えない霊魂の世界に行き、善人は天国で幸せに暮らし、悪人は地獄で苦しめられていると考えています。

聖書の神様を信じるクリスチャンにも、たましいは不滅であると信じている方は多いと思います。でも神様はイスラエルの民に、偶像礼拝や悪事を行い、罪を犯した「たましいは必ず死ぬ」と言われました。

エゼキエル18:4、20(新改訳2017)
見よ。すべてのたましいはわたしのもの。父のたましいも子のたましいも、わたしのもの。罪を犯したたましいが死ぬ。・・・罪を犯したたましいが死ぬのであり、子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい人の義はその人の上にあり、悪しき者の悪はその者の上にある。

神様はたましいからだもともにゲヘナで滅ぼすことのできる方です(マタイ10:28

地のちりで造られたからだに「いのちの息=霊」が吹き込まれて、アダムは生きるもの呼吸する、いのちのある、生きたたましい)となりましたたましい(ネフェシュ、プシュケー)身体を持ち、呼吸する生き物の本質的なもので、生存の根源であり、感情や意思を生み出し、知性や人格を表現します

「アダム=生きたたましい」から「いのちの息=霊」が出て息をしなくなると、からだは朽ち果ててちりに帰ります。目や耳がなければ情報を取り込むことができず、神経がなければ脳に情報を送ることができず、脳がなければ、考えたり理解することができません。死者のたましいは完全に機能停止しています。神様があなたは必ず死ぬと言われたように、罪を犯したたましいは死ぬと活動を停止し、もはや知性や感情や記憶はありません。聖書ではこれを「たましいが眠る」と表現しています。(参照:死と死者の状態、たましいの救いとは

「神に反逆しても死なない、人は神のようになることができる」というのが悪魔の最初からの嘘でした。魂は不滅であるという思想は、人が神のようになれるという思想です。死後も魂が別世界で生きているという教えは、神のようになりたいという願望から来ています。不滅で永遠に生きておられる方は神だけです。

悪魔は「全世界を惑わしていた者(黙示録12:9)」と呼ばれています。全世界の人々・宗教は、「人は肉体が死んでも、魂は生きていて、意識を持って活動している」という嘘に惑わされているのです。

② キリスト教教理に混入したギリシャ哲学 

「不滅の魂」という思想は、ギリシャ哲学者ソクラテスとプラトンの教えから来ています
プラトンの理論では、身体が造られる前に、ヌース(純粋な心)が先にあったが、ヌースは堕落して神から離れ、聖なる火を失ってプシュケー(魂)になったとされます。ヌースは身体に入って堕落したので、身体から抜け出すことで本来の純粋さを取り戻すことができると考えます。

死を目前にしたソクラテスとプラトンの対話が「パイドン」に記されています。ソクラテスは、「魂はまさに神に似ており、不滅で、不変で、朽ちず、単一である。 魂は同じように純粋で永遠、不滅、不変の方へと去って行く。死とは、魂が肉体からの分離を達成し、単独で存在することにすぎない。私ではなく、私のからだを葬るのだ」と言ったと記録されています。

プラトン主義の教えをキリスト教に取り込んだのは、ギリシャ教父と呼ばれたカトリック神学者のオリゲネス(185頃~254頃)です。
オリゲネスは魂が先在すると考え、聖書の教えを字義通りにではなく比喩的・霊的に解釈し、ギリシャ哲学思想によって創世記や聖書の神を解釈し、三位一体について異なる説を唱え、死後300年後の553年に異端として退けられました。

「死ぬと魂は身体と分離し、霊的世界に戻って意識を持って活動している」という教えは、AD200年頃にはキリスト教界で論争になっていたようです。初期のキリスト教は聖書の真理をプラトン哲学の型にはめ、混合していきました。

「霊魂と身体」を分けるギリシャ的な人間観では、「本当の人間は霊魂であり、身体の中に閉じ込められ、束縛されている。身体から抜け出した時、魂(その人自身)は本当に自由になり、本来いるべき世界で永遠に幸せに生きることができる」と考えます。ですから、死は永遠の世界への入り口であり、死によって身体から解放されることが魂の救いであると考えるのです。

聖書では、死とは最初の人アダムの罪の結果、全ての人類が受けなければならなくなった呪いです。死は永遠のいのちへの入口ではなく、そのままでは永遠の滅びに至ります。死を美化したり、自殺願望を持ったり、自爆テロを賞賛したりするのは悪魔に騙されているからです。

ウィリアム・ティンダル(イギリスの宗教改革家、ヘブライ語・ギリシャ語から英語への聖書翻訳者)は、ローマ教皇がキリストの霊的教理にギリシャ哲学者たちの肉的教理を加え、聖書を改ざんしたと非難しました。そして復活を宣べ伝えるのが真実な信仰であると言い、霊魂不滅の教義に反対し、後に処刑されたそうです。

宗教改革者、プロテスタントの父であるルターはこう語ったそうです。

「私の考えでは、ごく少数の例外を除いて、死者は裁きの日まで全くの無感覚状態で眠っているのではないかと思われます…….何の根拠があって、死者の魂が眠っていないと言えるのでしょうか……生きている者が、夜に横たわってから朝に起き上がるまでの間、深い眠りにつくのと同じように、死者の魂も眠っているのではないでしょうか?」
(Letter to Nicholas Amsdorf, Jan. 13, 1522, quoted in Jules Michelet, The Life of Luther, translated by William Hazlitt, 1862, p. 133).

ルター研究家のT.A.カントネン博士(Dr. T. A. Kantonen)によると、ルターは死は眠りであると表現し、復活に重点を置いていました。そして、「私たちはどのようにして死に、どのように死を通過したのかわからないうちに突然、最後の日に起き上がる。主が来られて起きなさいとおっしゃると、瞬く間に起き上がり、永遠に主とともにいることになる」と信仰を表明していたそうです。  (The Christian Hope, 1594)

ノンクリスチャンだけでなく現代のクリスチャンの多くが、死者の霊魂は別次元の世界で意識や感覚を持って活動しており、義人は天国やパラダイスで幸せに暮らし、罪人は地獄やよみで苦しんでいると考えています(パラダイスの意味についてはこちらを参照:第三の天とパラダイス、エデンの園の回復)。
聖書は、人が死んだ後、天に帰るのは霊だけであることを教えていますルカ23:46ヨハネ19:30使徒7:59~60詩編146:4伝道者12:7 他)。

もし、たましいが不滅であり、死人が意識や知性や感情を持って永遠に存在しているのであれば、肉体の復活に意味があるのでしょうか? もし死んだクリスチャンが、天でイエス様と一緒に幸せに暮らしているのなら、わざわざ復活する必要はなく、キリスト再臨を待ち望む必要もないでしょう。たましいが不滅であるという教えは、キリスト信仰を破壊します
ルターもティンダルも、そのような間違った教えに抗議したのです。

死後、たましいが知性や感情を持って生きているという教えは、ギリシャ哲学のプラトン主義を取り入れた異教的思想であり、聖書の教えではありません。

③ たましいと霊は切り分けなければならない

「たましい」と「霊」は、密接に結びついて心や知性など内面の働きに関わっており、身体と違って目に見ることができません。そのため「霊魂」とまとめて扱われ、よく混同されますが、霊とたましいは全く異なるもので、神の御言葉によって判別する必要があります。

へブル4:12
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましい、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

に属し、たましいに属します。人の考えや教えや計画が「霊(神)」から出たものか、「人(たましい)」から出たものか、御言葉によって判別し、切り離す必要があります

ヨハネ6:63
いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

イエス様のことば=霊=いのちです。イエス様のことばを受け取り、聖書の御言葉に反するような教えは退けなければなりません。

旧約聖書は神のことばです。廃棄されるものではありません(ヨハネ10:35)。

イエス様は旧約聖書に基づいてご自分が約束されたメシアである事を世に示され、弟子たちも旧約聖書を用いて福音と救い主を伝えました。パウロが聖書の有用性についてテモテに語った時、聖書とは旧約聖書のことでした。

Ⅱテモテ3:15~17
 聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教え戒め矯正義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

新約聖書は初代教会以降に編纂されて、旧約聖書の続編・完結編として加えられ、旧約聖書の教えの前提の上に成り立っています。旧約聖書で明らかになっている真理に反するような新約聖書の解釈がされたなら、その解釈の方が間違っているということです。

人から出た間違った解釈や教えは、御言葉の剣で切り分け、取り除かなければなりません。それは異端の原因になりかねません。

2.「たましい」と「からだ」のよみがえり

イエス様だけが死からよみがえり、天に上られました。ダビデもアブラハムも使徒たちも死んでよみに下り、その肉体は朽ち果てました。

よみでは意識も感情も知識も知恵も働きもない伝道者9:5~10)、神をほめたたえることもないイザヤ38:18~19、詩編6:5、30:9、詩編115:17)と聖書で教えられています。死は罪の報酬、罪の結ぶ実です。すべての人は罪を犯したので、いのちの代価を支払わなければならないのです。

① 復活によって死に勝利する

そのままでは滅びるしかない罪人をよみから救い出し、復活させてくださるために、神は御子を与え、身代わりの死を実現してくださいました。

へブル2:14~15
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

イエス様以外に死に勝利した人間はいません。イエス様は十字架で死なれましたが、それは、ご自分の肉体において全人類の罪を処分するためでした。主が死なれた時、霊は義とされ天に帰りからだは墓に葬られたましいは眠りにつきました。そして主は死に勝利して復活され、死の力を持つ悪魔を滅ぼし、人類を解放されたのです。

この贖いの真理を信じる人は、やがて、新しい肉体を持ってよみがえり、死人が復活するという約束が物理的・現実的に実現します。

Ⅰコリント15:20~26
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます

イエス様のたましいは眠って(=死んで)いましたが、死から復活され、永遠に生きておられます。
アダムの子孫として生まれた者は皆、罪ゆえに死にます。復活するまで、全てのたましいは死んでいます。キリストに属するクリスチャンも、復活するまでは死んでいるのです。主が再臨される時、キリストに属している人がよみがえり、永遠のいのちが実現します。

信者が未信者と異なるのは、天に帰っている信者の霊はキリストの御霊(聖霊)と一体となっているということです。聖霊はいのちを与える御霊ですから、信者には、たましいの復活が約束されているのです

Ⅰコリント15:45
こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムは、いのちを与える御霊となりました。

生きるものとは「生きたたましい」という意味で、いのちを与えるは「たましいを生かす」という意味です。「最初の人アダムは生きたたましいとなった。」しかし、「最後のアダム(キリスト)はたましいを生かす御霊となりました」という意味になります。

イエス様は「たましいを生かす御霊」となり、ご自分を信じる者に、いのちを与える御霊を内住させて下さいました。死んでいたクリスチャンはこの御霊によって生き返らされ、最後の敵である死に勝利することができるのです。

② 卑しいからだから栄光あるからだに復活する

ピリピ3:20~21
私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、・・・私たちの卑しいからだを、御自分の栄光あるからだと同じ形に変えてくださるのです。

私たちの卑しいからだとはギリシャ語の「ソーマ・プシュキオン」の訳です。ソーマは「からだ」、プシュキオンは「たましい」を意味するプシュケ(=ネフェシュ)の形容詞です。「ソーマ(からだ)・プシュキオン(たましいの)」は「ちりからできた生き物(たましい)のからだ」です。このからだは、罪のゆえに死んで朽ち果ててしまうものです。

御自分の栄光あるからだとはどのような体でしょうか。
イエス様がよみがえられ、弟子たちの真ん中に立たれた時、弟子たちは驚き恐れて、霊を見ているのだと思いました。イエス様は弟子たちに向かってこう言われました。

ルカ24:39
わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。

それでも信じられない弟子たちの前で、イエス様は焼き魚を召し上がり、本当に肉体を持って生きていると証明されました。復活のからだも実態があり、地上で生活することができるからだです。

主は天に帰られ、今は栄光に輝いて御座に着いておられます。主が栄光のうちに再臨され、天から下って来た新しいエルサレムに住まわれる時、主ご自身が都の明かりとなって照らされます。

復活したクリスチャンの新しいからだは、イエス様のからだと同じ「栄光あるからだ」です。「キリストの霊」によって生かされ、罪が無いので死ぬことのないからだです。それは、エデンの園を追い出される前のアダムが持っていたような、きよく栄光に輝くからだなのです。

コロサイ人への手紙3:1~4
 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます

クリスチャンのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されています。キリストが再臨される時、私たちは栄光のからだと不滅のいのちを持つ神の子として出現し、キリストの王国に住まうのです。

3.「古い人」と「新しい人」

Ⅱコリント5:17
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

これは私たちクリスチャンの霊的事実です。

コロサイ3:9~10
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

エペソ4:22~24
あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

クリスチャンになる前の古い人は十字架に付けられて死んでしまいましたクリスチャンは真理を受け入れ、聖霊の内住によって心と霊が新しくされ、義と聖によって神が新しく造ってくださった新しい人で、キリスト・イエスにあって生きています(参照:十字架のビフォー・アフター)。

でも現実的には、肉体はまだ古いままなので罪に誘惑されやすく、古い人のように行動し、生きてしまいがちです。ですから古い人を行いと一緒に脱ぎ捨て、新しい人を着て、新しい人として生きていくことを決意し、御言葉に従って意識的に考え方と行動を変えていく必要があります。

ローマ6:6~11
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい

十字架で自分の罪のために死んでくださったイエス様を主と信じた者は、二千年前にキリストとともに十字架に付けられて死んでしまったのです。私たちは霊において新しくされ、霊的神の子として新生しました。やがてイエス様のように復活し、物理的・現実的にも神の子となり、永遠の御国を相続します。ですから、古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、キリストにある新しい人として歩みましょう。

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