人とはどのような存在か(4)滅びを刈り取る肉の人、いのちを刈り取る御霊の人

人とはどのような存在か
いばらの冠
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聖書は人間を「霊と肉」に区別します。「霊魂と身体」ではありません。
「霊」と「たましい」は明確に区別され、「霊魂」とひとまとめに扱うことはしません。
クリスチャンの内には「人の霊」と「キリストの御霊=聖霊」が共に住んでいます。

聖書には「霊の人」「肉の人」「古い人」「新しい人」「内なる人」「外なる人」という表現もあります。これらはどのように区別されるのでしょうか。

今回は「霊と肉」、「御霊に従う者と肉に従う者」について学びましょう。

1.霊と肉

初めに、人は霊と肉から成り立っている存在であることを再確認しましょう。

① 「人の霊」は神から与えられた「神の霊」

創世記6:3
 主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、120年にしよう」と仰せられた。

「霊」と「肉」はどのような関係にあり、どのように区別されるのでしょうか?
主が「わたしの霊」と言われたように」は神に属し、人は「」と呼ばれています

ヨブは旧約時代の人ですが、「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」と神が自慢されるほどの義人でした。ヨブ記は神の霊人の霊の関係について教えてくれます。

ヨブ33:4
神の霊
が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える。
ヨブ32:8
人の中には霊
があり、全能者の息が人に悟りを与える。
ヨブ7:7
 思い出してください。私のいのちはただの息であることを。
ヨブ27:3
 私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり、
ヨブ12:10
すべての生き物のいのちと、すべての人間の息とは、その御手のうちにある。

これらの御言葉から、神の霊=全能者の息=人の霊=人の息=人のいのち であると推測できます。

神がちりでアダムのからだを造り、鼻からいのちの息(霊)を吹き込まれたので、人は生きるものとなりました(創世記2:7)。不滅の神の霊が取り除かれたら、人は生きていません。

人は「肉」と呼ばれます。「人の霊」とは、人それぞれに神から個人的に分け与えられた「神の霊神のいのちの息」です。神の霊が人にいのちを与え、霊が取り除かれると人は死にます。人のいのちは神の御手にあります。

② 人は「肉なる存在」

神は、「人間はにすぎない」と言われました。
「肉」は生きている存在を表す総称です。人も動物も鳥も魚も「肉なるもの」と呼ばれます。

アダムが罪を犯して神に背いてから、神から離れて霊的な知恵と力を失った人間性を表し、罪の奴隷となり、本能的欲望のままに生きるようになった罪深い人間存在を表します。

パウロはの罪深さについてこのように語っています。

ローマ7:5,18、22~23,25
 私たちがにあった(支配されていた)ときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました。・・・私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。・・・すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。・・・ですからこの私は、心では神の律法に仕え肉では罪の律法に仕えているのです。

人はにすぎず、には善が住んでいないので、神の律法に逆らいます。心では神の律法を尊重していても、肉は罪の律法に支配され、律法に従うことができません。からだの中に罪の律法が働いているので、人の心に計ることは、いつも悪いことだけに傾く(創世記6:5)のです。

神の霊は人の内に住み、人の良心に働きかけ、正しく生きよと促しますが、人の心の醜さ、邪悪さ、その言動は絶えず神の霊を悲しませ、傷つけ、苦しめます。神は「人の心は何よりも陰険で、それは直らない(エレミヤ17:9)」、「わたしから出た霊が衰え果てる(イザヤ57:16)」と言われました。

罪ある人間は、霊的な知恵と力を失い、本能的欲望のままに生きる「肉」となってしまいました。それで神は、人の心と言動の悪に晒され続けている神の霊を、人から取り戻されるのです。

③ 死によって「霊」と「肉」が分離する

人は本来、神の祝福を受け、神との平和のうちに永遠に生きる存在として造られましたが、罪のために呪われ、エデンの園を追い出され、死ぬべき存在となりました。
神が人に与えられた神の霊(=人の)は、120年経つと肉を離れ、神の御手に帰ります。神の霊がたましいを一緒に天に連れて行くことはありません

詩篇146:4
 その息が絶えると(霊が出て行くと)、人はおのれの土に帰り、その日のうちに彼の諸々の計画は滅びうせる。
ヨブ34:14,15
 もし、神がご自分だけに心を留め、その霊と息をご自分に集められたら、すべての肉なるものはともに息絶え、人は土のちりに帰る。
伝道者12:7
 ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る

人間とは、罪深いの中に神のいのちの息――神が分け与えてくださった――が住み、ひと時だけ生かされている存在です。と分離して神のもとに帰ると、人は死に、からだはちりに帰り、たましいは眠りにつきます。

④ イエス様も肉なる「人」となられた

御子イエス様は、世界を創造した「神のことば」ですが、ご自分が造られた人類を救うために、肉体を取って地上に生まれてくださいました。

ローマ8:3~4
 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

人間はみな罪人です。誰も自分の罪を取り除いて自分を救うことができません。アダムの子孫である全人類の罪を贖うために、罪の無い神の御子)が人と同じように肉体をとって地上に生まれ、肉において裁かれて死に、律法の要求を満たし(罪の代償としていのちを支払い)、罪を処分してくださいました。

Ⅰペテロ3:18
 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、においてはに渡され、においては生かされ、私たちを神のみもとに導くためでした。

Ⅰテモテ3:16
 キリストはにおいて現れ、において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。

・人となられたイエス様の肉は裁かれて死にましたが、霊は義と宣言されて生かされました(イエス様が霊的に死んだという教えは間違いです)。主は肉体を持って復活され、今も神のみもとで生きておられます。
・このことは、キリストに従う私たちにも当てはまります。罪があるので人は神から引き離され、やがて死を迎えますが、イエス様が肉において罪の代価を支払い、罪を取り除いてくださったので、私たちは霊において義と宣言されており、やがて肉体が復活し、神の国で永遠に生きることができます。

⑤ 肉は滅ぼされ、霊は救われる

パウロは、キリストを信じてからも罪を犯し続け、不品行を悔い改めず、教会の指導にも従わないクリスチャンに対し、教会がどう対処するかを教えています。
兄弟と呼ばれる者で、不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者とつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、教会の交わりから追い出すように(Ⅰコリント5:11)と教え、肉の滅びと霊の救いについて語っています。

Ⅰコリント5:4~5
 あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼のが滅ぼされるためですが、それによって彼のが主の日に救われるためです。

教会の交わりから断たれ(サタンに引き渡され)、神から離れてしまった人が、病気になったり事故に遭ったりして、早死にしてしまうことがあります。神はその人をあわれんで、取り返しのつかないほどの罪に陥る前に、悔い改めに導かれます。罪を犯し続けるクリスチャンの肉を滅ぼし、霊を取り戻し、主の日(主の再臨の日)に滅びから救い出すためです。

ローマ8:9~11

もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたはのうちにではなく、御霊のうちにいるのです。もし、キリストの御霊を持っていないなら、その人はキリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きていのちとなって)います。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

御霊は、私たちが神の子どもであり、神の御国を相続するキリストとの共同相続人である(ローマ8:15~17)ことを保証しておられます。キリストの御霊を持つ者は、罪のためにからだが死んでも、霊はキリストの中で守られ、再臨の日に復活させていただく希望があります。

肉なる人は罪のために死にますが、義と認められたクリスチャンの霊は御霊と一体となり、生きています。肉が滅ぼされた後、霊はキリストの御手に帰り、キリスト再臨と共に地上に戻って来て、新しいからだを受け取ります。キリストの御霊を持つ人には、主の日の復活が保証されているのです。

2.肉と御霊

クリスチャンの肉と御霊は対立します。

① 肉に属する人、御霊に属する人

Ⅰコリント2:14
 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

生まれながらの人間とは、まだキリストによって贖われていない人、新生していない人のことです。御霊が内住していない人は御霊のことを受け入れず、霊的な理解力がありません。

コリント3:1,3
 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人キリストにある幼子に対するように話しました。・・・あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

御霊に属する人とは、キリストを信じて新生した人のことで、「霊的(プニューマティコス)」な人です。肉に属する人は、「肉的世的たましい的(プシュキコス)」な人です。

パウロはコリントの人々のことを肉に属する人キリストにある幼子ただの人のようだと言っています。まだ救われていない人のように、御霊に従わず、肉の欲するままに肉的な歩みをしているのです。

キリストを信じて新生し、キリストの御霊を内に宿している人は、御霊に従い、御霊に導かれて、聖化の歩みをしていく必要があります。

② 肉の欲望に従う生き方、御霊の導きに従う生き方

パウロはガラテヤの教会に手紙を書き、このように勧めました。

ガラテヤ5:16~17
 御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

御霊はイエス様を神の子・救い主と信じた時に新たに与えられた聖霊で、クリスチャンの霊とキリストの御霊は一つとなっていますが、罪深いは御霊に逆らい、御霊に対立します。

ローマ8:5~8
 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いはであり、御霊による思いは、いのちと平安です。というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。

肉の思いは神に反抗し、神の律法に服従しないので、肉に従って生きるなら死に至ります。

ヨハネ6:63
 いのちを与えるのは御霊です。は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、であり、またいのちです。

御霊に従うとはキリストのことばに従うことです。イエス様のことばを聞いてそれを行う者は、岩の上に自分の家を建てた賢い人のようで、洪水が押し寄せ、大風が吹き付けても倒れません。イエス様のことばを聞いても行わない者は、砂の上に自分の家を建てた愚かな人のようで、洪水や大風で倒されてしまいます(マタイ7:24~27)。

キリストのことばが霊であり、いのちです。御霊はキリストのことばを思い起こさせてくださいます。御霊とキリストのことばに従う者は倒されず、いのちと平安に至り、従わない者は倒されてしまいます。

③ 肉の行いと御霊の結ぶ実

肉に従って行動するか、御霊に導かれて行動するかは、永遠のいのちに重大な影響を及ぼします。

ガラテヤ5:19~21
 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません

終わりの時代には、「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行い、正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされます(黙示録22:11)」。義人と罪人、善人と悪人の違いがますます明らかになっていき、肉の行いを悔い改めない者は神の国を相続することができません。

クリスチャンはすでにキリストと共に十字架につけられて死に、御霊によって新しく生まれた神の子ですが、実態は、まだ変えられていない肉体には罪が働き、私たちの心は肉の思い御霊の思いの間で葛藤しています

Ⅰコリント6:9
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。

ガラテヤ6:8
 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

イエス様は、偽預言者たちに気をつけ、実によって見分けるように言われました。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い実を結ばない木は切り倒されて、火に投げ込まれてしまいます(マタイ7:15~20)。

ガラテヤ5:22~24
 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分のを、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

肉には改善の余地がないので、日々肉を十字架に付け、御霊と御言葉に従って自分の思いと行動を変え、聖化の歩みを選択し、御霊の実を結ぶ者へと変えられていかなければなりません。

④ 永遠のいのちと永遠の滅び

「御霊から永遠のいのちを刈り取る人」と「肉から滅びを刈り取る人」の受ける永遠の報いを比較しましょう。

黙示録を見ると、新しいエルサレム(小羊の御座がある)に入れる人と、外の暗闇に締め出される人、そして火と硫黄の燃える池に投げ込まれてしまう人がいることがわかります。

御霊から永遠のいのちを刈り取り、新しいエルサレムに入れる人々

黙示録22:14

自分の着物を洗って、 いのちの木の実を食べる権利を与えられ、 門を通って都にはいれるようになる者は、 幸いである。

この人たちは、大きな患難から抜け出し、小羊の血で衣を洗って白くした、あらゆる国民、部族、民族、国語の人々で(黙示録7:9、14)、永遠の御国を受け継ぎ、神の御座の前、聖所で昼も夜も神に仕え7:15)、小羊によっていのちの水の泉に導かれ(7:17)ます。
獣やその像を拝まず、獣の刻印を受けなかった人々は、生き返って裁きを行う権威が与えられ、千年間、王として治めます。この第一の復活に与る人は幸いな者、聖なる者で、第二の死によって滅ぼされることはありません(20:4~6)。

いのちの書に名前の記されている人は、主の再臨時に新しいエルサレムに入る(神の国を相続する)ことができます。

新しいエルサレムの外に出される人々

黙示録21:27
しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。
黙示録22:15
犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者外に出される

主が再臨された時、いのちの書に名前が記されておらず、新しいエルサレムに入ることを許されない人々は、外に出されます。イエス様のたとえ話に出て来る愚かな5人の娘たちや、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者、わたしから離れて行け」と言われるような人です。あるいは、「アブラハムや世界中から来た人々が天の御国の食卓に着くが、あなたがたは外の暗闇に投げ出されて、泣いて歯ぎしりする」と言われたような人々のことです。

彼らはまだ滅ぼされてはいないので、外の世界でしばらく生き、子どもを生みます。朽ちないからだに変えられていないので、やがて死んでしまいます。

肉から永遠の滅びを刈り取り、火の池に投げ込まれる人

主が再臨されてから千年間が過ぎると、悪魔が解き放たれ、地の諸国の民(新しいエルサレムに入れなかった人々の子孫たち)を惑わし、都を取り囲んで戦おうとしますが、天から火が降って来て、反逆した者たちを焼き尽くし、悪魔は火と硫黄の燃える池に投げ込まれます(黙示録20:7~10)。

その後、第一の復活に与れなかった人々がよみがえり、大きな白い御座の前で自分の行いに応じて裁かれます。いのちの書に名の記されていない者は火と硫黄の燃える池に投げ込まれます(20:11~15)。

黙示録21:8
おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。

・御霊と御言葉に従って歩み、神の子として整えられた人々は、主の再臨時に永遠のいのちを刈り取り(第一の復活)、御国を相続します。
・肉に従い、肉によって歩んだ人々は、御国の外に出されます。
・いのちの書に名前がない人は、
白い御座の裁きで判決を受け、火と硫黄の池に投げ込まれて永遠の滅びを刈り取る(第二の死)のです。

3.からだを神に捧げる

御霊に導かれて御霊の実を結び、永遠の御国を受け継ぐためにはどうすればよいのか、使徒たちの教えに耳を傾けましょう。

ローマ6:6、12~13
 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。・・・ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい

Ⅰペテロ4:1~2
 キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。こうしてあなたがたは、地上の(原文:肉において残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。

Ⅰコリント6:19~20
 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい

ローマ8:13~14
 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

ローマ12:1
 兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な(ふさわしい)礼拝です。

・肉を十字架に付けるとは、御霊によってからだの行いを殺し、罪とのかかわりを断つことです。
・霊的な(ふさわしい)礼拝とは、自分のからだを義の器、聖い生きた供え物として神に捧げからだをもって神の栄光を現すことです。
それは、生活と人生の全てにおいて、神の栄光を現すように、聖く正しく歩むことです。

黙示録19:8
花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。

キリストの血によって義とされた私たちは、全身全霊で神を愛し、正しい行いをもって神と人に仕えるために召されています。

贖われ、永遠のいのちを受けた神の子として、永遠の御国を相続するためには、言葉と思いとからだを聖く保ち、みことばと御霊の導きに従って歩み、正しい行いによって神の栄光を現す生き方が重要なのです。

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