再臨と終末(3)再臨のたとえ話②「花婿を待つ十人の娘」と新しいエルサレム

終末論
終わりのラッパ
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前回は、「王の帰還のたとえ話:待ち望む者への報酬と拒絶する者への裁き」からイエス様の再臨について学びました。
イエス様は地上に戻って来られ、王となってエルサレムから世界を支配されます。その時、イエス様を王と認め、主に従う忠実なしもべたちは主とともに神の国に入り、報いが与えられますが、イエス様を世界の王と認めず、支配権を渡すまいと神の子に反逆し、再臨を妨げようとする不信者たちは、主に滅ぼされてしまいます。

このことから、クリスチャンが携挙される(空中に挙げられて主とお会いする)理由の一つは、ソドムとゴモラの滅びからロトが救い出されたように、「不信者に下される神の怒りから救出される」ためであると言えます。

今回は、「花婿を待つ十人の娘」のたとえ話と黙示録16~21章から、いよいよ主が再臨され、選びの民が集められる時のことについて学んでいきます。主の再臨には「花婿の到来」という側面があり、携挙には「花婿を迎えに出る」という側面があります。

では、「花婿を待つ十人の娘(賢い娘と愚かな娘)」のたとえ話を読んでみましょう。

マタイの福音書25:1~13
25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て。『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

1.花婿の到来を迎える娘達

このたとえ話の花婿はイエス様を表し、花婿が来られるとは主が再臨されることを表しています。
娘たちは皆、花婿が来られることを知っていて、すぐ迎えに出ることができるように、ともしびを用意して待っています。花婿がなかなか来ないので、賢い娘も愚かな娘も眠り始めます。

① 賢い娘たち

夜中になって「そら、花婿だ。迎えに出よ」と叫ぶ声があり、みな起きて、ともしびを整えました。
賢い娘たちはともしびに油を注ぎ、花婿を迎えに出ます。用意のできていた娘たちは花婿と出会い、そのまま一緒に祝宴会場に入り、戸が閉められました。

夜中は大艱難時代を象徴し、眠りは死を象徴しています。
眠り始めたというのは、死にかけていることを表しています。賢い娘も愚かな娘も、大艱難時代の終わりごろ、主が再臨される直前には死にかけており、またすでに死んだ者たちもいます。

「再臨と終末(1)再臨と携挙はいつ起こるか」で学んだテサロニケ人への手紙、コリント人への手紙と合わせて考えてみましょう。

Ⅰテサロニケ4: 16~17
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

賢い娘たちが花婿を迎えに出ることは、Ⅰテサロニケ4:17の「雲の中に一挙に引き上げられ空中で主と会う」ことに相当し、花婿と一緒に祝宴会場に入ることは、「いつまでも主とともにいる」ことに相当します。

賢い娘たちは、主の再臨時に復活・栄化して、神の国を相続する人々を表していると考えられます。
いつまでも主とともにいるためには、朽ちない不滅の新しい体に変えられていなければなりません。

Iコリント15:50~53
兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。

終わりのラッパが鳴ると、大艱難時代の迫害の中で死んでしまった信者たちが復活し、死にかけていた信者たちも栄光の身体に変えられ、雲の中に引き上げられて主とお会いします。

賢い娘が花婿を出迎え、祝宴会場に入ることが示しているのは、選びの民が復活して雲の中に引き上げられ、主のもとに集められて神の国に入ることであると考えられます。

黙示録19章には、小羊の婚姻と婚宴について記されています。

ヨハネの黙示録19:6~9
また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。

たとえ話で祝宴会場に入る賢い娘たちは、小羊の婚宴に招かれた幸いな者たちを象徴し、主の再臨の時、神の国に入る人々を指していると考えられます。(花嫁は天から降って来る新しいエルサレムを指しています。)

② 愚かな娘たち

愚かな娘たちも花婿を待っていたのですが、予備の油を持っていなかったため、ともしびが消えかけていました。
彼女たちが夜中に油を買えたかどうかはわかりませんが、後から自力で花婿のいる祝宴会場に行くことができました。おそらく祝宴会場の灯りを見て、その場所を知ることができたのでしょう。
彼女たちは戸をたたきますが、花婿に「あなたがたを知らない」と言われ、拒否されてしまいます。花婿を知っているつもりが、花婿との関係ができておらず、婚宴から締め出されてしまいます。愚かな娘たちは、神の国に入ることができない人々です。

十人の娘のたとえ話によく似た、「主人の帰りを待つしもべ」のたとえ話があります。

ルカの福音書12:35~38
腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。

夜中あかりをともし、主人の帰りを待つ忠実なしもべたちを、主人は食卓に着かせ、給仕してくれるとあります。このしもべたちは、神の国の食卓に着くことができる人々です。

ルカ12:45~47
ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

愚かな娘たちは、主人が帰って来ることを知りながら、油を用意していませんでした。彼女たちは、主人の心を知りながら、その思い通りに用意もせず、働きもせず、厳しく罰せられてしまうしもべに似ています。不忠実な者どもと同じ目に合わされるとは、神の国から締め出されることであると考えられます。

マタイ8:11~12
「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

主が再臨され、地上に天の御国が到来します。死んでいた旧約時代の義人たちが復活し、イエス様を信じる世界中のクリスチャンも来て、ともに祝宴の食卓に着きます。

婚礼の祝宴天の御国(神の国)を象徴しています。
主が再臨され、地上に神の国が始まる時、御国に入れる者と入れない者(外の暗闇に放り出される者)とに分けられます。

たとえ話の花婿は夜中に戻って来ました。予備の油を持っていた賢い娘たちは明るい祝宴会場(天の御国)に入りましたが、油を持っていなかった愚かな娘たちは、外の暗やみに取り残されてしまいました。

再臨の主を迎える5人の賢い娘と取り残される愚かな娘

賢い娘たちは天の御国で食卓に着く人々、愚かな娘たちは外の暗やみに放り出され、泣いて歯ぎしりする人々を表していると考えられます。つまり、賢い娘は御国を相続する者たち、愚かな娘は御国から締め出される者を表しているのです。

2.花婿イエスの婚宴会場は地上にある

花婿と賢い娘たちのいる祝宴会場は、娘たちの待っていた場所の近くにありました。愚かな娘たちは、後から自力でその場所に行くことができましたが、入れてもらうことはできませんでした。

このことから、祝宴会場は雲の上ではなく、地上にあることがわかります。賢い娘たちが携挙されて雲の上の天国に連れて行かれたのだとすると、愚かな娘たちは決して自力で天に上ることができないからです。

ですから、携挙された民は天国で数年間を過ごすのではなく、少しの間、空中に引き上げられ、それから地上に降りて来ると思われます。愚かな娘たちが後から自力で祝宴会場まで行ったことからも、携挙は大患難時代の終わり頃、主の地上再臨の少し前であると考えられます。

① 主は再臨されてから、選びの民を迎えてくださる

たとえ話の中の花婿は、賢い娘たちを迎えに来て、自分の家に連れ帰ったのではありませんでした。
花婿が娘たちのいる場所に来て、花婿を出迎えた娘たちとともに、備えられていた会場に入ったのです。これは、イエス様が再臨されて地上に神の国が始まることを表していると思われます。

携挙とは、主が迎えに来て雲の上の天国に連れて行って下さることではありません

イエス様は、最後の晩餐の後、弟子たちにこのように約束されました。

ヨハネ14:3
 「行ってあなたがたのために場所を用意したら、 戻って来て、 あなたがたをわたしのもとに迎える。 こうして、 わたしのいる所に、 あなたがたもいることになる。(新共同訳)

イエス様は、「あなたがたを迎えに来ます」と言われたのではありません。「戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」と約束されたのです。(たとえ話では、「花婿が来た、迎えに出よ」と声があり、娘たちが花婿を迎えに出たのであって、花婿が娘たちを迎えに来たのではありません。)

イエス様は地上に再臨され、エルサレムから世界を治められます。「わたしのいるところに、あなたがたもいることになる」のですから、空中に引き上げられて主とお会いした人々は、主とともにエルサレムにいることになります。

信仰の目的地(3)天の御国と御国の民で学んだように、メシア王国が始まる(天の御国が来る)時には、主の住まいである新しいエルサレムが天から下って来ると考えられます。

主が迎えに来て、聖徒たちを天国に連れて行って下さるのではありません。主を出迎えるために聖徒たちが空中に挙げられ、主とお会いして一緒に新しいエルサレムに入り、地上に神の国(メシア王国)が始まるのです。

主の祈りで「御国が来ますように」と祈るのはこのためです。御国は地上に来るのです。

② 祝宴会場は天から下る新しいエルサレム

「信仰の目的地」シリーズで、天の御国(神の国)とは何かを詳しく学びました。

私たちクリスチャンの目指す「天の御国(神の国)」とは、
・最初の人アダムが失った「エデンの園に代わる永遠の神の楽園
・アブラハムの待ち望んだ「天の故郷、堅い基礎の上に建てられた都、神が設計し、建設された都
・パウロの見た「第三の天、パラダイス
・へブル人の手紙にある「シオンの山、生ける神の都、後に来る永遠の都、天にあるエルサレム
・そしてヨハネの見た「天から下って来る新しいエルサレム」のことでした。

賢い娘は「天から下って来る新しいエルサレム」に入る人々愚かな娘は「外の暗闇」に放り出される人々を表していると考えることができます。
愚かな娘は、主人から「あなたを知らない(マタイ25:12ルカ13:25)」と言われ、主人の家に入れてもらえない者たちです。

信仰の勝利者たちは、主が再臨される時、不滅のからだに変えられ、永遠の御国を受け継ぎます。

黙示録によると、天から下る新しいエルサレムには神の聖所と小羊の御座があり、神と民とが永遠にともに住みます。

黙示録21:2~4
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

聖なる都、新しいエルサレムに「神の幕屋」があります。そして「神は彼らとともに住み」、「神ご自身が彼らとともにおられ」ます。新しいエルサレムに入るまでは、涙、死、悲しみ、叫び、苦しみがあります。

このことからもわかるように、新しいエルサレムは千年王国が始まる前に天から下って来なければなりません新しいエルサレムは、イエス様が聖徒たちのために用意してくださった新居です。

「キリストにある死者がよみがえり、生き残っている者が彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会い、いつまでも主とともにいるⅠテサロニケ4: 16~17)」場所は聖なる都、新しいエルサレムです。

神の国のために苦しみを受け、迫害と患難とに絶えながら従順と信仰とを保っていた(Ⅱテサロニケ1:4~7)真の信者たちは、この新しいエルサレムで安息が与えられるのです。

花婿と賢い娘たちの入る祝宴会場は、新しいエルサレムを指しています。
花婿が来られ、賢い娘たちが花婿を出迎え、一緒に祝宴会場に入る」ことは、「イエス様が天から下って来られる時、聖徒たちが空中に引き上げられて主と出会い、一緒に新しいエルサレムに入る」ことを表しているのです。

③ 地上のエルサレムは消え失せる

 黙示録16章で、第7の鉢が空中にぶちまけられ、かつてなかったほどの大地震が起こり、エルサレムの都は三つに裂かれ、諸国の町々が倒れます(黙示録16:17~21)。

17章と18章は大バビロンの裁きについての説明です。

 「大きな都バビロン」とは、地上の王たちを支配する大きな都(17:18)、預言者や聖徒たちやイエスの証人たちの血が流された都17:6、18:24)であり、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる、主が十字架に付けられた都です(11:8)。
つまり、大淫婦バビロンは「地上にあるエルサレム」を指しています。エルサレムは42か月の間、異邦人たちに踏みにじられ(11:2)、様々な異教のための宗教センターになると考えられています。

天から聖徒たちに声がかかり、大きな都バビロンの罪に与らないため、またその災害を受けないために、その都から離れるように命じます(18:4)。
その都は国々の王たち、商人たちと不品行を行い、神の激しい御怒りの葡萄酒を国々の民に飲ませ(18:3)、悪霊の住まい、汚れた霊どもの巣窟となった(18:2)ので、1日のうちに死病、悲しみ、飢えに襲われ、火で焼き尽くされ、滅ぼされるからです(18:8)。

神が聖徒たち、使徒たち、預言者たちのためにこの都を裁かれるので、バビロン(地上のエルサレム)は激しく打ち倒されて、消え失せてしまいます18:21

かつてイスラエルの子孫が荒野で天幕生活をしていた時、レビ族の子孫であるコラは、ルベン族の子孫であるダタンとアビラムと共謀し、レビ人250人を引き連れ、イスラエルの全会衆をモーセとアロンに逆らわせようとしました。

すると主の栄光が全会衆に現れ、反逆者たちと一緒に滅ぼされないように、コラとダタンとアビラムの天幕から離れなさいと会衆に指示されました。
そして、彼ら3人の天幕の下で地面が割れ、彼らの家族も所有物もすべてが地に飲み込まれました。主に裁かれ、生きたまま、よみに下り、滅びうせてしまったのです。
そしてレビ人250人も、主から出た火によって焼き尽くされてしまいました(民数記16:1~35)。

淫婦バビロンと呼ばれるようになった地上のエルサレムも、神の激しい御怒りによって、大地震で裂かれ、1日のうちに火で焼き尽くされ、激しく打ち倒されて、消え失せてしまいます

真の聖徒たちは、不品行の大淫婦の罪に関わらないように、その災害に巻き込まれて一緒に滅ぼされてしまわないように、エルサレムから出て行かなければなりません。

こうして地上のエルサレムが消え失せてしまうのですから、主が再臨されるにあたって、主の住まわれる新しいエルサレムが必要になります(参照:「大バビロンの滅びとエルサレムの贖い」)。

滅ぼされたエルサレムにはユダヤ教の神殿も建っていましたが、獣と呼ばれる反キリストはそこで自分を神としました。

Ⅱテサロニケ2:3~4
不法の人、すなわち滅びの子が現れ、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗して、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

神であるイエス様はそのような場所には入られません。

使徒17:24
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。

ですから、主が地上に再臨される時には、「神が設計し、建設された、堅い基礎の上に建てられた都へブル11:10)」、アブラハム、イサク、ヤコブたちのために「神が用意された都へブル11:16)」を伴って来られるのです。
人の子は、御国(新しいエルサレム)とともに来るマタイ16:28)のです。

そして大淫婦バビロン(地上のエルサレム)が滅ぼされた後、19章では、小羊の婚姻の時が来て花嫁の用意ができ、花嫁は光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許されます(19:7~8)。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いですから、この時、聖徒たちが新しいエルサレムに集められているのでしょう。

天から下って来る新しいエルサレムについては21章、22章に、詳しく書かれています。

黙示録21:22~27
  私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たち(復活した殉教者たち)はその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。
しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。

賢い娘たちが象徴していたのは、いのちの書に名前の書かれている人々です。主が天から降って来られる時、最後まで油を絶やすことのなかった賢い信仰者は、朽ちないからだに変えられて新しいエルサレムに入り、アダムとエバが失った全ての祝福を取り戻し、永遠に神とともに住むことができるのです。

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