「ラザロと金持ち」のたとえ話② 復活後のラザロと金持ちに何が起こったか

その教えは聖書的?
「ラザロと金持ち」 エドゥアルト・フォン・ゲープハルト
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1.「ラザロと金持ち」は、死者の世界について教えていない

ルカの福音書16章の「ラザロと金持ち」のたとえ話を「死後の霊魂が住む世界」について教えていると誤解されている方が多いと思います.

次のような説明を聞いたことがあるかもしれません。

・旧約時代、死者の行く「よみ」には2つの場所があり、善人・義人は「アブラハムのふところ」と呼ばれる慰めの場所に、悪人・罪人は「火の燃える苦しみの場所」に行った。
・イエス様は死なれた時「アブラハムのふところ」に行き、善人・義人たちを天に引き上げた。「アブラハムのふところ」は「パラダイス」になった。
・クリスチャンは死ぬとすぐ天に行き、パラダイスでイエス様と共に過ごす。罪人・悪人・不信者の霊魂は最後の審判まで、よみの「火の燃える場所」で苦しんでいる。

このような解釈をしてしまう原因の一つは、クリスチャンが異教文化の影響下で、非聖書的な思想を無意識のうちに取り込んでいるからです。例えば、ギリシャ哲学の人間観や死生観では、肉体が滅びても不滅の霊魂が肉体を抜け出して、別の世界で生きて活動していると考えています。聖書によくわからない教えや御言葉があると、クリスチャンがそういう異教の眼鏡で解釈し直してしまうのです。

復活したラザロと金持ち

この物語は、イエス様が再臨され、第1の復活に与って神の国に入った人と、外に締め出された人についてのたとえ話であると考えられます。

ラザロは死からよみがえり、御使いによってアブラハムのいる場所に運ばれました。そこは天から下って来た新しいエルサレムです。あらゆる国々から選びの民が集められ、主が王座に着かれ、神の国が始まりました。金持ちはそこに入ることができなかったのです。

なぜこのように理解できるのか、2回の記事で説明します。

今回は、この物語の詳細を、これまでこのブログで学んだ教理的な理解に照らして解釈していきます。
次回は、そのように解釈すると、イエス様の教えとの一貫性・他の8つのたとえ話との文脈的整合性があることを確認します。

ではまずこのたとえ話を読みましょう。

ルカ16:19~31
16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

2.たとえ話を解釈するための前提

新約聖書は旧約聖書の土台の上に書かれており、イエス様によって旧約預言が成就し、神の御計画が進展していくことを記録しています。イエス様の教えも、旧約聖書の教えを前提として語られています。ですから、たとえ話を解釈するときには、旧約聖書ですでに教えられ、明らかにされている真理と矛盾しないことが大切です。

・聖書的な贖い復活によって完成し、永遠のいのちは朽ちないからだによみがえることで実現します。
・聖書的な救いは、復活した義人が神の子として永遠の神の国を相続する時に完成します。
・聖書的メシアとは、死を滅ぼし、義人をよみがえらせ、神の国を相続させてくださる方です。

「よみ」で死人の霊魂が苦しんでいることや会話していることは、聖書の他の箇所からは確認できないので、この物語から、よみはどんな場所か、死人はどんな状態でいるかと、死者の世界について推測し、新たな教理を作り出すことはできません。正しいと裏付けできないのに、たとえ語から聖書に書かれていない教えを作り出すなら、異端やオカルトの侵入に扉を開く危険性があります。

当時の人々が死人の状態をどう理解したか

イエス様は死者の世界について教えておられませんし、イエス様に質問した人もいませんでした。イエス様が約束されたのは、ご自分を信じる者を終わりの日によみがえらせるということでした。

パリサイ人は復活を信じていました。復活を信じないサドカイ人は、「もし復活があるなら、7人兄弟と再婚した人は誰の妻になるのか」と質問しましたが(マタイ22:23~28)、よみでの兄弟関係や夫婦関係のことは気にしていませんでした。

 伝道者の書9:5~6、10
「生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる。彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消えうせ、日の下で行われるすべての事において、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。・・・あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。」

死人は「何も知らず、愛も憎しみも、ねたみもすでに消えうせている」と明確に書かれているので、当時のユダヤ人は、よみで7人兄弟が1人の妻をめぐって争うなどと考えなかったでしょう。

同様に、当時の人々は、ラザロと金持ちのたとえ話を聞いた時、これが死人の世界の物語であるとも、霊魂がよみで会話しているとも考えなかったはずです。死んだ者は何も知らず報い(慰めや苦しみ)もなく、よみには働きも企ても知識も知恵もないので、死人が会話することも思い出すことも願い事をすることもないからです。ヘブライ的(聖書的)死生観は、ギリシャ的死生観とは異なっているのです。

3.復活後の世界で、ラザロと金持ちに何が起こったか

ラザロと金持ちのたとえ話がなぜ復活後の世界について教えていると言えるのでしょうか。「人とはどのような存在か」「信仰の目的地」「終末論」で学んだことがその前提となります。

① 死んでいたラザロはよみがえり、御使いによって主のもとに運ばれた

ルカ16:22
さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。

この表現から、御使いが死者の霊魂をよみに運んだと思われるかもしれませんが、聖書には、が身体から抜け出し、別の世界で生きているという教えも、御使いが死人の霊魂を迎えに来るという教えもありません

人が死ぬと、人の霊(神から与えられたいのちの息)は持ち主のおられる天に帰り(伝道者の書12:7)、身体は朽ち果て、たましいは活動を停止して復活を待ちます。「たましい」とは、からだから抜け出す非物質的な幽体ではなく、からだを持って活動している「息をする生きもの」を意味しています(参考:「人とはどのような存在か(2)死者の状態、たましいの救いとは」)。

ヘブライ語のシェオール(よみ)は死者の行く沈黙の場所を指し、死は眠りと言われます。人の意識は死ぬ時に失われ、復活するまで死者に意識はありません伝道者の書9:5~6)。

人が御使いによって運ばれるのは復活の時

死んだ人が御使いによって運ばれるのは、主が雲に乗って再臨される時、つまり「第1の復活」の時です。(参照:「再臨と終末(1)テサロニケ人への手紙から再臨と携挙はいつ起こるか」)

イエス様は、偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来られ(マルコ13:26)、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます(Ⅰテサロニケ4:16)。
・ラッパの響きと共に御使いが遣わされ、四方から選びの民を集めます(マタイ24:31)。
・終わりのラッパが鳴ると、死者が朽ちないものによみがえり(Ⅰコリント15:52)、生き残っている者も彼らと一緒に雲の中に一挙に引き上げられ、いつまでも主とともにいることになります(Ⅰテサロニケ4:17)。

御使いは復活した信者を空中に携え上げて、主のもとに運びます。たとえ話の中で、死んでいたラザロは終わりのラッパと共によみがえり、御使いによってアブラハムのふところに運ばれたと考えられます。

聖書の時間の表し方

聖書は、時間の経過を無視したような書き方をしていることがあります。

ラザロは死後すぐ御使いによって運ばれたのではなく、死んでから復活するまでの期間が記録されていないと考えられます。人が死んで意識がなくなり、次に意識が戻るのはよみがえった時なので、ラザロの意識は死の直前から復活直後につながります。よみがえるまでラザロは地上に存在せず、意識は中断しています。死んでよみがえり、御使いによって引き上げられ、主のもとに運ばれたという出来事だけが書かれていると考えられます。

このように、空白の時間を省略した書き方は、聖書では他にも見ることができます。

・メシアの初臨と再臨の預言が連続して書かれていることはよくあります(ゼカリヤ9:9~10など)。メシアが地上におられない期間の時間経過は省かれており、初臨からすでに2000年近くたっていますが、まだ再臨の預言は実現していません。

・ダニエルの70週の預言(ダニエル9章)でも、69週と最後の1週との間の時間が省かれています。70週の預言は、あなたの民(イスラエル民族)とあなたの聖なる都(エルサレム)についての預言です。69週までは、AD70年の神殿崩壊とイスラエル滅亡、ユダヤ人のエルサレム追放と世界離散で終了しました。最後の1週(7年間)は終末の艱難時代であり、70週目にはエルサレムに神殿が建っていると考えられています。神殿が存在しない期間はカウントされていないのです。

② 死んでハデスにいた金持ちは、よみがえって目を上げた

ルカ16:23~24
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

  聖書の時間概念を踏まえて、「ハデスで目を上げる」の意味を考えてみましょう。

金持ちの最後の意識は自分が死ぬ直前です。死んだ後のことは何もわかりません。自分の兄弟たちが生きているのか死んでいるのか、どれだけの時間が過ぎたかも知りません。金持ちにとって、死ぬ直前の意識と復活直後の意識は連続しています。

金持ちは死んでハデス(よみ)にいましたが、よみがえって地上で目を開けました。意識が戻ってきた時、炎の熱で苦しく感じながら目を上げると、遠くにラザロとアブラハムが見えました。脳や神経が働き、皮膚感覚が戻り、目が見えているので、からだがよみがえったと理解できます。

そして視力、聴力、言語能力が戻り、アブラハムに呼びかけました。『ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

イエス様は復活後、霊を見ているとおびえた弟子たちにご自分の手足を見せ、魚を食べ、霊ではなく復活したことを証明されました。この金持ちが水を欲しがったなら復活したのです霊ではありません

復活した時に記憶が戻る

ルカ16:25
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

金持ちに死ぬ前の記憶が戻ってきました。「死んだ者は何も知らず、よみには知識も知恵もない伝道者9:5、10)」ので、金持ちがいた場所は「よみ」ではありませんでした。

金持ちは死ぬ前の自分の罪深い生き方を思い出し、自分の人生が神の御心にかなっていなかったことを理解したでしょう。そして、自分は当然受けるべき報いを受けているのだとわかったことでしょう。

人の霊は人の心の全てを知っている

Ⅰコリント2:11
いったい、人の心のことは、その人のうちにあるのほかに、だれが知っているでしょう。

人の霊は人の心のことを知っています。霊は、人の人格や言動や記憶を保持していると思われます。

Ⅰコリント2: 12,16
同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。・・・ いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

イエス様を信じると、神の御霊が私たちの内に住まわれるので、クリスチャンはキリストの心を持つことができます。御霊は、キリストの思い、意思、正しい善悪の判断、神の御心、神の御計画などをすべてご存じで、それを私たちの霊を通して教えてくださいます。

クリスチャンが死ぬと、霊は神の御霊と一緒に主のもとに帰ります。そして主の再臨と共に霊も地上に戻って来て、新しく造られたからだに入り、眠っていたたましいが目覚めます

その時、記憶が戻り、自分が御霊に従って主の御心に適う生き方をしてきたか、肉に従って的外れな生き方をしてきたかを思い出すのではないでしょうか。兄弟姉妹を愛し、弱い人・貧しい人を助けたのか、自己中心に生きたのかを思い出し、主から「忠実な良いしもべ」と言われる理由も、「悪い怠け者のしもべ」と言われる理由もわかるはずです。

ノンクリスチャンがよみがえるなら、自分が正しく生きてきたかどうか思い出し、福音を聞いてイエス様を拒否したこと、クリスチャンを迫害したことも覚えていて、神の裁きが正当なものだとわかるでしょう。生きているうちに悔い改めて救い主を受け入れなければ、その時になって後悔しても遅いのです。

③ ラザロは新しいエルサレムで慰められていた

ルカ16:23 、25
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。・・・・・アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

「アブラハムのふところ」という表現は、新約・旧約聖書全体を合わせても、このたとえ話にしか出て来ないので(ルカ16:22、23)、そういう名称の場所があるかどうか確認できません。「ふところ」という表現は、アブラハムと親密な関係にあることを表していると思われます。

ラザロが慰められていた場所は新しいエルサレム

アブラハムがいた場所はどこでしょうか? アブラハムは、神が人を死者の中からよみがえらせることを信じ、天の都――神が設計し、建設された堅い基礎の上に立てられた都(ヘブル11:8)――に入ることを待ち望んでいました。イスラエル民族の信仰者たちも、その都を相続することを切望していました。アブラハムは最終的にその都にいたと思われます。

クリスチャンは、イエス様をメシアと信じる信仰によってアブラハムの子孫とされ、アブラハムと同じ天の都を相続すると約束されています(ガラテヤ3:29)。それは、「シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレムへブル12:22)」「後に来ようとしている都へブル13:14)」「神のパラダイス(黙示録2:7)」「天から下って来る新しいエルサレム(黙示録3:12」であることが明らかにされました。(参考:信仰の目的地(2)「天の都」と「天のエルサレム」

アブラハムの目指した天の都は、天から下って来る新しいエルサレムです。ですから、ラザロとアブラハムがいた場所は新しいエルサレムの中と考えられます。

イザヤ65:17~19
見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない

イザヤ66:10,13
エルサレムとともに
喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。・・・母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる

黙示録21:3~4
「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

ラザロは生きていた時、貧しく、いつも空腹で、病気で、悲しみと苦しみの人生を過ごしました。でも新しいエルサレムには病気も死もなく、ラザロはアブラハムと共に食卓を囲むことができます。そして再臨された主がエルサレムでラザロを慰め、目の涙をぬぐい取ってくださるのです。

「アブラハムのふところ」とは、アブラハムと同じ信仰を持つ家族としての親密さを表していると思われます。「アブラハムのふところで慰められる」とは、復活して信仰の父アブラハムと一緒に神の国を相続し、新しいエルサレムで慰められていることを表していると考えられます。

④ 新しいエルサレムの外に追い出された金持ち

 ルカ16:26
そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。

黙示録21章、22章によると、新しいエルサレムは高い城壁に囲まれた大きな都市です。12ある門はそれぞれ御使いによって守られていて、小羊のいのちの書に名前のある者だけが入ることができます(黙示21:27)。外に出された人がアブラハムのいるところに行くことはできないのです。

神の安息に入れなかった金持ち

へブル人への手紙に、「神の安息に入る人」と不従順のために入れない人がいると書かれています。

へブル4:1~3、9~11
こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。
・・・したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

金持ちは、福音を説き聞かされても、みことばが信仰によって結び付けられず、神の御心から外れ、自己中心的な人生を歩みました。その不従順のために神の安息に入ることができなかったのでしょう。

神の国から追い出された金持ち

ヨハネ5: 28~29
 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。

イザヤ65:13~15
それゆえ、神である主はこう仰せられる。「見よ。わたしのしもべたちは食べる。しかし、あなたがたは飢える。見よ。わたしのしもべたちは飲む。しかし、あなたがたは渇く。見よ。わたしのしもべたちは喜ぶ。しかし、あなたがたは恥を見る。見よ。わたしのしもべたちは心の楽しみによって喜び歌う。しかし、あなたがたは心の痛みによって叫び、たましいの傷によって泣きわめく。あなたがたは自分の名を、わたしの選んだ者たちののろいとして残す。それで神である主は、あなたがたを殺される。ご自分のしもべたちを、ほかの名で呼ばれるようにされる。」

ラザロ慰めの場所にいました。ラザロはよみがえっていのちを受け新しいエルサレムでアブラハムと一緒に食べ、飲み、喜び、心の楽しみによって喜び歌うことができました。
金持ち苦しみの場所にいました。エルサレムの外でさばきを受け飢え、渇き、恥を見、心の痛みによって叫び、たましいの傷によって泣きわめくことになりました。

再臨の前には太陽が暗くなり、全地は火で焼かれます。エルサレムの中は主の栄光が輝いていますが、エルサレムの外は暗く、しかも熱い苦しい世界であることでしょう。
そして両者の間には大きな淵があるのです。

イザヤ66:22~24
「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、──の御告げ──あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」とは仰せられる。「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。」

イエス様が再臨され、新天新地が到来します。
いのちの書に名前の書かれた人は、新しいエルサレムで主を礼拝します。エルサレムの外には、主に反逆したため火で焼かれた者たちが見えるようです。金持ちはそこにいたのではないでしょうか。

結論

「ラザロと金持ち」は死者の世界についての教えではなく、神の国を受け継いだ人と外の暗闇に出された人についてのたとえ話であると考えるなら、イエス様の教えや旧約聖書の終末預言や黙示録とも一致します(参照:「信仰の目的地(3)天の御国と御国の民」)。この物語は、主の再臨後に復活した人の受ける報いについて教えているのです。 

次回は、ルカ福音書の8つのたとえ話を学び、この解釈が正しいことを文脈から見ていきます。

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