聖書は死後のセカンド・チャンスを支持しない

その教えは聖書的?
主を呼び求める
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以前から日本のキリスト教会の中で、死後のセカンド・チャンスという教えが問題になっていました。それは、「イエス様は福音を聞かずに亡くなった人によみで伝道された」、そして「よみで福音を聞いて悔い改めた人は救われる」という教えです。キリスト教が根付いていない日本では、「イエスを信じる者は天国に行き、信じない者は地獄に行く」という伝道は、先祖の滅びを宣告されるようで受け入れ難いが、セカンド・チャンスの教えは、未信のまま亡くなった親族を持つ日本人に希望を与え、信仰決心に繋がると考えるのです。

この記事では、セカンド・チャンス論の3つの主張の真偽を御言葉から検証します。

1.イエス様はよみで宣教されたのか
2.罪人がよみでイエス様を信じたら、救われるのか
3.よみで福音宣教は可能か

1.イエス様はよみで不信者の霊に宣教されたのか

初めに、イエス様がよみで福音宣教をされた根拠とされる御言葉を検証します。

Ⅰペテロ3:18~20
3:18 キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。
3:19 その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。3:20 かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。

19節「その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました」とは、「キリストはよみにいる不信者たちの霊に宣教した」という意味でしょうか?

① 人の霊はよみに降らない

イエス様は十字架で死なれる時、天におられる父の御手にご自分の「」を委ねられました。イエス様の霊は天に行きました。ステパノは死ぬ時、自分のを主の御手に委ねました。ステパノの霊も天にいます。では不信者の霊は? 不信者の霊も天にいます。

聖書は人を霊と肉に分類します。」は神から分け与えられた「いのちの息」神に属し「肉」は被造物です。ちりで造られた身体にが入ると人は生き物して活動を始めます(創世記2:7)。神がご自分のを取り戻されると、人は息絶え、ちりに帰ります(ヨブ34:14~15)。

伝道者3:19~21
なぜなら、人の子の結末と獣の結末は同じ結末だからだ。これも死ねば、あれも死に、両方とも同じ息を持つ。それでは、人は獣にまさっているのか。まさってはいない。すべては空しいからだ。すべては同じ所に行くすべてのものは土のちりから出て、すべてのものは土のちりに帰る。だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。

動物も人間も、被造物が死ぬとちりに帰ります。そして獣の霊は地の下に降り、人の霊は上に上ります。信者・不信者、善人・悪人、義人・罪人に関わらず、すべての人の霊は神のもとに帰ります

伝道者の書12:7 ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る

」は、被造物を生かすために神から分与された「神のいのち」、「神の霊の一部」です。神の霊は不滅で、罪を犯しません。悪人・不信者・罪人であっても、人を生かしていた霊はよみに下りません

イエス様の霊も人の霊も、よみにはいなかったので主はよみで不信者の霊に宣教しませんでした

では、イエス様は天で不信者の霊に伝道されたでしょうか? いいえ! 神ご自身の霊に伝道する必要はありません

② 捕らわれの霊たちとは

「ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たち(3:20)」とは誰を指すのでしょうか? また、「キリストの霊捕らわれている霊たちに宣言された」とはどういうことでしょうか?

Ⅱペテロ2:4~5
神は、罪を犯した御使いたちを放置せず、地獄に投げ入れ、暗闇の縄目につないで、さばきの日まで閉じ込められました。また、かつての世界を放置せず、不敬虔な者たちの世界に洪水をもたらし、義を宣べ伝えたノアたち八人を保護されました。

捕らわれの霊はノアの時代に罪を犯した御使いたちで、地獄に投げ入れられ、暗闇の縄目につながれ、さばきの日まで閉じ込められています。 但し、ここでいう地獄とはゲヘナではなく、タルタロスという深い底なしの穴です。ゲヘナ火の燃える池、罪人たちが投げ込まれる場所です。タルタロスはギリシャ神話から取り入れられた言葉で、主の再臨まで罪を犯した御使いたちが閉じ込められている場所を指します。

ユダ:6 またイエスは、自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められました。

Ⅰペテロ3:19~20の「神が忍耐して待っておられたときに従わず、捕らわれている霊たち」は、「罪を犯し、裁きの日まで閉じ込められている御使いたちⅡペテロ2:4)」、「自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨て、暗闇の下に閉じ込められた御使いたちユダ1:6)」と同じで、ノアの時代に罪を犯した堕天使を指すと考えられます。

③ 人は「霊」ではなく「肉」

創世記6:1~7
さて、人が大地の面に増え始め、娘たちが彼らに生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、それぞれ自分が選んだ者を妻とした。そこで、は言われた。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」

 神の子らが人の娘たちのところに入り、彼らに子ができたそのころ、またその後も、ネフィリムが地にいた。彼らは昔からの勇士であり、名のある者たちであった。
は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それでは、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そしては言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」

この聖書箇所は、神がノアの時代に大洪水を引き起こされた理由を記しています。

神は、「人は肉にすぎない」と言われました。聖書は人を「肉なるもの」と呼びます。クリスチャンには肉に従って歩むか、御霊に導かれて歩むかの選択肢がありますが、クリスチャン自身は「霊」ではなく「肉」と呼ばれます。人の中にいるのは「わたしの霊」、つまり神の霊です。

④ 主は堕天使たちにさばきを宣言された

神の子ら」は霊的存在である御使いを指し、御使いと人の娘との間に生まれた子供がネフィリムです。ネフィリムは普通の人間と異なり、身体が大きくて強い、ゴリアテのような存在だったと考えられます。その時代、地上に人の悪が増大したため、神は大洪水で被造世界を滅ぼされ、人間の寿命を120年と定められました。

神の子ら」と言われている存在が、Ⅰペテロ3:20、Ⅱペテロ2:4,ユダ:4の「自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨て、罪を犯し、閉じ込められている御使いたち」だと考えられます。神が創造されなかった新人類を生み出し、神の計画を妨害しようとしたため、「大いなる日のさばき」まで閉じ込められているのでしょう。

4つの聖書箇所から、イエス様の霊は「罪を犯した霊的存在(御使いたち)に裁きを宣言されたと考えられます。この霊たちが閉じ込められたのは大洪水前後のことでしょう。受肉前のイエス様(霊)が大いなる日のさばきを宣言されたと考えると、つじつまが合います。

2.死後に悔い改めたら救われるのか 

次に、罪人が死後にイエス様を信じたら救われるのかを検証します。

① 裁きは生前の行いに応じて定まる

裁きの判定基準を御言葉から確認しましょう。

ヨハネ5:28~29
このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞く時が来るのです。そのとき、善を行った者はよみがえっていのちを受けるために悪を行った者はよみがえってさばきを受けるために出て来ます。

黙示録22:12
見よ、わたしはすぐに来る。それぞれの行いに応じて報いるために、わたしは報いを携えて来る

これらはイエス様の宣言です。善人も悪人も(クリスチャンも)、肉なる者は死後、ちりに帰ります。それをよみに下ると言います。そして再臨された主の御声を聞いて墓から出て来ます
主が天から来られ、死人がよみがえった時、すでに、いのちを受けるか裁きを受けるが決まっているようです。

Ⅱコリント5:10
私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

肉体にあってした行為に応じて」とあるので、生きている間の行いに応じて報いを受けます

黙示録20:12
また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちはこれらの書物に書かれていることにしたがい自分の行いに応じてさばかれた

よみがえった人は、数々の書物に記録されている自分の生前の行いに応じてさばかれます。それは、すべての人にとって公平な基準です。イエス様の初臨以前に死んだことや、生きている間に救い主について聞くチャンスがなかったことは不利にならないようです。それなら、死後にイエス様を信じたとしても、判決は変わらないでしょう。

人が生きている間は神の霊が人の中におられるので、人の心、ことば、行い、体験、生き方のすべては神に知られています。ですから、福音を聞かずに亡くなった方の受ける報いについては、正しくさばかれる神に信頼して委ねるべきでしょう。

② 生前に御子を信じると裁きを免れる理由

ヨハネ3:36
御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。

 アダムの子孫であるすべての人は、生まれながらの罪人で、肉によって生まれた者はみな、初めから有罪です。そのため神の怒りがとどまり、すべての人は死んで滅びなければなりません。罪の報酬は死(ローマ6:23)であり、肉体の死は罪の結果です。しかし、御子を信じる者は永遠のいのちを持っています。

ヨハネ3:18
御子を信じる者はさばかれない信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。

御子を信じない者は、すでにさばかれています。御子を信じる者はなぜさばかれないのでしょうか? その理由は、さばきがすでに終わっているからです。その人は自分が罪人で死に価すると認め、なおかつ、自分のために御子がさばかれて死なれたことを信じました。その信仰ゆえに、その人は御子とともに十字架ですでにさばかれたと見なされます御子が人類の罪を背負って死なれた時、御子を信じる者は御子の中にいて一緒に裁かれ、一緒に死にました世の終わりに罪人として受けるべきさばきをすでに受けたので、二度と裁かれることはありません。(救いのビフォー・アフターについてはこちら

 御子を信じ、御子と一緒に裁かれた人は、古い人としては死んでしまいました。そして御子がよみがえられた時、御子の中で、全くの別人・新しい人が誕生しました

Ⅰペテロ1:3~5
・・・神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ生ける望みを持たせてくださいました。
また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。

御子を信じる人は、新しく生まれた人です。外見は古い人と同じように見え、性格や考え方や行動も似ていますが、神の目には別人です。その人は、霊によって生まれた罪の無い神の子どもで、やがて、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産(永遠の御国)を相続します。そのために、終わりの時に現されるように用意されている救い(栄光のからだと永遠のいのちをいただきます
ただし、それまでは古い肉体のままで罪の影響下にあるため、肉体の死を体験します。

ダニエル12:2
ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。

御子を信じる者は、世の終わりのさばきはすでに受けたので、主が来られた時、神の国を相続するために新しいからだを頂きます御子を信じず、まださばきが終わっていない人は、世の終わりによみがえってからさばかれることになります。

③ 救いは「恩赦」、神の計画を実現する神の方法

とは、罪ゆえに全人類が受ける呪いです。永遠の滅びへの入り口、そのままでは誰も救われません。
救いとは、すでに有罪判決の出ている者に、特別恩寵で赦しが与えられることです。「イエスを信じたら救われる」とは、御子の(身代わりの)血を見て神の怒りが過ぎ越したので、世の終わりにさばかれないということです。

神が御子を通して罪人を救われるのは、神を愛する者たちを神の子どもと認定し、ご自分と共に永遠の神の国に住まわせるためです。この神の計画・神の方法を信じて受け入れ、神の子どもとして生きることを決意した人には、復活後の永遠のいのちと永遠の御国が約束されています。

この恩赦を受け取らずに人生を終えた場合、御子によって罪が赦されていないので、神の怒りがとどまっています。生存中に福音を受け取らなかった(御子に聞き従わなかった)人は、生前の行いに応じてさばかれます。死の時点で判定材料は出そろっています。

神の存在を信じない人、神の裁きがあることを知らない人も、神の裁きを逃れることはできません。

ローマ1:18~20
不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義に対して、神の怒りが、天から啓示されているからです。神について知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません

3.よみでは福音を宣教できない

① 死者は福音を理解できない

死者はどのような状態にあるのでしょうか? 知性を持って活動し、福音を聞いて理解し、意思決定をすることができるのでしょうか? 聖書は、死者は誰も福音を理解できないことを明らかにしています。

伝道者9:5~10
9:5~6 生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる。彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消え失せ、日の下で行われることすべてにおいて、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。
9:10 あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。

よみにいる死者は何も知らず、感情は消え失せいます。よみには、わざも道理も知識も知恵もありません。つまり、よみに下った人の意思・知性・感情は機能せず、知的活動はしていないのです。それゆえ、よみにいる死者は福音を聞いても理解できず、悔い改めも信仰決心もできません

人が死ぬと霊は天に帰り、からだはちりに戻ります。そしてたましいはよみに下り、眠って(休んで)います。

たましいの原語はネフェシュで、呼吸する生き物という意味です。「いのち、人」とも訳されます。最初に使われたのは創世記で、神がちりで人を造り、いのちの息を吹き込むと「ネフェシュ」になりました。ですから、たましいと訳されていても、目に見えない、からだから抜け出す幽体や意識体を指すのではありません

聖書の言う「たましい」とは、「からだを持って活動する生き物」「人そのもの」です。「たましいがよみに下る」の意味は、「死ぬ、墓に入る」ということです。霊が去り、からだが朽ち果て、活動できなくなった「たましい」は眠っているのです(「たましい」についてはこちらを参照)。

② クリスチャンもよみで伝道できない

クリスチャンも死後はよみに行きます。よみでは誰も活動することができません。

詩編88:10~12
あなたは死人のために奇しいみわざを行われるでしょうか。亡霊が起き上がりあなたをほめたたえるでしょうか。セラ あなたの恵み墓の中で宣べられるでしょうか。あなたの真実滅びの淵。あなたの奇しいみわざ闇の中で知られるでしょうか。あなたの義が忘却の地

この詩編を書いたヘマンは、反語で真理を語っています。彼が本当に言いたかったのは以下です。

「神は死人のために奇しいみわざを行われない。」 
「亡霊は起き上がらず、神をほめたたえない。」
神の恵みが墓の中で宣べられることはない。神の真実が滅びの淵で宣べられることもない。」
神の奇しいみわざが闇の中で知られることはない神の義が忘却の地で知られることもない。」

死んだクリスチャンが、よみ(墓の中、滅びの淵、闇の中、忘却の地)で、神の恵み、真実、義、奇しいみわざを宣べ伝えることはできないし、死んだ未信者もそれを理解することができません。

イザヤ38:18~19
よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず穴に下る者たちはあなたの真実を待ち望みません生きている者、ただ生きている者だけが、今日の私のように、あなたをほめたたえます。父は子らにあなたの真実について知らせます。

よみにいる死者たちが福音を聞いて神をほめたたえ、賛美することはありません。福音を待ち望んでさえいません。生きている者だけが神をほめたたえ、神の真実について知らせることができます。

詩編146:4
霊が出て行くと人は自分の土に帰りその日のうちに彼の計画は滅び失せる

死人がよみで知的活動や肉体的活動をすることはできません。クリスチャンが自分の死後、よみで伝道したいと願っても、その計画は実現しません。

③ 福音を信じても人は天(パラダイス)に上らない

人が天に上ることを聖書は明確に否定しています。

ヨハネ3:13
だれも天に上った人はいません。しかし、天から下って来た者、人の子は別です。

天から来られたイエス様ご自身が、天に上った人はいないと証言されました。主だけが死からよみがえり、天に上られました。他によみがえった人はいません。

では、クリスチャンは死後パラダイスに行くのでしょうか?

伝道者9:2~3
すべてのことは、すべての人に同じように起こる同じ結末が、正しい人にも、悪しき者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえを献げる人にも、いけにえを献げない人にも来る。善人にも、罪人にも同様で、誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様だ。日の下で行われることすべてのうちで最も悪いことは、同じ結末がすべての人に臨むということ。そのうえ、人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり、その後で死人のところに行くということだ。

クリスチャンにもノンクリスチャンにも同じ結末である死が臨みます。 人が死ぬと、霊は天に帰り、からだは朽ち果て、たましいは死人のところに行きます

 しかし、クリスチャンには特別なことが起こります。

主が天から降って来られ、主の再臨を信じてよみで眠っていたクリスチャンに、新しいからだを造ってくださいます。そしてそのからだに、天に帰っていた霊を入れて下さると、たましいは眠りから覚め主の声を聞いて墓から出て来ます。私たちは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです(Ⅰペテロ1:5)。

イエス様がよみで宣教し、福音を信じた人がパラダイスに上ったというのは真実ではありませんクリスチャンも死後パラダイスに行くわけではありませんパラダイスについてはこちらを参照)。

「不信者の霊魂はよみで苦しめられ、クリスチャンの霊魂は天国(パラダイス)で神様と幸せに暮らす」というのは聖書の教えではありません

④ ラザロと金持ち

ルカ16章「ラザロと金持ち」のたとえ話は、よみとはどんなところか、よみにいる死者はどんな状態にいるかを教えているのではありません。これは死人の世界の物語ではありません。金持ちが意識を持ち、五感も働き、アブラハムと会話していたことから、彼らがいたのはよみではありませんこれは、よみがえった後の物語なのです(解説はこちら)。

この物語は、イエス様が神の国に入るために富を正しく用いることについて教えられたたとえ話の一つで、解釈するためには、前後関係を理解することが必要です。

この物語の前には「不正な管理人」のたとえ話があり、ます。イエス様は、永遠の住まい(神の国)のために不正の富で友を作るように教えられました。管理人は、解雇されても家(神の国)に迎えてもらえるように、貧しい人の借金を減額して友を作りました。

しかしこの金持ちは、貧しいラザロに食物を与えず、友を作らなかったために、永遠の住まいに迎えてもらえませんでした。ラザロは信仰の父アブラハムと共に神の国で食卓に着いていましたが、金持ちは外に放り出されてしまいました(ルカ13:28参照)。イエス様は、「善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受ける(Ⅱコリント5:10)」と教えておられたのです(詳細はこちら)。

イエス様は、神の御心を行って神の国に入ることについて、9つのたとえ話(ルカ12~16章)を用いて、段階を追って教えておられます。ラザロと金持ちはその最後のたとえ話です。そして19章には、実際に友を作るために行動して、主に救いを宣言されたザアカイの実例があります。詳細はこちらにまとめました。

全体のテーマとイエス様の意図を理解せず、前後の文脈にそぐわない解釈をする(永遠のいのちを得るための教えを、聖書に存在しない死者の世界の教えにすり替える)なら、主の大切な教訓を理解できないばかりか、間違った教理で教会を混乱させることになります。他宗教の教えや世の教え、自分の思い込みや願望を入れて解釈するのではなく、聖書の御言葉だけに根拠を置いて解き明かすことが重要です。

4.生きているうちに福音を伝える

死後に福音を信じたら救われるというセカンド・チャンスの3つの主張は、御言葉によって完全に否定されます。このような間違った教えを生み出す原因として、キリスト教の教理上の問題、異教や哲学から取り入れた異なる思想の問題があります。

1.よみ/ゲヘナ/地獄、 天国/パラダイス/神の国についての混乱

・「霊魂が死後に行く場所」という意味での天国・地獄という概念は聖書には存在しません。こちらにまとめましたのでご一読ください。

2.たましいについて聖書と異なる教え

・人が「霊・魂・身体」の3つからできているというのはギリシャ哲学。聖書は「」と「」を区別します。
・聖書的たましい はギリシャ哲学の魂とは別物。たましいは目に見えない意識体ではなく、実態があり、触れることができる生き物の全存在を表します。知的活動も肉体的活動も行い、死によって活動を停止します。
・罪を犯したたましいは滅びます。「肉体が滅びても、霊魂は別世界で生きる」という教えは「あなたは神のようになる」という教えです。

3.救いと滅び

・「イエス様を信じたら天国に行き、信じなければ地獄に落ちる」という伝道方法は的外れです。
救いとは、霊魂が雲の上の天国(パラダイス)に行くことではなく、神の子どもとして地に到来した神の国(キリストの王国)を相続し、神と共に永遠に生きることです。そのためには、新生し、栄化される(栄光のからだに変えられる)必要があります。

よみで伝道することはできません。人間という存在について、そして信仰者の永遠の目的地について、正しく学んでください。 自分も相手も生きているうちに、福音を伝えましょう。主が祝福してくださいますように。

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