終末的視点で祈る主の祈り(4)御国を継がせる「霊的いのちの糧」

祈り
過ぎ越しの祭りの食事
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主の祈りは前半と後半に分けることができます。

前半の祈りの課題は、全地で創造主の御名が聖とされ(あがめられ)ること、地上に神の国が到来し、創造主の御心が実現することです。後半の課題は、聖徒たちに日ごとの糧が与えられること、罪が赦されること、誘惑から守られて悪から救われることです。言い換えると、御国の子として成長し、聖別され、最終的に約束の御国を受け継ぐための祈りです。

ルカ11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
マタイ6:11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

今回は、私たちにとっての「日ごとの糧」とは何か、初代教会はこの課題をどのように祈ったのか考えてみます。

1 日ごとの糧を求めるとは

① 救いの完成を目指し、日ごとの糧を求め続ける

私たちは日ごとの糧をどのように求めたらよいでしょうか?

マタイ6:7~9
 また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。ですから、あなたがたはこう祈りなさい。・・・

異邦人(異教徒)の祈りは自己中心で、衣・食・住の必要や、地位・名誉・権力・この世での成功など、自分の欲しいものを一方的に要求します。イエス様は、神の民はそうであってはいけないと言われました。神は既に必要をご存じであるからと。

創造主の視点から見た時、神の民に必要な「日ごとの糧」とは何でしょうか? 主の祈り全体の中で、「糧」が何を指しているのかを探る必要があります。まず前半の祈りとの関係で考えてみます。

御名が聖とされる(あがめられる)」ことは、人が救い主を知り、創造主との正しい関係を取り戻すことから始まります。偽りの神々を拝む人々が真理を知るなら、天地の創造主だけを聖とし、真の神としてあがめるようになります。そのためには、「罪と救い、救い主と救いの方法、永遠の御国と永遠の滅び」に関する知識が必要です。この祈りは、神の国において、天地のすべての被造物が永遠に神をあがめるようになる時、最終的に成就します。

御国が来て、御心が天で行われるように地でも行われる」ことは、人類の救いの完成とともに成就します。御国(地上の神の国)は、神に立ち返った人々が最終的に受け取る相続地、「信仰の目的地・ゴール」です。主が再臨されると永遠のいのちが実現して人類救済計画が完成し、地上に義と平和の永遠の神の国が始まります。被造世界は、創造主がご計画されていた通りの「非常に良い」状態になります。

父なる神のご計画は、神の国が地上に到来して神と人が共に住み、神の祝福と完全な支配が実現することです。「日ごとの糧をお与えください」という祈りは、「救いの始まり」から「救いの完成」に至る時まで、主が再臨されて「御国が来る」時まで、主を信じる者にとって必要な糧が与えられることを求める祈りです。

② 霊的ないのちの糧を求める

主の祈りを教えられた後で、イエス様は神と富の両方に仕えることはできないと言われました。

マタイ6:25~34
 ・・・何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。・・・あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。・・・ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます

イエス様は、空の鳥を養い、野の花を装ってくださる父なる神は、生活のために必要なものはご存じなのだから、いのちからだのことで心配しなくて良いと言われました。そして、求めるべきものは神の国と神の義であると言われました。この文脈から判断するなら、私たちが求める「日ごとの糧」は、物質的なものというより、神の国を相続するために必要な霊的な糧を意味していると思われます。

私たちは「霊的いのちを養う霊的な糧」を求め続ける必要があります。

「日ごとの」と訳されているギリシャ語の「エビウーシオス」には、二つの意味があります。
 ①存在するために必要な、その日その日に必要な、朝ごとの
 ②明日の・将来の(後の世のための)

初期のユダヤ人のために書かれたアラム語聖書では、「明日(未来・将来)の」という意味で使われており、新しい時代(御国)のいのちのために必要な糧と考えることができるそうです。

終わりの時代には自然災害や戦争が多発し、世界的な食料飢饉が生じることが預言されていますが、偽教師や偽預言者が多く現れ、御言葉の飢饉が訪れることも懸念されます。食料備蓄も必要ですが、神の国の相続に目標を定め、霊的ないのちの糧を蓄えることが必要です。日ごとの糧は、神の国の到来に備え、自分自身を日々、霊的に養うものであると考えられます。

2 初代教会の集会と主の祈り

初代教会のクリスチャンはローマ帝国の支配下で政治的に抑圧され、貧しく、さらに信仰ゆえの激しい迫害を受けていました。彼らは主の再臨を待ち望み、主の教えて下さった祈りを真剣に祈っていたことでしょう。

① 主の晩餐と主の祈り

「主の祈り」は、信仰共同体の最も基本的な祈りとして、集会ごとに祈られていたと考えられます。初代教会の集会の中心は「主の晩餐」で、それは最後の晩餐でのイエス様の教えに基づいています。

Ⅰコリント11:23~26
 主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

イエス様は、ご自分のからだと血によって結ばれる新しい契約を、パンとぶどう酒で記念するように命じられました。弟子たちは主の命令を「主の晩餐として行うために、週の初めの日の夜(土曜日の夜)、家々に集まりました。主の死と復活を覚えながらパンを裂き、ぶどう酒を飲み、新しい契約を感謝して共に食事し、信仰の交わりを保っていたのです。

当時、新約聖書はまだ書かれていなかったので、福音を伝え、信徒たちを教育するために、使徒たちは、自分たちの見たこと・聞いたことを語り伝えたと思われます。

主の死と復活を目撃した弟子たちは、「イエス様こそ約束された救い主・神の子である」と証言し、「旧約聖書の預言が成就し、十字架の御業によって贖いが完成した」と力強く解き明かしたことでしょう。そして死に勝利し、今は天の御座に着いておられる主がまもなく戻って来られると励まし、主の教え(ことば)を分かち合ったことでしょう。

主を信じる者たちは主の再臨の約束を握り、やがて自分たちも復活して主と同じ栄光の姿に変えられるという希望を告白し、神の国の到来を期待して、信仰をもって主の祈りを祈ったと考えられます。

② 過ぎ越しが神の国で成就することを祈る

最後の晩餐は、過ぎ越しの祭りの夕食でした。過ぎ越しの祭りは、主がエジプトを裁き、イスラエル民族をエジプトの奴隷から解放して下さったことを記念する祭りです。

出エジプトの前夜、イスラエルの民は羊をほふってそのを門と鴨居に塗り、旅支度をして、種無しパンと焼いた羊の肉を食べました。神がエジプトに送った死の使いは、血を塗った家々を通り過ぎて行ったので、イスラエル人は誰一人死ぬことなく守られ、血を塗っていなかったエジプト人の家では全ての長子が殺されました。

全ての人は神の前に罪人であり、罪のためにいのちの代価を支払わなければなりません。いのちは血にあるので、血を流すことで代価を支払うことになります。もし罪人が死なずに神の前に出たければ、自分の身代わりの血を携えて行かなければなりません。そのために動物の血が流されました。

過ぎ越しの羊は、その家に住む人々の身代わりに殺されたのです。羊の血を塗った家でその肉を食べた人は、罪の代価を支払ったと見なされ、死を免れることができたのです。

イスラエル民族は、神が先祖たちをエジプトから救い出してくださったことを記憶し、後の世代に伝えるために、過越しの祭りを守ることが定められています。

最後の晩餐は、イエス様と弟子たちが一緒に食した最後の過ぎ越しの祭りの食事でした。その席で主は、出エジプトの過ぎ越しに代わる新しい過ぎ越しについて語られたのです。

ルカ22:15~16
イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません。」

出エジプトの時の過ぎ越しでは、ファラオとその軍隊は紅海の水に飲まれて滅ぼされ、イスラエル民族はエジプトの奴隷から解放されて、カナンの地を受け継ぐことができました。

過ぎ越しが神の国において成就する時には、悪魔と反キリストの軍勢は滅ぼされ、主を信じる者は死と滅びから救い出されて、永遠の神の国を受け継ぐことができます

神の国に入るためには、出エジプトとは別のもう一つの過ぎ越しを体験しなければなりません。イエス・キリストは、その新しい過ぎ越しの羊として屠られたのです

マタイ26:26~28
また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。

出エジプトの過ぎ越しが予表していたものはキリストの十字架上の死であり、屠られた羊はイエス・キリストの型です。羊の肉はキリストのからだを予表し、羊の血はキリストの血を予表していました。

最後の晩餐で弟子たちは、自分たちの罪のために死なれる主のからだを象徴するパンを食べ、主の血を象徴するぶどう酒を飲みました。初代教会の信徒たちは、過ぎ越しが神の国において成就する日(神の国を受け継ぐ日)を待ち望みつつ、主が教えて下さった祈りを、心を合わせて祈ったことでしょう。

3 日ごとの糧とはキリストのみことば

主の祈りは、イエス様をメシアと信じる者たち神に選び出されたエクレシアのための祈りです。
日ごとの糧とは、信仰共同体にとって必要な霊的糧であると言えます。

 ① 御子キリスト:天から下ったいのちのパン

イエス様は肉体を採った神のことばであり、「いのちのことばと呼ばれています(Ⅰヨハネ1:1)。

ヨハネ1:1~4
 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。

イエス様は天から下って来た「いのちのパン」です。

ヨハネ6:32~33、47~48、51
 わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。と言うのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。・・・まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。・・・わたしは、天から下ってきた生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのためのわたしの肉です。

イエス様は「いのちのことば」であり「生けるパン」です。「私たちの身代わりにイエス様が肉を裂かれ、血を流された」と信じることが「いのちのパン」を食べることです。私たちは聖餐式で、主のからだを象徴するパンを食べ、主の血を象徴するぶどう酒を飲み、イエス様を覚えて感謝を捧げます。

② みことば: 永遠のいのちに至る食物

イエス様は、「2匹の魚と5つのパン」の奇跡の後、ご自分を追いかけて来た群集に言われました。

ヨハネ6:27
 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。

物質的な必要(肉の糧)を祈ることも必要で、主はその祈りを聞いて下さいますが、永遠のいのちに至る霊的な糧を求め続けることがもっと必要です。

悪魔は、イエス様が40日間断食された後、石をパンに変えて空腹を満たすように誘惑しましたが、主は申命記のみことばで悪魔を退けられました。

マタイ4:4
 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」

人は物質的存在であると同時に、神のかたちに造られた霊的存在でもあります。神の言葉によって養われ、生かされている存在です。

パウロは、聖書のみことばが人を育て、救いに導くと教えました。

Ⅱテモテ3:15~17
・・・聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

みことばは、「永遠のいのち」に至るために必要な霊的食物です。神の民を成長させる霊の糧であり、遠の御国に備えさせるものです。

③ イエス様の肉を食べるとは、みことばを食べること

ヨハネ6:54~57
 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

イエス様の「肉を食べ、血を飲む」とは、みことばを食べ、血によって清められることです。肉を食べるなら、その肉は食べた人の中で消化、吸収され、その人自身の肉に代わります。みことばを食べ続けるなら、その人の中で霊的ないのちが成長し、霊のからだがが造られ、終わりの日に永遠のいのちによみがえることができます。

みことばは、永遠のいのちに導く霊的食物です。みことばを食べるとは、みことばを学び心で深く思いめぐらし、実践することです。

4 エクレシアを養う神のことば

① 復活の主がパンを与えて下さる

イエス様は、安息日の始まる前(金曜日の日没前)に墓に葬られました。そして週の初めの日の明け方早く(日曜日の早朝)に、復活されました。同じ日の午後、主はエマオ途上にいた二人の弟子たちの霊的目を開き、ご自分が復活されたことを示されました。

ルカ24:27、30~32
それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。… そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエスだとわかったが、その姿は見えなくなった。二人は話し合った。「道々お話くださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」

イエス様は旧約聖書のみことばから、ご自分がメシアであり、死から復活されたことを説き明かされましたが、二人の弟子は悟ることができませんでした。しかし、主がパンを裂いて渡して下さった時、彼らの霊の目が開かれ、主であることがわかりました。みことばの教えと啓示、そして恵みが必要です。

2人がエルサレムに引き返すと、弟子たちが集まり、主が復活されたと話し合っていました。すると、ユダヤ人を恐れて隠れていた弟子たちにイエス様ご自身が現れ、ご自分の手足を見せ、焼いた魚を召し上がり、ご自分が生きておられることを証明されました。

聖書を読むこと、礼拝メッセージを聞くこと、互いにみことばを分かち合うことも、霊的な糧を得ることです。主が一人一人に分け与えて下さるみことばを食べましょう。それは私たちの霊的成長と霊的健康のために必要なみことばです。そして主がくださった霊の糧を、信仰共同体で分かち合いましょう。主が教会の霊の目を開いて下さいますように!

みことばが語られる時、そこに主がともにおられ、私たち一人一人の霊的目を開いて悟らせ、養ってくださいます。私たちはみことばを分かち合うことで、互いに養い合うことができます。

② 友人のためにパンを求める

イエス様は、主の祈りを教えられた後、たとえ話をされました(ルカ11:5~13)。

旅の途中で訪ねてきた友人のために、ある人が夜中に隣人を起こしてパンを求めます。隣人は迷惑がり、出て来てくれないが、あくまでしつこく求め続けるなら、うるさがって願いを聞き、パンを貸してくれるという話です。このたとえ話の後、イエス様はこう続けられました。

ルカ11:13
 天の父が、求める人たちにどうして聖霊を下さらないことがありましょう。

この文脈では、パンを求めることと聖霊が与えられることに関連性があります。

ヨハネ6:63
 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、であり、またいのちです。

 イエス様のことば=霊=いのち であり、聖霊は「イエスの御霊」です。

ヨハネ16:13~14
 その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。

聖霊が「キリストのことば」を悟らせて真理に導き、将来の事も教えてくださいます。聖霊によっていのちを養う霊的なパンが与えられるように求めましょう。

③ 御国が来るまで、みことばを実践し続ける

イエス様の言葉を実践する人は、永遠の住まいの備えをすることができます。

マタイ7:24~27
 わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。

みことばを行う人は賢い人、行わない人は愚かな人です

花婿を待つ娘たちのたとえ話では、5人の賢い娘は予備の油を持っていて、花婿が来た時に迎えに出たので、光と喜びに溢れる祝宴会場に花婿と共に入ることができました。5人の愚かな娘は、油が切れていて花婿を迎えに出なかったので、祝宴会場から締め出されて、暗闇に取り残されてしまいました。祝宴会場は御国(新しいエルサレム)のたとえです。

みことばを行う賢い人は、御国を相続します

使徒20:32
 今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

私たちの信仰生活のゴールは「御国」です。主が再臨され、御国が地上に来る時まで、日々みことばを読み、実践する人は、御国を相続することができます。
みことばを日ごとの糧とし、みことばに教えられ、永遠の御国にふさわしい者・キリストに似た者へと造り変えられましょう。その日を喜び迎えるために!

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